[shikichan]
2009年9月30日 17:00
(写真上) 1673年 現在の「三越」の開祖 三井八郎右衛門高利「越後屋呉服店」を開く。
1905年(明治38年) デパートメントストア宣言
1914年(大正3年) 本館の正面玄関を守るライオン像を設置
1972年(昭和47年) 正面入口には商業の神マーキュリー像が設置されているが
大正13年に設置された銅像を再現したもの。
(写真中) 1914年(大正3年) 屋上に三圍(みめぐり)神社を遷座。1352~1356年頃、近江
三井寺の僧源慶が東国を巡錫中、隅田川牛島のほとりの弘法大師建立になる
荒れ果てた小堂に立ち寄った際、その床下より現れた壺をあけると、その中より
忽然と白狐が現れ、壺の中の神像の周りを、三度めぐっていずこともなく消え去
ったので、その後この社を「みめぐり」と呼ばれるようになったと伝えられている。
爾来何でも願い事の叶う縁起のよい神として広く庶民より崇められている。
(写真下) 今年でもう13年になる「癒しの園」チェルシーガーデン。
本格的なガーデンスタイルの提案から、初心者でも楽しめる幅ひろい品揃えが魅力。
季節の花々がいつも楽しめる時間を忘れる空間がすばらしい。
[巻渕彰/写楽さい]
2009年9月29日 11:41
明石町に「電信創業之地」碑がある(写真上)。わが国で最初に電気通信が行われたのは、明治2年12月25日(1870年1月26日)で、この近くにあった東京築地運上所(跡地に碑石あり)と横浜裁判所(写真中央は、横浜地方検察庁前の記念碑)に設けられた「伝信機役所」間を結んだものであった。
明治2年9月19日(1869年10月23日)から工事が始まり、わずか3カ月ほどで、東京・横浜間の約32kmに電信柱593本を建てたという。およそ50m間隔に1本の割合で電信柱が建てられたのだから林立の感であっただろう。さらに、当時の記録写真を見ると、架線の本数がやたらに多いのが印象的だ。人々は、文字が電線を伝わって行き来するのが見えるのだろうか、と大騒ぎだったという、笑い話がある。
今でも電信柱と呼んでいるのは、これが事始めだったのだろう。当時は「電信」ではなく「伝信」といわれたようだ。「以心伝心」からか、「信(=まこと、真実)を伝える」ことからか、やがて「電気通信」の略として「電信」へと代わっていった。
このとき使われた通信機とはどんなものであったのか、明石町の碑石には何の記載もない。
それは、大手町の「逓信総合博物館」に展示されている。1837年にイギリス人のホイートストンによって開発され、フランス人のブレゲが考案した「ブレゲ指字電信機」である。実物は平成14年(2002)に国重要文化財に指定されたことで、現在展示されているのはレプリカである。
写真下が最初に使われた、その「ブレゲ指字電信機」である。左が送信機、右は受信機。双方に文字盤があり、イロハなど1文字1文字が刻まれている。送信機の文字盤の針を、送りたい文字に合わせて発信すると、受信機の針が時計のように回転して、送られてきた文字を文字盤に指す、という仕組みだそうだ。当時としては、モールス信号機のように符号を覚える必要がないので、画期的な通信機であった、という。
しかし、操作は簡単だったが、送信スピードが1分間に5、6文字程度と遅く、遠距離通信には適さなかったという。よって使用されたのは明治8年(1875)ごろまでの短期間であったそうだ。
運上所は現在の税関。この脇に通信役所が設置された。横浜には現在の横浜地方検察庁に隣接して
神奈川県庁舎がある。ここが今から150年前の安政6年(1859)、横浜開港にともなって「神奈川運上所」が開設されたところで、史跡になっている。築地、横浜ともに外国人居留地に近いし、入出港する積荷の情報交換などに通信が使われた模様である。いずれにしても、この文明の利器は近代化の象徴であったといえよう。
[ゆりかもめ]
2009年9月25日 09:00
八代将軍吉宗は常々 象を見たいと言っていたので享保13年(1728)6月13日長崎港に象が上陸した。 中国人の商人が現在のヴェトナムから雄雌2頭の象を連れてきたのである。
雌象は病がもとで死んだが雄象は享保14年(1729)3月13日 江戸に向かって長崎を出発した。
京都では中御門天皇と霊元上皇に朝見している。
この時、無位無官では宮中に出入り出来ないので急遽 象に従四位という位を与え「従四位広南白象」と命名された。
天皇 上皇 公家衆は象を見た驚きを詩にあらわした。「詠象詩」として「視聴草」に収められている。
長崎から江戸まで約350里(約1400キロメートル) 74日間の旅だった。
江戸では吉宗だけでなく諸大名が見物したが、その後13年間を浜離宮で過ごしたのち、最後は中野村(中野区)の源助と弥兵衛にお金をつけて下げ渡された。
寛保2年(1742)12月に病にかかり治療の甲斐なく死す。
象が京都で中御門天皇と霊元上皇に朝見している。
浜離宮の彼岸花の赤と白だが桜の花の様に外気に左右されて早く咲いたり遅く咲いたりせずに秋の彼岸には必ず土の中から突然のように出て来て咲く花
[巻渕彰/写楽さい]
2009年9月17日 10:00
「新場(しんば)」という言葉を聞いたことがあるだろうか? 今も「新場橋」(写真上)の名前で首都高速道路上(旧楓川(もみじがわ))に橋があるし、この近くに「区立新場橋区民館」(写真下=日本橋兜町)が存在する。これが江戸からの新場の名残であったことを物語っている。
現在の場所でいえば日本橋二丁目で、新場橋と千代田橋の間、「江戸・もみじ通り」沿いである。この旧楓川の西側一帯は古くは本材木町と呼ばれ、「木場」の原点とされる同職集住地。有名な『江戸図屏風』にも描かれていて、江戸初期から江戸湊の集散地として主要な河岸地であった。
では「新場」とは、どういうことなのだろうか。
じつは「新肴場(しんさかなば)」を縮めて、単に「新場」と称していた。そう、魚市場だったのだ。江戸の魚市場は日本橋だけでない、ここ新肴場、四日市、芝雑魚場(しばざこば)の4ヵ所があった。四日市は、今の日本橋と江戸橋間の南側辺りで江戸橋広小路と呼ばれた一帯。芝雑魚場とは、現在のJR田町駅東北側付近で、港区の史跡説明板が設置されている。
「日本橋魚市場の発展を受け、本材木町二丁目・三丁目に新しく魚市場を開設したのが「新肴場」(以下、新場)である。両者の役割は、月の上旬は新場が、中・下旬は日本橋が交替で幕府への納魚を担当した。成立の契機は、延宝2年(1674)に日本橋魚河岸を相手に訴訟を起こした相州三浦郡〔現三浦市〕と武州久良岐郡〔現横浜市磯子区辺〕の漁村13カ村が、日本橋より2割安の値段で売買することを許されたことによる」(『中央区三十年史』から)
これらの漁村からは、船足の速い、7-8挺櫓の押送舟(おしおくりぶね=一般には「おしょくりぶね」と呼ばれた)で、キハダマグロなら50本(約2千キロ)くらいを積み、前日夕方に出発し、翌朝早く江戸の魚河岸(魚市場)に着いたという。
江戸期、新場があった楓川は江戸湊から八丁堀(桜川)や京橋川とつながり、海運橋(将監橋、海賊橋とも)先で日本橋川に接していた。ここに架かる新場橋は中の橋、楓橋の別称もあり、享和年中(1801-04)の創架のようだが不詳。古い新場橋は現橋より北側(新場橋区民館辺り)にあったが、震災後架け替えで現在地となった。
楓川西側(現日本橋二丁目)は町人地で、対岸の東側(現在の兜町、坂本町公園付近)は御船手頭屋敷(俗称海賊屋敷)と坂本町などの町人地、さらにその東側には八丁堀与力同心組屋敷だった。幕末期、南町奉行所(現有楽町付近)に勤める与力衆は新場橋を渡り大名小路を通った、といわれる。
今のところ、新場跡の碑石や説明板はどこにも設置されていないが、新場橋に歴史の一端が見出される。魚市場の変遷は日本橋周辺から築地へ、さらに豊洲移転の計画がある。食を支える魚市場は江戸期から都市の重要拠点であった、といえよう。
[北遊人]
2009年9月11日 17:30
今回は中央区の東端、両国橋から新大橋へ向かって歩いてみます。
まず両国橋からの隅田川テラスです。
四季の花が植えられ、きれいに整備されています。
ウオーキングやジョギングには最適の場所です。
続きを読む: 浜町河岸辺り(両国橋から新大橋へ)
[柳 さつき]
2009年9月11日 09:00
皆さまには、もうすっかりお馴染みですネ
人形町の甘酒横丁から交差点をはさんで南側の通りも、超有名な行列店が軒を並べています。
ここ数日、過ごしやすくなりましたので、'あの'「玉ひで」さんの最強の行列に並んでもいいかなぁ~・・・・と、親子丼をいただきに行ってきたのですが・・・・・・・・・。
そのご報告の前に、こんな看板を発見いたしましたので、まずご覧いただきたいと存知ます(ご存知の方ゴメンナサイ)。
そうです、甘酒横丁交差点から→「喫茶去 快生軒」さん→「洋食 来福亭」さん→「玉ひで」さん→「洋食 小春軒」さんとすすんで行きますと、谷崎潤一郎生誕の地の史跡説明板があります。その石板製のほうの上を「ふっ」と見上げましたところ・・・・・・・
「幻の洋かん 細雪(ささめゆき)」とあずき色の看板が目に飛び込んできました
甘いもの大好きな私の目は、このあずき色の看板に釘付けです。
「細雪」という店名?それとも洋かんの商品名?・・・・・・もしも商品名だったら・・・・・「細雪」という名を持つ洋かんとは、物語の四姉妹をモチーフに、きっと華麗なもの・・・・・「鶴子」さん「幸子」さん「雪子」さん「妙子」さんをそれぞれイメージした4種類の味があるのかなぁ
などと想像は膨らむばかりです!
そして、
この看板のお店は何処・・・・と、近くを探してみたのですが、それらしい「和菓子」屋さんや「甘味処」も見当たりません・・・・・・・。そこでこの看板がかかっているビルの1Fにある調剤薬局さんへ、失礼ながら、お邪魔してお聞きいたしました。
私と同じような質問をされる方(お仲間がいて、なんだか嬉し~い)も結構いらっしゃるそうで、「ハイハイ」と、笑顔でお答えいただきましたところによりますと・・・・・・・。ご想像どおり、以前は、こちらのビルの裏手に和菓子を作っているところがあり、こちらの薬局さんの以前の姿が販売店だったそうです。購入して、いただくことができなかった無念さよりも、「幻の洋かん」って、いったいどんなものだったのか、一目、見てみたかったと・・・・・とてもとても残念です。
本当の意味で「幻の洋かん」ですネ!
それでは、「玉ひで」さんの親子丼です。
オーダーいたしましたのは「元祖親子丼」¥1500です。13:00までに並べばいただけますので、ゆっくり出かけ、12:30ごろ行列に並びました。30分くらいで席へ着くことができました。もちろん相席でございます。
今回、相席になった二人連れのサラリーマンさんが「超人気の○○店より、こっちのほうが美味しいよなっ!」とお話なさってました(私も同意見で、秘かにウンウンと相槌を打った次第です)。
「玉ひで」さんのHPhttp://www.tamahide.co.jp/top.html