『漢方医学復興の地』記念碑
中央区日本橋浜町2-9先
明治7年(1874)に明治政府は西洋医学採用を公布し、ドイツ医学を範として医事制度を確立しました。
漢方撲滅運動のさなか、復興に立ち上がったのがこの地で医師をしていた和田敬十郎です。
彼は明治43年(1910)、衣服や食事にかかる費用を倹約し「医界の鉄椎」を自社出版しました。
この書物に触発された若き医師たちが漢方復興運動を継承し、西洋・漢方の両医学が使われることになります。
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日本橋 滝の広場の歴史
日本橋の袂にある「滝の広場」、ここは江戸時代間口5間の小屋あり、罪人の晒し場でした。 晒し場といっても死体などを晒すのではなく、罪人を朝から夕刻まで並んで座らせるものです。
最初の晒し刑は延享4年(1747)3月、津軽岩松藩江戸詰祐筆役の武士原田伊太夫と吉原堺屋の遊女尾上の心中未遂。 お互い恋に入れ込み、務めは怠りがちに、また借金で首がまわらなくなったためでした。
この事件を新内「帰咲名残命毛(かえりざき、なごりのいのちげ)」として敦賀若狭掾が書いています。 新内では心中をはかった直後、伊太夫の伯父が尾上と結婚させるために身請金を払いハッピーエンドになるというものです。
そんな不浄だった場所も現在では双十郎河岸があり、 そこから日本橋・神田川・隅田川へと船で川巡りができる素晴らしい観光地になっています。 江戸検「五期の会」の町歩き(日本橋・人形町)
5月26日、江戸検1級の「五期の会」・町歩きが行われました。 今回は石川英輔著「神仙伝」シリーズの洋介、いな吉が愛した日本橋・人形町を巡るというテーマです。
地下鉄三越前に集合し、熈代勝覧から始まって常盤橋、一石橋、日本橋高札場と当然のコース。 コレド付近では自由な買物タイムと粋なはからい。 江戸時代は「照降り町」と呼ばれた小舟町を通り人形町へ歩く歩く。 蛎殻銀座跡、玄冶店跡、そして最後に小伝馬町因獄跡。 しばし高杉晋作の気持ちになって吉田松陰終焉の地の碑を見学。その気持ちをすぐに忘れて楽しみな打ち上げ居酒屋へ。
行程17000歩あまり、平均年齢の高い会員達には明日の体調が心配な、しかし楽しい町歩きでした。 浮世小路 高級料亭・百川
嘉永7年(1854)2月10日、日米和親条約締結のための初交渉が行なわれました。
このとき、伝統に基づいた本膳料理を2000両で仕出したと 瓦版に書かれた当時の有名料亭はどこでしょう? 答は日本橋浮世小路の高級料亭「百川」です。 昨年の江戸文化歴史検定で出された問題でした。 百川が出来たのは明和・安永(1764~81)の頃。 天明(1781~87)には名の知られた卓袱料理屋となり、文化文政(1804~30)の頃には本膳料理の高級店として繁盛しました。 1人分の食事代金は最安値で、現在のおよそ1万円相当といわれています。 そんな百川も明治元年に廃業となってしまいました。 室町2-2と2-4の間、三越本店の斜め向かい側。 今は福徳神社がある場所が丁度百川があった所なのだそうです。
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