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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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渋沢栄一と第一国立銀行『銀行発祥の地』

[海舟] 2009年8月31日 18:30

日本橋兜町は、東京証券取引所をはじめ銀行・証券会社が集中している、日本の金融業界のメッカです。その一画に、メガバンク・みずほ銀行の兜町支店があります。
『銀行発祥の地』の銘板はその建物の壁面に掲示されています。

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みずほ銀行の源泉を辿ると、(第一勧業銀行 ⇒第一銀行⇒帝国銀行⇒第一国立銀行と遡り、)第一国立銀行が原点となります。

第一国立銀行は、三井組、小野組の資金を主原資として、明治期の産業界を代表する実業家である渋沢栄一(天保11年~昭和6年)が、明治6年6月、国立銀行条例(明治5年制定)に基づき参与し創立した日本で最初の銀行です。

明治2年、新政府への出仕・大蔵省租税正任命の辞令を受けた渋沢栄一は、元幕臣であった経歴等を鑑み辞退を決意、直接、その意を伝える為、時の大蔵省の実力者、
大蔵大輔・大隈重信(天保9年~大正11年)の築地にある私邸を訪問します。
しかし、若き大隈の新国家形成への強い参画要請と熱意に賛同し、入省を受諾します。
省内では、3年半に亘り、件の国立銀行条例制定他幾多の政策の策定に携わりましたが、予算編成問題を巡って、第3代大蔵卿となった大久保利通(文政13年~明治11年)率いる首脳部との意見の対立が主原因となり、明治6年5月、下野します。

退官後は、一民間人として実業界で、数多くの会社・団体の設立に関与し日本経済界発展の礎を築き、又、後年は社会事業家としても広範囲の活躍をして、大正5年に引退するまで、40年以上に亘り第一国立銀行(退任時は第一銀行)の頭取を続けます。

渋沢栄一は近代日本国家の形成・推進に指導者として大きな役割を果たしました。

 

 

◆中央区 ここに歴史あり<9>~「迷子しらせ石標」の几号水準点~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年8月27日 11:31

一石橋南詰西側に「迷子しらせ石標(いししるべ)」があるが、この正面下部に「不」の形をした水準点標識の彫り込みがされている(写真の矢印・丸印部)。写真では見えにくいが実物でははっきり読み取れるので、ご確認いただきたい。 


0913_09_090827_maigo01.jpg これは「几(き)号水準点」と呼ばれ、明治9年(1876)ごろに内務省が実施したイギリス式の測量点で、標識の形が机に類似しているところから「机=几」とされた。またその形から、不号水準点ともいわれたという。


当時の水準点は独立した標石のほか、恒久的な建築物もしくは石組みなどに、「不」の字に似たこの標識を刻みこんだ。測量はその横棒部分に測量器具をあてて標高を計測したという。英語では「Bench mark」と呼ばれている。基準点は霊巌島水位標をゼロメートルとした。 


これらの標識は各所に設置されたが、その後は測量方式が変更されたりして、使われなくなったそうだ。ところがこの歴史の痕跡が現在でもいくつか残っている。よく知られた場所は、港区の国道15号線第一京浜、高輪大木戸石垣遺構の道路側・下部面にある。そこは、道路に出ないと見られないので、通行する自動車に注意が必要だ。 


この「迷子しらせ石標」は 東京都指定文化財で、安政4年(1857)、日本橋西河岸町の町人が建てたという。柱の正面には「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側には「志(し)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られ、上部に窪みがある。窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、尋ね人を知らせたという、いわば伝言板。人通りが多く、人の集まる場所だったことを物語っている。類似のものは湯島天神に「奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)」がある。


碑の建っている現在地辺りは、戦後埋め立てられた外堀縁なので、以前は南詰東側に建っていたが、高速道路工事のために移設されたそうだ。


石標脇の「一石橋の親柱」は中央区民文化財で、大正11年(1922)建造し、関東大震災でも破損しなかったRC(鉄筋コンクリート)アーチ橋のものとしては、都内最古の親柱で貴重な近代文化遺産とのこと。

 

 

◆50周年「まち歩き文化コース」 ~第2回銀座、好評裡に終了!

[巻渕彰/写楽さい] 2009年8月21日 09:00

50周年記念事業「まち歩き文化コース」第2回目の銀座コースが8月20日(木)午後2時から開催され、好評のうちに終了した。今回の実施は第1回に引き続き、「中央区文化財サポーター協会」が担当した。
写真は三原小路で参加者の皆さん(掲載のご了解を得て撮影したものです)。


0913_ginza0908202.jpg この日、午後3時の気温30℃、湿度60%で晴れて炎天下であったが風があったためか、気分的にやや一息ついた感じだった。集合場所の数寄屋橋公園に集まった参加者は10数人。参加者の多くは中央区民であったが、なかには他地域からの来訪者も含まれた。さっそく、2組に分かれルートをまわる。


かつての外堀、現在の千代田区との区境である高速道路に沿って区立泰明小学校へ。藤村、透谷の出身校であり、東京都歴史的建造物となっているツタの絡まる校舎を眺めつつ、先に進む。路地奥には銀座文化の歴史を刻んだ老舗バーが今も佇んでいる。おしゃれな並木通りは銀座らしい雰囲気を醸し出し、啄木碑に立ち寄る。交詢社ビルは様相を変貌したが、一部に往時の面影も残る。隣接した昭和初期の古いビルは取り壊しの最中で、歴史からまた消えていく姿を目の前にする。


銀座で一番長い路地に入る。途中にある3カ所の自動扉に驚きを感じつつ進むと、まもなく稲荷神社に着く。金春通りには銀座煉瓦街遺構など、地元有志の努力で歴史が凝縮されている。東海道であった中央通りから東側には、芝口御門跡、しがらき茶屋跡、三十間堀跡など江戸からの話題に事欠かない。


「銀座でブラジルコーヒーを飲む」が「銀ブラ」とうたう、喫茶店を越え、商法講習所跡から中央通りを歩くとかつての尾張町。ここは江戸期3店の呉服商が軒をならべたところ。三原小路から三十間堀だった三原橋跡をくぐり、四丁目裏へ。銀座のミツバチで有名なビルを横にして、お稲荷さんでお参り。


ガス灯通りにはレプリカであるがガス灯が4基、今も点っている。ガスの次に登場した電灯は、中央通りに15mの電気灯柱が建っているので実感できるところである。明治近代化で華やかな中心地は、今日、四つ角に海外ブランドショップが競っている現代銀座のシンボルに様変わり。すぐ近くは「銀座発祥の地」、これこそ銀座の原点である。ここで約2時間の銀座まち歩きを終える。


参加者の感想は「はじめて見たところが多かった」「裏道は知らなかった」「面白く、楽しかった」などが聞かれた。何よりも嬉しかったのは、参加者の皆さんのご協力で、このまち歩きを盛り上げいただいたことであった。歴史に詳しい方との対話など、今までにないご理解に厚く感謝したい。

 

 

それからの定信『都旧跡 浴恩園跡』

[海舟] 2009年8月20日 09:30

築地市場正門脇の塀に一枚の説明版があります。
この地が江戸時代、浴恩園と呼ばれた庭園である由来が記してあります。
 
天明7年(1787年)より始まった寛政の改革は寛政5年(1793年)、老中首座・ 
将軍輔佐の松平定信(1758年~1829年)の退任により終結しました。
政策自体は、その後、推進に当たった遺老たちにより文化14年(1817年)
までおよそ24年間継続されます。石川島人足寄場、七分積金、学問吟味などの
制度は幕末まで続きます。

役を辞した定信は再び白河藩の藩政に従事、幾多の難局を乗り越え名君としての
地位を確立します。
文化9年(1812年)、54歳の時、家督を嫡男・定永に譲り、下屋敷である浴恩園に
隠居、楽翁と号します。
浴恩園は寛政の改革のさなかに(寛政4年)、第11代将軍家斉の出自である
一橋家より譲り受け、定信自ら作庭し2年後に完成した、一万七千坪にも及ぶ
江戸湾に臨む風光明媚な池泉回遊式庭園です。
泉水草木を愛で、園内を逍遥しつつ、日記、随筆、和歌、絵画など広範な作品を
編著し、風雅の道を楽しみ悠々自適のうちに晩年の17年間を過ごします。

文政12年(1829年)、神田佐久間町から出火した大火は築地周辺へも及び、
浴恩園すべてを灰塵に帰してしまいます(己丑火事)。
2ヵ月後、後を追うように、楽翁・松平定信は71年を一期として人生の幕を閉じました。
贈正三位。

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築地本願寺のことなど

[ドームくん] 2009年8月20日 09:00

 月島のガッチャマン、黒野富太郎さんは中央区文化財サポーター協会の会長を務める傍ら、区内の小学校をめぐり、中央区の歴史、文化を楽しく、わかりやすくお話しております。             先月も区内の橋、特に『勝鬨橋』の架橋の歴史、橋へのおもいなどのお話をしました。今月は24日に、京橋築地小学校で九条武子歌碑や森孫右衛門の供養塔がある浄土真宗本願寺派本願寺築地別院(通称築地本願寺)のお話をします。よい子達が毎日、校舎の窓から仰ぎ見る大建築家伊東忠太の昭和9年の作品、築地本願寺の古代インド建築様式の事など面白いお話が聞かれますョ。

 勿論、皆様方で中央区の歴史、文化、観光に興味をお持ちになり、いろいろ体感されたい方がおられましたら、中央区文化財サポーター協会には黒野さんをはじめ多士済々の面々が揃っておりますので、区の文化・生涯学習課を通してお問い合わせ下さいとのことです。

 さて、この古代インド様式の建造物の本堂正面の円屋根妻部には菩提樹の葉をモチーフにした輪郭、中央は仏教のシンボル、蓮の花が見える。又、本堂にはいろいろな動物が居り、象、牛、猿、鳩などなど。その他に人面なのか動物なのか、怪獣か、名付けてグロテスク。口から階段の手すりが出ているという鬼才、伊東忠太の木彫だ。                                  

 そういえば、国立市にある一橋大学の兼松講堂は昭和2年完成の伊東忠太の作品だが梁や柱に水木しげる顔負けの怪しげな動物や怪獣が100体ぐらい封じ込められております。こちらは一般には公開されて居りませんので許可を得て御覧になってください。                        

                                       ドームくん

 

 

◆中央区 ここに歴史あり<8>~「坂本」と「阪本」~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年8月13日 09:30

日本橋兜町に「中央区立阪本小学校」(写真上)がある。明治6年(1873)創立の第1大学区第1中学区第1番学校なので、通称「一、一、一学校」として歴史は古く、また谷崎潤一郎出身校でも知られている。そのとなりは明治22年(1889)開園の「区立坂本町公園」(写真中)である。お気づきのように、ここに「阪本」と「坂本」、2種の表記がある。


0913_08_090808sakamoto.jpg 坂本町」の名は近江国比叡山延暦寺の守護神、日吉大社の門前町である「坂本」に倣って、という。江戸末期の絵図では山王御旅所(日枝神社)門前の西側に所在し、俗称植木店(たな)とも呼ばれた。町名の名残は茅場町薬師、現在の智泉院境内に天保12年(1841)奉納の天水鉢(区民文化財=写真下)があり、「坂本町」と記されている。


「坂本町公園」は江戸期からの歴史的地名を踏襲しているが、それでは「阪本」とは、どうしてなのだろうか。


ご承知のとおり、同じような例がある。江戸期は「大坂」であったものが、今は「大阪」。伊勢国「松坂」は、三重県「松阪」(地名の正しい読みは「まつさか」で、濁らない)と表記する。


こんな俗説がある。


1.   「坂」は傾き、転げ落ちるので不吉だから、よって「阪」に変えたとか。


2.   「坂」には「土に返る」ということで「消滅」につながり縁起が悪いので、「丘・大きい・多い・豊か・盛ん」の意味を表す「阜(フ)」をもとにした「こざとへん」の「阪」が当てられたとか。


3.   「坂」は「士が反く(武士が叛く)」から、「阪」にした。
――など。


「坂=縁起が悪い」が共通項のようであるが、作り話か否か、真偽のほどは分からない。詳しくご存知の方は教えていただきたい。明治期以降「阪」が使われていったようだ。いずれにしろ、この地は「坂」と「阪」が対比できる場所である。


ちなみに「坂」は常用漢字で、小学3年生で習う学習漢字である。しかし、「阪」は常用漢字にはなく、「坂」の異体字とされるが、現在見直し中の常用漢字追加候補には入っているので、「阪本」も「大阪」もようやく大手を振れそうだ。