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幕末の福沢諭吉  『慶應義塾発祥の地』

[海舟] 2009年12月 1日 09:00

『蘭学事始の碑』に隣接して『慶應義塾発祥の地』の碑があります。

大坂・適塾の塾頭である福沢諭吉は、中津藩江戸中屋敷に招かれ、安政5年<1858>蘭学塾を開設しました。これが慶應義塾創立の地となります。

 碑は創立100年を記念して昭和33年に設置されました。『蘭学事始の碑』と同じ、建築家・谷口吉郎設計による作品です。本型の碑文には、有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(『学問のすすめ』)が、見開きの左右ページに刻まれています。

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 先達の中津藩医師・前野良沢、小浜藩医師・杉田玄白たちによる『解体新書』訳出の苦心談を著した杉田玄白『蘭学事始』の偉業を称え、明治2年、福沢は序文を附し同書を出版します。

 安政6年、「蘭学者」福沢は開港したばかりの横浜へ見物に出かけます。そして、同地では英語が使われており、オランダ語がまったく通じないことに衝撃を受け、これからの英語の必要性を痛感しこの言語の習得に努めます。

 時あたかも、日米修好通商条約の批准のため、使節団が渡米する時期でした。
その随行艦・咸臨丸に軍艦奉行・木村摂津守喜毅の従僕として乗り込むことができました。江戸蘭学の宗家・桂川家七代甫周(国興)邸に出入りしていた福沢はこの筋からの力添えで、桂川家と姻戚関係にある木村摂津守への推挙を得ました。明治期以降も木村芥舟(摂津守)とは生涯に亘り好意と親交を持ち続けたことは当然の成り行きでしょう。これに対し、勝海舟には乗船時から折り合いが悪く、終始良い感情を持てず、後年、『痩我慢の説』(明治24年執筆、同34年発表)では海舟の明治維新後の身の処し方について大いに批判しました。

 帰国後、福沢の蘭学塾は英学塾へと転換を図ります。

文久2年<1862>、竹内下野守保徳を正使とする欧州各国への使節団が結成され、後の外務卿・寺島宗則、東京日日新聞を起こす福地源一郎、そして箕作秋坪たちと共に随行、ヨーロッパ各国の諸制度を見聞し、日本への導入の重要性を認識します。

 慶応3年<1867>、幕府は米国へ注文した軍艦「富士山」の受け取りの使節を派遣します。この時、その一員(幕府外国奉行翻訳方)として再度、米国へ渡ります。
幕末期、既に都合3度、欧米を視察したことになります。

明治維新を直前にして、『西洋事情』を著した福沢諭吉は、後年、近代日本創設の第一人者、明治期を代表する思想家、教育者、開明論者、そして啓蒙思想家として輝かしい足跡を歴史に刻みました。

 慶応4年4月、芝新銭座に移転した私塾・福沢塾は「慶應義塾」と命名されます。

 


参考図書: 飯田 鼎 『福沢諭吉』 中公新書
        福澤諭吉著作集 第12巻
        『福翁自伝 福澤全書緒言』 慶應義塾大学出版会

 

 

 

桂川甫周の光栄 『桂川甫周屋敷跡』

[海舟] 2009年11月 9日 09:00

 

 寛政5年(1793年)9月、11代将軍・家斉、前老中首座・将軍補佐・松平定信以下

幕閣が列座するなか、鎖国下、遭難・漂流のすえ10年に亘りロシアに逗留、

首都ペテルブルグにおいてエカテリーナⅡ世に謁見、かの地の国情を見聞し

奇跡的に帰国した2人の伊勢漂流民・大黒屋光太夫と磯吉は、江戸城内吹上御所にて

尋問を受けました。

 

 様ざまな尋問の結果、南下政策をとるロシアは、日本の社会、文化、地理等

各種広範囲に渉る情報を収集していることが判明、更にロシアにおいて周知されている

日本人として桂川甫周、中川淳庵の名が挙げられます。

 

 光太夫の口から発せられた「カツラガワホシュウ」の言葉を聞いたとき、

当の桂川家4代・甫周国端(くにあきら)の驚きと感慨はいかばかりであったでしょう。

 そして今、面前に陪席、尋問している人物こそが桂川甫周その人であると分かったとき、

光太夫もまた驚きを隠せなかったでしょう。

 

 将軍家斉に与えた感銘は深く、列席する幕閣周辺より賛辞を得ます。

その後、この訊問は引き続き場所を他所に移し詳密に実施され、幕府及び甫周に

多大な情報を提供しました。

 

 後日(寛政6年)、この研究成果は桂川甫周『北槎聞略』に結実します。

 

 桂川家はこれ以降も、将軍侍医(奥医師)として誠実に役割を勤めると共に

市井にあっては自由闊達で温厚な家風の下、徳川幕府崩壊まで、江戸蘭学の宗家として

オランダ流外科の学風を守り、江戸蘭学界において大きな役割を果たしました。

 

参考図書 : 戸沢行夫 『江戸がのぞいた<西洋>』 教育出版
         山下恒夫 『大黒屋光太夫』 岩波書店

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西洋医学の暁 『蘭学事始の地』

[海舟] 2009年10月21日 10:00

明和8年(1771年)3月、千住小塚原の刑場で、罪人の腑分け(解剖)
に立ち会った前野良沢、杉田玄白、中川淳庵の3人は驚きの念を隠しきれ
ませんでした。

腑分けされた死体の組成が、持参した『ターヘル・アナトミア』
の記述とおりだったからです。


 翌日、鉄砲州にある豊前中津藩中屋敷内の前野良沢邸に参集した3人
はこの蘭書を翻訳することを決意します。
 
 多くの同士の協力を得て3年余りの歳月を費やし安永3年(1774年)、
『解体新書』として訳出、完成させました。
 公刊に当たっての著作者は越前小浜藩医師・杉田玄白、同・中川淳庵、
一橋家侍医・石川玄常、幕府侍医・桂川甫周の4人でした。彼等の盟主で
あり訳出の主力であった前野良沢の名がありません。一説には不完全な
翻訳の故に、前野良沢は公開することを快しとせず名を連ねることを固辞
した為といわれています。
 
 桂川甫周の父・法眼・3代甫三国訓は杉田玄白とは旧知の仲であり、
また奥医師としての政治的な立場を介して『解体新書』発禁に対する配慮
を策したと思われます。桂川家は初代・甫筑邦教、2代・甫筑邦華を経て
既に侍医として公家そして奥向きにも大きな信頼を勝ち得ていました。
 『解体新書』出版に際し、オランダ通詞・吉雄幸左衛門耕牛が序文を寄せ、
秋田蘭画の開拓者・小野田直武が解剖図を描きました。
 
 『蘭学事始』は杉田玄白が83歳の時、約半世紀に亘る蘭学界の概況、
『ターヘル・アナトミア』訳出に際しての苦労談、蘭学界周辺の人びとの
人物評などを書き記した回顧録です。

  『ターヘル・アナトミア』訳出より84年後の安政5年(1858年)、大阪・
適塾塾頭であった中津藩藩士・福沢諭吉が藩命により、同地に蘭学の
私塾を開設することになります。
 
 『蘭学事始の地』は平成20年(2008年)に創立150周年を迎えた近代
日本最古の私立学校『慶應義塾発祥の地』でもあります。
 
    参考図書 : 全訳注 片桐一男『杉田玄白 蘭学事始』 
                           講談社学術文庫

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オランダ・カピタンたちの江戸定宿 『長崎屋跡』

[海舟] 2009年10月13日 09:30

 オランダ宿・江戸長崎屋は寛永期から嘉永3年(1850年)まで200年以上に亘り、

鎖国下、江戸で西洋に向かって開かれた貿易、文化交流の唯一の窓口でした。

 その為、葛飾北斎(江戸後期の浮世絵師 1760年~1849年)が『画本東都遊』に描

いたように好奇心旺盛な庶民・武家は紅毛の異人を一目観ようと長崎屋前に集まり

あるいは他行中足を止めます。

 

  この時代、他国との交流は対馬藩を通じての朝鮮通信使(12回往来)、薩摩藩を

通しての琉球使節(18回)、松前藩を介しての北方・蝦夷地との交流、そして長崎での

中国との非公開な貿易のみでした。

 なかでも中国貿易のもたらす多量の文物の恩恵にも拘わらず、その頻度と後世に及ぼした

影響度に関していえば、オランダ商館との貿易・交流(166回)は重要な役割を果たしました。

 

 オランダ・カピタン(商館長)、医師、通詞たち一行は江戸参府の為、年1回(寛政2年

<1790年>より4年に1回)春、長崎出島を出発し大阪、京都を経て江戸長崎屋に

宿を取ります。

 定宿・長崎屋には約20日間滞在し将軍への拝謁、各幕閣へのお礼の完了後、多くの

蘭学者、文化人との学術交流及び物品の交換の機会を持ちました。

 幕府天文方・高橋景保、同眼科医・土生玄碩、奥医師・桂川甫周、『ターヘル・アナトミア』を

訳出した前野良沢、杉田玄白、中川淳庵等さらに蘭癖大名たちも連日多数来訪しました。

 

 一方、オランダ商館側ではケンペル、ツュンベリー、シーボルトの3医師が江戸参府

に関しそれぞれ『江戸参府旅行日記』、『江戸参府随行記』、『江戸参府紀行』を著し

元禄期、安永期、そして文政期の日本の社会と文化を広く世界へ紹介しました。

 

 その中でも文政9年(1826年)のシーボルトは積極的に資料・情報を収集しまた人的

交流を広げ滞在期間を一日でも延ばそうと画策します。その工作の結果、長崎屋滞在を

通常の20日から33日へ、出島ー江戸間の総旅程日数を3ヶ月から5ヶ月に延長し見聞

を広めました。カピタン一行の総員は規定の59人を大きく超え107人にもなりました。

 

 しかし、文政11年、帰国の際、収集した品物のなかに禁制品が発見され、翌年、

シーボルトは国外追放処分、これに関連し伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』を提供した

高橋景保、将軍より下賜された葵の喪服を譲渡した土生玄碩他十数名が重い処罰を受けま

した。(シーボルト事件)

 その後、シーボルトは安政5年(1858年)締結の日蘭修好通商条約により追放解除となり

翌安政6年再来日し幕府の外事顧問に就任します。

 

 さらに翌年、即ち万延元年、遣米使節団(正使・新見豊前守正興)に随従するオランダ製

随行艦「咸臨丸」は、軍艦奉行・木村摂津守喜毅、勝麟太郎、福沢諭吉そして中浜万次郎

たちを乗せ、遂に太平洋を渡りました。

 

  これ以降、激動する幕末の波濤を越え、時代は大きく開国に向け舵を取ります。

 

          参考図書 : 片桐一男 『それでも江戸は鎖国だったのか』 吉川弘文館  

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「三吉橋」碑 ~三島由紀夫『橋づくし』~

[海舟] 2009年9月 9日 09:00

中央区は昭和30年代半ばからその街相を一変させました。
昭和39年10月に催される東京オリンピック開催に際し、
首都高速道路建設の為、河川の埋め立てが施工されたからです。
築地川も昭和37年に埋め立てられました。

しかし、三島由紀夫(大正14年~昭和45年)が昭和31年末に発表した
佳作『橋づくし』により、往時のこの周辺の風情を窺い知ることができます。
この短編小説では、中央区役所(建て替え以前の)、聖路加病院、
築地本願寺などの建物が描写されていますが、
その他の風景及び風俗、風習は現在とはまったく装いを異にしています。

物語は、4人の女性が願掛けで築地川に架かる7つの橋を
支障なく無事渡りきれれば各自その願が叶う、という
サスペンス仕立ての構成になっています。
渡らなければならない橋は7つとなっていますが、実際は、
三吉橋、築地橋、入船橋、暁橋、堺橋(この橋は現在ありません)、
備前橋の6つになります。
しかし、ここ三吉橋が三叉橋になっている為、コースを変えて2度渡ることにより、
2つ橋を渡ったと勘定します。

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入船橋の直前で1人が腹痛の為それ以上進めなくなり、
2人目は暁橋上で、知り合いに声を掛けられ、
そして3人目は、最後の備前橋で投身自殺をするのではないかと
誤認した警察官に呼び止められ、やむをえず声を発してしまいます。
彼女ら3人は、旧来からの決まりにより願いは叶えられません。
最後に残った1人が、無事、7つの橋を渡りきり、願掛けに成功します。
落伍した3人についてはそれぞれ具体的で切実な願いが描写されています。
しかし、唯1人、祈願が成就した女性の願い事が何であったのかは
作中明らかにされません。
また、その女性の意外性が予想外で、作品の趣向となっています。

因みに、4人の人物設定は、銀座板甚道にある分桂家の
芸者2人(小弓42歳、かな子22歳)、
新橋の料亭「米井」の箱入り娘(満佐子22歳)、
そしてその料亭に一ヶ月前、東北から来た女中(みな)となっています。

尚、この時代背景を忠実に映している映画のひとつが
名匠・成瀬巳喜男監督による『流れる』(昭和31年東宝作品)です。
舞台は柳橋周辺となっていますが、 当時の花柳界の人間模様と
雰囲気を穏やかなゆったりとしたカメラワークで捉えています。

 

 

 

渋沢栄一と第一国立銀行『銀行発祥の地』

[海舟] 2009年8月31日 18:30

日本橋兜町は、東京証券取引所をはじめ銀行・証券会社が集中している、日本の金融業界のメッカです。その一画に、メガバンク・みずほ銀行の兜町支店があります。
『銀行発祥の地』の銘板はその建物の壁面に掲示されています。

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みずほ銀行の源泉を辿ると、(第一勧業銀行 ⇒第一銀行⇒帝国銀行⇒第一国立銀行と遡り、)第一国立銀行が原点となります。

第一国立銀行は、三井組、小野組の資金を主原資として、明治期の産業界を代表する実業家である渋沢栄一(天保11年~昭和6年)が、明治6年6月、国立銀行条例(明治5年制定)に基づき参与し創立した日本で最初の銀行です。

明治2年、新政府への出仕・大蔵省租税正任命の辞令を受けた渋沢栄一は、元幕臣であった経歴等を鑑み辞退を決意、直接、その意を伝える為、時の大蔵省の実力者、
大蔵大輔・大隈重信(天保9年~大正11年)の築地にある私邸を訪問します。
しかし、若き大隈の新国家形成への強い参画要請と熱意に賛同し、入省を受諾します。
省内では、3年半に亘り、件の国立銀行条例制定他幾多の政策の策定に携わりましたが、予算編成問題を巡って、第3代大蔵卿となった大久保利通(文政13年~明治11年)率いる首脳部との意見の対立が主原因となり、明治6年5月、下野します。

退官後は、一民間人として実業界で、数多くの会社・団体の設立に関与し日本経済界発展の礎を築き、又、後年は社会事業家としても広範囲の活躍をして、大正5年に引退するまで、40年以上に亘り第一国立銀行(退任時は第一銀行)の頭取を続けます。

渋沢栄一は近代日本国家の形成・推進に指導者として大きな役割を果たしました。