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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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それからの定信『都旧跡 浴恩園跡』

[海舟] 2009年8月20日 09:30

築地市場正門脇の塀に一枚の説明版があります。
この地が江戸時代、浴恩園と呼ばれた庭園である由来が記してあります。
 
天明7年(1787年)より始まった寛政の改革は寛政5年(1793年)、老中首座・ 
将軍輔佐の松平定信(1758年~1829年)の退任により終結しました。
政策自体は、その後、推進に当たった遺老たちにより文化14年(1817年)
までおよそ24年間継続されます。石川島人足寄場、七分積金、学問吟味などの
制度は幕末まで続きます。

役を辞した定信は再び白河藩の藩政に従事、幾多の難局を乗り越え名君としての
地位を確立します。
文化9年(1812年)、54歳の時、家督を嫡男・定永に譲り、下屋敷である浴恩園に
隠居、楽翁と号します。
浴恩園は寛政の改革のさなかに(寛政4年)、第11代将軍家斉の出自である
一橋家より譲り受け、定信自ら作庭し2年後に完成した、一万七千坪にも及ぶ
江戸湾に臨む風光明媚な池泉回遊式庭園です。
泉水草木を愛で、園内を逍遥しつつ、日記、随筆、和歌、絵画など広範な作品を
編著し、風雅の道を楽しみ悠々自適のうちに晩年の17年間を過ごします。

文政12年(1829年)、神田佐久間町から出火した大火は築地周辺へも及び、
浴恩園すべてを灰塵に帰してしまいます(己丑火事)。
2ヵ月後、後を追うように、楽翁・松平定信は71年を一期として人生の幕を閉じました。
贈正三位。

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建学の精神 『商法講習所』

[海舟] 2009年7月31日 09:00

 

銀座松坂屋前の歩道の植え込みの中に『商法講習所』碑があります。
この場所が、1949年に設置された一橋大学の原点です。
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商法講習所は、慶應義塾の福沢諭吉、日本資本主義の生みの親で
ある渋沢栄一たちの支援のもと、森 有礼(初代文部大臣・1847~
1889)によって1875年に私塾として創立されました。
9年後、農商務省の直轄となり、東京商業学校と改称。
その後、文部省への所管変更,幾度の改称(高等商業学校、東京
高等商業学校、東京商科大学、戦時中に東京産業大学、戦後、再び
東京商科大学 に戻る)を経て、現在の一橋大学へと編成されます。

この間、1909年、東京帝国大学にあわや統合されるという危機に
遭いますが、学校関係者他多数の支持を得て回避されます。
 「産業界の指導者育成」という建学の精神は、官僚の養成を設立目的
とする帝国大学への併合を許しませんでした。(申酉事件)

一橋大学固有の反官学的スタンスは私立大学はもとより、他の国立大学 
とも一線を画すことにより、その光芒を放っています。

この碑が『一橋大学発祥の地』ではなく、『商法講習所』とされたところに
創設期より自由闊達な校風を保持するこの大学の面目と矜持が感じられます。

 

 

芭蕉の足跡

[海舟] 2009年7月21日 16:00

寛文12年(1672年)、漂泊の俳聖・松尾芭蕉(当時の俳号は宗房、
29歳、1644~1694)は、俳諧師として立つべく伊賀上野を出発、
江戸へ下ります。

延宝3年(1675年、32歳)より桃青の俳号を使用。
杉風、基角、嵐雪ら門人、名主、有力商人たちと研鑽を重ね,支援を
得て蕉門を確立させます。
延宝6年、宗匠として立机。

延宝8年、深川の草庵に隠棲するまで、短い期間ですが、ここ
本小田原町(日本橋室町1丁目)の小澤太郎兵衛(俳号・卜尺)店
に住み、
延宝7年歳旦、桃青36歳、この一句を吟じます。
 
  「発句なり  松尾桃青  宿の春」

日本橋北詰のむろまち小路、「日本橋鮒佐」店先。
句碑は芭蕉が日本橋にその足跡を残したことを印しています。
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芭蕉の重要な作品、『野ざらし紀行』、『笈の小文』、そして紀行文学の
最高傑作『奥の細道』は、深川の芭蕉庵転居以降の執筆となります。
芭蕉にとって、日本橋時代は、その後の活動の為の揺籃期であり、
次の飛躍への準備期間となりました。

 

 

ちょっと一服 久安橋公園

[海舟] 2009年7月16日 18:00

喫茶店に入るほどでもなく、ほんのちょっと一服したいとき、ここ久安
橋公園のような空間は最適です。
 
交通量が多い八重洲通りに面しているので、騒音も大きいのですが、
人も鳩も噴水も、みんな一息ついてます。
 
禁煙場所の多いなか、ここはベンチ脇に灰皿も据え付けられ、
 愛煙家は勿論、女性も気兼ねなく喫煙できます。
 
鳩は、御影石調の舗石タイルを敷き詰めた広場で、気持ちよさそうに
リラックス。

心地よい水音を立てる噴水も水量を落として一休みです。

 喧騒のなかの静寂。
キバナコスモスが、盛夏の日をいっぱいに受け、元気良く黄色い花を
満開に咲かせています。
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漱石のおもかげ

[海舟] 2009年7月10日 16:00

 

落語を好み、江戸情緒豊かな下町・日本橋をこよなく愛した明治の文豪・
夏目漱石の石碑が、ここ5、6年の間に、3基建立されています。

一つは、ここ日本橋三越本店屋上に設置された『漱石の越後屋』。

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朝日新聞連載中の長編 『虞美人草』 は宣伝効果もあり大きな反響を呼び、
三越はその名にちなむ 「虞美人草 浴衣」 を発売。これが大評判。需要が
多く生産が追いつかず大いに売れたようです。

また、コレド日本橋 (ここは三越のライバル白木屋跡) アネックス広場には
『漱石 名作の舞台』の碑。
青春小説『三四郎』では三代目小さんを聴きに寄席へ、秀作 『こころ』 では
往時のグルメ街・木原店で主人公達に食事をさせる場面を描いています。

そして、清洲橋たもとの中洲には 『漱石「猫」上演の地 真砂座跡』
が置かれています。「猫」とは、勿論、代表作 『吾輩は猫である』。

 いずれの碑文も早稲田大学の第14代総長・奥島孝康教授の
揮毫になります。若き日の漱石が、東京専門学校(現・早稲田大学)で
約3年余り、講師をしていたからでしょう。

江戸のこころと明治の近代的思考、漢学と英文学の融合。
高踏派というジャンルに色分けされる漱石ですが、その持ち味は
あんがい、江戸っ子気質、庶民の匂いのする洒脱さに隠されて
いるのかもしれません。

 

 

獅子頭御巡行

[海舟] 2009年6月19日 17:46

14日(日曜日)、波除稲荷神社「つきじ獅子祭り」の最終日。
~復活 江戸の祭り~です。
厄除天井大獅子、弁財天お歯黒獅子、そして各町会の
獅子頭が築地の町内を巡行しています。
 
宮出しされた天井大獅子、弁財天お歯黒獅子は安置されているときと比べ、意外に大きい。
獅子頭全体があると思っていましたが、後ろ半分がカットされているのは予想外です。

神社御鎮座350年の今年より、2年後の本祭り(奉祝大祭)
までいろいろな記念行事が予定されています。
関心をお持ちの方は、今後、定期的なチェックが必要です。