[巻渕彰/写楽さい]
2009年8月27日 11:31
一石橋南詰西側に「迷子しらせ石標(いししるべ)」があるが、この正面下部に「不」の形をした水準点標識の彫り込みがされている(写真の矢印・丸印部)。写真では見えにくいが実物でははっきり読み取れるので、ご確認いただきたい。
これは「几(き)号水準点」と呼ばれ、明治9年(1876)ごろに内務省が実施したイギリス式の測量点で、標識の形が机に類似しているところから「机=几」とされた。またその形から、不号水準点ともいわれたという。
当時の水準点は独立した標石のほか、恒久的な建築物もしくは石組みなどに、「不」の字に似たこの標識を刻みこんだ。測量はその横棒部分に測量器具をあてて標高を計測したという。英語では「Bench mark」と呼ばれている。基準点は霊巌島水位標をゼロメートルとした。
これらの標識は各所に設置されたが、その後は測量方式が変更されたりして、使われなくなったそうだ。ところがこの歴史の痕跡が現在でもいくつか残っている。よく知られた場所は、港区の国道15号線第一京浜、高輪大木戸石垣遺構の道路側・下部面にある。そこは、道路に出ないと見られないので、通行する自動車に注意が必要だ。
この「迷子しらせ石標」は
東京都指定文化財で、安政4年(1857)、日本橋西河岸町の町人が建てたという。柱の正面には「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側には「志(し)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られ、上部に窪みがある。窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、尋ね人を知らせたという、いわば伝言板。人通りが多く、人の集まる場所だったことを物語っている。類似のものは湯島天神に「奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)」がある。
碑の建っている現在地辺りは、戦後埋め立てられた外堀縁なので、以前は南詰東側に建っていたが、高速道路工事のために移設されたそうだ。
石標脇の「一石橋の親柱」は中央区民文化財で、大正11年(1922)建造し、関東大震災でも破損しなかったRC(鉄筋コンクリート)アーチ橋のものとしては、都内最古の親柱で貴重な近代文化遺産とのこと。
[巻渕彰/写楽さい]
2009年8月21日 09:00
50周年記念事業「まち歩き文化コース」第2回目の銀座コースが8月20日(木)午後2時から開催され、好評のうちに終了した。今回の実施は第1回に引き続き、「中央区文化財サポーター協会」が担当した。
写真は三原小路で参加者の皆さん(掲載のご了解を得て撮影したものです)。
この日、午後3時の気温30℃、湿度60%で晴れて炎天下であったが風があったためか、気分的にやや一息ついた感じだった。集合場所の数寄屋橋公園に集まった参加者は10数人。参加者の多くは中央区民であったが、なかには他地域からの来訪者も含まれた。さっそく、2組に分かれルートをまわる。
かつての外堀、現在の千代田区との区境である高速道路に沿って区立泰明小学校へ。藤村、透谷の出身校であり、東京都歴史的建造物となっているツタの絡まる校舎を眺めつつ、先に進む。路地奥には銀座文化の歴史を刻んだ老舗バーが今も佇んでいる。おしゃれな並木通りは銀座らしい雰囲気を醸し出し、啄木碑に立ち寄る。交詢社ビルは様相を変貌したが、一部に往時の面影も残る。隣接した昭和初期の古いビルは取り壊しの最中で、歴史からまた消えていく姿を目の前にする。
銀座で一番長い路地に入る。途中にある3カ所の自動扉に驚きを感じつつ進むと、まもなく稲荷神社に着く。金春通りには銀座煉瓦街遺構など、地元有志の努力で歴史が凝縮されている。東海道であった中央通りから東側には、芝口御門跡、しがらき茶屋跡、三十間堀跡など江戸からの話題に事欠かない。
「銀座でブラジルコーヒーを飲む」が「銀ブラ」とうたう、喫茶店を越え、商法講習所跡から中央通りを歩くとかつての尾張町。ここは江戸期3店の呉服商が軒をならべたところ。三原小路から三十間堀だった三原橋跡をくぐり、四丁目裏へ。銀座のミツバチで有名なビルを横にして、お稲荷さんでお参り。
ガス灯通りにはレプリカであるがガス灯が4基、今も点っている。ガスの次に登場した電灯は、中央通りに15mの電気灯柱が建っているので実感できるところである。明治近代化で華やかな中心地は、今日、四つ角に海外ブランドショップが競っている現代銀座のシンボルに様変わり。すぐ近くは「銀座発祥の地」、これこそ銀座の原点である。ここで約2時間の銀座まち歩きを終える。
参加者の感想は「はじめて見たところが多かった」「裏道は知らなかった」「面白く、楽しかった」などが聞かれた。何よりも嬉しかったのは、参加者の皆さんのご協力で、このまち歩きを盛り上げいただいたことであった。歴史に詳しい方との対話など、今までにないご理解に厚く感謝したい。
[巻渕彰/写楽さい]
2009年8月13日 09:30
日本橋兜町に「中央区立阪本小学校」(写真上)がある。明治6年(1873)創立の第1大学区第1中学区第1番学校なので、通称「一、一、一学校」として歴史は古く、また谷崎潤一郎出身校でも知られている。そのとなりは明治22年(1889)開園の「区立坂本町公園」(写真中)である。お気づきのように、ここに「阪本」と「坂本」、2種の表記がある。
「坂本町」の名は近江国比叡山延暦寺の守護神、日吉大社の門前町である「坂本」に倣って、という。江戸末期の絵図では山王御旅所(日枝神社)門前の西側に所在し、俗称植木店(たな)とも呼ばれた。町名の名残は茅場町薬師、現在の智泉院境内に天保12年(1841)奉納の天水鉢(区民文化財=写真下)があり、「坂本町」と記されている。
「坂本町公園」は江戸期からの歴史的地名を踏襲しているが、それでは「阪本」とは、どうしてなのだろうか。
ご承知のとおり、同じような例がある。江戸期は「大坂」であったものが、今は「大阪」。伊勢国「松坂」は、三重県「松阪」(地名の正しい読みは「まつさか」で、濁らない)と表記する。
こんな俗説がある。
1. 「坂」は傾き、転げ落ちるので不吉だから、よって「阪」に変えたとか。
2. 「坂」には「土に返る」ということで「消滅」につながり縁起が悪いので、「丘・大きい・多い・豊か・盛ん」の意味を表す「阜(フ)」をもとにした「こざとへん」の「阪」が当てられたとか。
3. 「坂」は「士が反く(武士が叛く)」から、「阪」にした。
――など。
「坂=縁起が悪い」が共通項のようであるが、作り話か否か、真偽のほどは分からない。詳しくご存知の方は教えていただきたい。明治期以降「阪」が使われていったようだ。いずれにしろ、この地は「坂」と「阪」が対比できる場所である。
ちなみに「坂」は常用漢字で、小学3年生で習う学習漢字である。しかし、「阪」は常用漢字にはなく、「坂」の異体字とされるが、現在見直し中の常用漢字追加候補には入っているので、「阪本」も「大阪」もようやく大手を振れそうだ。
[巻渕彰/写楽さい]
2009年8月 3日 08:45
中央区 観光協会設立50周年記念事業のうち、「まち歩き文化コース」(詳しくは観光協会HPで)がいよいよ8月2日(日)から始まった。歴史・文化・伝統のある中央区の街を歩きながら見聞を広めて、魅力を知ってもらおう、と企画されたもの。
第1回にあたるこの日、午前中はかなりの雨で午後の開催がどうなるか心配されたが、天の恵みか集合時には曇り空で、雨はひと休み、蒸し暑いが日照りのない分助かる。
集合場所の日本橋南詰東側交番前に集まった参加者は20人ほど、夏休みに入ったことで数人の子どもさんも加わる。今回のガイドは「中央区文化財サポーター協会」の4人が担当した。午後2時からコース説明、注意事項伝達などを終え、2組に分かれてコースに出る。(写真はそのスナップ)
日本橋コースは一般のまち歩きでも人気のあるところ。お江戸で一番の賑わいを見せた足跡をめぐる。江戸橋広小路だった南側から歩く、名水白木屋井戸跡、旧白木屋(コレド日本橋)、西河岸地蔵尊、竹久夢二・港屋ゆかりの地、一石橋迷子知らせの石標を経て、常盤橋門跡へ向かう。
明治10年(1878)改架という、古い石橋の常磐橋(常盤橋ではない)では、あちらこちらに入ったひび割れを目の前にして感嘆の声が聞こえる。日本銀行本店本館前では、その威厳の建物に目を奪われる様子。貨幣博物館で短時間ながらの見学と休憩をとる。
三井本館、かつての三井越後屋である日本橋三越からむろまち小路へ。このあたりは商店が並ぶが、日曜で閉まっているところも多い。このため平日は混むところも空いていて歩きやすい。三浦按針屋敷跡を経て、日本橋魚河岸跡へ。江戸初期から栄えてきた魚市場が同じ中央区の築地に移転したのであるから、中央区にとっては大事な歴史・観光スポット。その歴史を知ることが伝承の重要なことである。終わりに近づいたころから、小雨が降りだしてきた。国指定重要文化財の「日本橋」橋上で、五街道の基点となった道路元標、まもなく100年を迎える日本橋の装飾などを眺めつつ、2時間のまち歩きを終える。
今回の参加者の多数は
中央区
在住の皆さん。表通りは見たことがあるが、横道や史跡などゆっくり知る機会も少ないようで、はじめて歩いた、知った、という声が聞かれた。なかでも印象的だったのは小学生の子どもさんで、一生懸命にノートに書き留めたり、店舗シャッターに描かれた浮世絵を何点か見て、「なぜ、どの絵にも富士山が描いてあるの?」と質問され、子どもたちの鋭い観察力にこちらもびっくり、興味津々だった姿がうれしい。