[Bird]
2009年7月31日 17:00
今日は浜町の珍しい博物館をご案内します。「ボーリング史料館」は明治座のすぐ目の前のビルの3階にあります。1室だけの小さな史料館ですが、ボーリング好きには垂涎のコレクションが並んでいます。
日本でのボーリングのはじまりは何と江戸時代。1861年には長崎、出島にボーリング場ができたのですって。ご存知でしたか?その頃の貴重な史料から、雑誌、書籍、グッズなど貴重な史料が揃っています。写真一番上は出島で使われた日本最古の"木製"ボウル、下はドラマ「ゴールデンボウル」で金城武が使用したボウルです。触りたい~!!(ダメです)
ボーリングは家族みんなで楽しめるスポーツ&ゲームです。ボールがピンを倒す時のあの、バーン!という音。快感ですよね。ストレスが全部吹き飛んでいく感じでしょう?それもそのはず、ピンには硬い楓材を用いて、中には空洞を設け、いい音が出るように設計されているのです。意外にも繊細な仕掛けがあったのですね。現在もボーリングは人気のスポーツで、ジュニア向けの教室なども多数開かれているそうです。私も、何だか青春が甦ってきてしまいました!今週末はボーリングに行ってきま~す!
*ボーリング史料館は予約制です。行く前に電話連絡をして下さいね。(03-3666-5301)
[海舟]
2009年7月31日 09:00
銀座松坂屋前の歩道の植え込みの中に『商法講習所』碑があります。
この場所が、1949年に設置された一橋大学の原点です。
商法講習所は、慶應義塾の福沢諭吉、日本資本主義の生みの親で
ある渋沢栄一たちの支援のもと、森 有礼(初代文部大臣・1847~
1889)によって1875年に私塾として創立されました。
9年後、農商務省の直轄となり、東京商業学校と改称。
その後、文部省への所管変更,幾度の改称(高等商業学校、東京
高等商業学校、東京商科大学、戦時中に東京産業大学、戦後、再び
東京商科大学 に戻る)を経て、現在の一橋大学へと編成されます。
この間、1909年、東京帝国大学にあわや統合されるという危機に
遭いますが、学校関係者他多数の支持を得て回避されます。
「産業界の指導者育成」という建学の精神は、官僚の養成を設立目的
とする帝国大学への併合を許しませんでした。(申酉事件)
一橋大学固有の反官学的スタンスは私立大学はもとより、他の国立大学
とも一線を画すことにより、その光芒を放っています。
この碑が『一橋大学発祥の地』ではなく、『商法講習所』とされたところに
創設期より自由闊達な校風を保持するこの大学の面目と矜持が感じられます。
[巻渕彰/写楽さい]
2009年7月29日 08:45
中央区立浜町公園は、総合スポーツセンターやグランドなどがあり、区民憩いの場所である。江戸期には一帯は武家屋敷地であった。ここに「浜町隧道」と称する中央区内で唯一の隧道(ずいどう)、つまりトンネルがある(写真)。
このトンネルは昭和55年(1980)に建築され、その後、隅田川護岸整備にあわせスーパー堤防化のために、平成11年(1999)11月に改築されたもの。
長さは234m、新大橋側から両国橋方面に向かう一方通行1車線の区道で、首都高速道路や隅田川と並行している。自動車のみ通行できるが、人や自転車は通れない。トンネルの上は浜町公園。
かつて一帯は武家地で、文久期の絵図に細川越中守(熊本藩)、水野出羽守(沼津藩)、津軽越中守(弘前藩)、牧野越中守(笠間藩)などの中・下屋敷が記載されている。
明治維新後も大半は華族が所有し、しかも所有面積は大規模であった。なかでも広大な細川邸が知られている。
明治40年(1907)、この細川家の長屋に移り住んだ、29歳ごろの日本画家・鏑木清方(かぶらき・きよかた=姓は「かぶらぎ」と濁らない)は、
「川縁からちょいとひっこんだ、河岸から清正公様へぬける途中、水門を前に玄関傍の長四畳からは、筏も、白帆も、風が吹いて波が立てば、沖の鴎がはすかいになって飛び交うのがよく見える、細川家の家中の人の世話で初めて日本橋区の住人となったのであった」(1)、
と当時の浜町の情景を著している。
関東大震災後の区画整理で、浜町公園は昭和4年(1929)7月設置開園した。隅田公園、錦糸公園とともに震災復興事業3大公園のひとつである。
現在の浜町公園は46,531㎡(約14,100坪)で東京ドーム(46,755㎡)とほぼ同規模の区内で一番大きな公園。ミスト間歇噴出する「もや立ちの池」や遊具広場、バーベキューが楽しめるデイキャンプ場などがある。毎年8月に開催される「大江戸まつり盆おどり大会」の会場となる。
(1)鏑木清方著『随筆集 明治の東京』所収「浜町にいたころ」、岩波文庫、2009/7第8刷、岩波書店発行
*鏑木清方(明治11年(1878)8月31日-昭和47年(1972)3月2日)は、築地、木挽町で幼少期を過ごし、鉄砲洲〔南八丁堀〕の私立鈴木学校へ通う。一時、湯島に移った後、再び南伝馬町、木挽町、浜町と転居して、
中央区 の地とは関わりが深い。代表作「築地明石町」は著名。著書にも往時の町の様子が載っている。戦後は鎌倉に住み、文化勲章受賞。
■これまでの「中央区 ここに歴史あり」
第1回 「今もある、霊岸島」 こちら>>
第2回 「交差点に残る、今なき橋」 こちら>>
第3回 「区内で一番高いところ」 こちら>>
第4回 「日本橋の隠れた銘板」 こちら>>
第5回 「江戸の町地は中央区の広さ!?」 こちら>>
第6回 「旧新大橋の橋名板」 こちら>>
[shikichan]
2009年7月24日 15:30
1611年 尾張に呉服小間物商"いとう呉服店"を開店。
日本の百貨店のはじまりです。
因みに 1662年 日本橋に白木屋開店。
後に東急が引き継いだが1999年閉店。
1673年 日本橋に越後屋後の三越開店。
1717年 京都伏見に大文字や屋後の大丸。
1831年 京都烏丸に髙島屋開店。
1886年 神田に伊勢屋丹治後の伊勢丹。
1924年(大正13年) 松坂屋銀座店開店。
大震災(大正13年)の翌年、まだ名物の柳も
ない焼け跡で、赤レンガの舗道を踏みしめて、
銀座復興のトップを切ったのであった。
『松坂屋70年史』
1925年(大正14年) 銀座店の屋上に動物園開園。
銀座のど真ん中、しかも高層ビルの屋上で
猛獣を飼っていることで評判になり、「夜の
銀座に獅子の声」などと新聞にもかきたて
られた。『松坂屋70年史』
1929年(昭和4年)
150年ほど前に京都伏見稲荷大社から勧請して祀った
神社。白狐が持ってきた豊川稲荷大明神尊像を祀って
いると伝わり、関東大震災時には、日暮里方面の大火
から町内を守ったという言い伝えがある。
2003年(平成15年) 『銀座の柳 四世』の植樹。
この柳は、昭和34年の銀座通りの改修工事に伴い
日野市の苗圃に移植したものを一世とし、挿し木により
二世、三世、四世と系譜を絶やさないよう育ててきた。
2009年(平成21年) 屋上ビヤガーデン好評開店中
ジンギスカン料理各種あります。
9月まで営業ですが予約や詳しくは
03-3569-3871(営業時間内)
03-3571-2590(営業時間外)
[海舟]
2009年7月21日 16:00
寛文12年(1672年)、漂泊の俳聖・松尾芭蕉(当時の俳号は宗房、
29歳、1644~1694)は、俳諧師として立つべく伊賀上野を出発、
江戸へ下ります。
延宝3年(1675年、32歳)より桃青の俳号を使用。
杉風、基角、嵐雪ら門人、名主、有力商人たちと研鑽を重ね,支援を
得て蕉門を確立させます。
延宝6年、宗匠として立机。
延宝8年、深川の草庵に隠棲するまで、短い期間ですが、ここ
本小田原町(日本橋室町1丁目)の小澤太郎兵衛(俳号・卜尺)店
に住み、
延宝7年歳旦、桃青36歳、この一句を吟じます。
「発句なり 松尾桃青 宿の春」
日本橋北詰のむろまち小路、「日本橋鮒佐」店先。
句碑は芭蕉が日本橋にその足跡を残したことを印しています。
芭蕉の重要な作品、『野ざらし紀行』、『笈の小文』、そして紀行文学の
最高傑作『奥の細道』は、深川の芭蕉庵転居以降の執筆となります。
芭蕉にとって、日本橋時代は、その後の活動の為の揺籃期であり、
次の飛躍への準備期間となりました。
[巻渕彰/写楽さい]
2009年7月16日 18:30
現在の新大橋は昭和52年(1977)改架されたが、その前の明治45年(1912)に架けられた旧新大橋の橋名板(きょうめいばん)を間近に見ることができる。とはいっても、中央区側の「新大橋の橋名板」は区民有形文化財であるが、残念ながら一般公開されていないので、今回紹介するのは、
江東区側のものである。
新大橋の創架は元禄6年(1693)という、決して「新しい大橋」でなく「古くからの橋」である。先に通じた両国橋が当時「大橋」と呼ばれたことから、その次に架けられたので「"新"大橋」と名付けられたという。松尾芭蕉は開通にあたり、
ありがたや いただいて踏む はしの霜
と詠んだ。歌川広重が京橋・大鋸町(おがちょう)で描いたであろう『名所江戸百景』「大はしあたけの夕立」は西洋美術の世界にジャポニズム旋風を起こした。
明治45年(1912)7月に竣工した旧新大橋は、以前の木橋から約200m上流に架けられ、鋼鉄製ピントラスト構造で全長173.3m。設計は現日本橋の銘板にも名を刻む東京市の技師・樺島正義であった。
路面は厚い鉄板の上にコンクリート打ち、アスファルト仕上げだったようで、関東大震災のときでも、この橋は焼け落ちることなく、また、警察官の機敏な誘導などによって多くの避難者を救ったという。西詰北側の
中央区側に、「震災避難記念碑」と「人助け橋のいわれ碑」がある。そして戦災も乗り越えたが、老朽化により昭和49年(1974)に撤去・改架がはじまった。
撤去された旧橋梁のうち中央区浜町側の一部は明治村(愛知県犬山市)に移設されたが、橋名板は
中央区側 の漢字表記と江東区側の仮名表記のものがそれぞれ保存されている。
現在、だれでも見ることができる江東区側の橋名板は同区立八名川(やながわ)小学校の北側に設置されている(写真上)。鋳鉄製で大きさは縦135.3cm、横273.5cm。中央に仮名書きで右から「志ん於ほはし」(「しんおおはし」の変体仮名)と痕跡が分かる。さらにその下にはローマ字で「SHIN・O・HASHI」と刻されている。周囲の飾りはほとんど剥がれてしまった。旧橋の名残は東詰南側にも照明橋柱の1基が残されている(写真下)。
現在の橋梁はシンプルな斜張橋であるが、これまでの歴史ある橋としての貴重な遺産がそこにあった。
■これまでの「中央区 ここに歴史あり」
第1回 「今もある、霊岸島」 こちら>>
第2回 「交差点に残る、今なき橋」 こちら>>
第3回 「区内で一番高いところ」 こちら>>
第4回 「日本橋の隠れた銘板」 こちら>>
第5回 「江戸の町地は中央区の広さ!?」 こちら>>