[海舟]
2009年9月 9日 09:00
中央区は昭和30年代半ばからその街相を一変させました。
昭和39年10月に催される東京オリンピック開催に際し、
首都高速道路建設の為、河川の埋め立てが施工されたからです。
築地川も昭和37年に埋め立てられました。
しかし、三島由紀夫(大正14年~昭和45年)が昭和31年末に発表した
佳作『橋づくし』により、往時のこの周辺の風情を窺い知ることができます。
この短編小説では、中央区役所(建て替え以前の)、聖路加病院、
築地本願寺などの建物が描写されていますが、
その他の風景及び風俗、風習は現在とはまったく装いを異にしています。
物語は、4人の女性が願掛けで築地川に架かる7つの橋を
支障なく無事渡りきれれば各自その願が叶う、という
サスペンス仕立ての構成になっています。
渡らなければならない橋は7つとなっていますが、実際は、
三吉橋、築地橋、入船橋、暁橋、堺橋(この橋は現在ありません)、
備前橋の6つになります。
しかし、ここ三吉橋が三叉橋になっている為、コースを変えて2度渡ることにより、
2つ橋を渡ったと勘定します。
入船橋の直前で1人が腹痛の為それ以上進めなくなり、
2人目は暁橋上で、知り合いに声を掛けられ、
そして3人目は、最後の備前橋で投身自殺をするのではないかと
誤認した警察官に呼び止められ、やむをえず声を発してしまいます。
彼女ら3人は、旧来からの決まりにより願いは叶えられません。
最後に残った1人が、無事、7つの橋を渡りきり、願掛けに成功します。
落伍した3人についてはそれぞれ具体的で切実な願いが描写されています。
しかし、唯1人、祈願が成就した女性の願い事が何であったのかは
作中明らかにされません。
また、その女性の意外性が予想外で、作品の趣向となっています。
因みに、4人の人物設定は、銀座板甚道にある分桂家の
芸者2人(小弓42歳、かな子22歳)、
新橋の料亭「米井」の箱入り娘(満佐子22歳)、
そしてその料亭に一ヶ月前、東北から来た女中(みな)となっています。
尚、この時代背景を忠実に映している映画のひとつが
名匠・成瀬巳喜男監督による『流れる』(昭和31年東宝作品)です。
舞台は柳橋周辺となっていますが、 当時の花柳界の人間模様と
雰囲気を穏やかなゆったりとしたカメラワークで捉えています。
[巻渕彰/写楽さい]
2009年9月 8日 18:30
神田との境界に竜閑川(りゅうかんがわ)があった。かつては神田区と日本橋区、現在の
千代田区と
中央区の区境が旧竜閑川。戦後すぐに埋め立てられたが、その跡地は路地状の地形となっているので歩くことができる。
浜町川と接していた辺りが「竜閑児童遊園」(日本橋小伝馬町19-4)である。ここに区境・竜閑川に架かっていた橋を模したものであろうか、何となく郷愁を感じさせる情景がある(写真上)。写真の橋をはさんで左側が
中央区、右側は
千代田区、中央部に旧竜閑川が流れていた。
この辺りに架かっていた橋は、明治期は「玉出橋」だが、江戸期の絵図には「幽霊橋」ともあり、何とも怖そうな場所であったのだろうか。現在、この遊園の場所は、
中央区と
千代田区が共存している。中央区側には「竹森稲荷神社」が隣接し、
千代田区側は和風造りの公衆便所や遊具がある。
竜閑川は日本橋川(旧外堀)と浜町川を結んだ堀川。明暦3年(1657)の大火後、防火のために8丁(約870m)の土手が築かれ、元禄4年(1691)ごろに町人たちの費用で堀割が開削され、通称「神田八丁堀」と呼ばれた。当初は白銀(しろがね)堀ともいわれたが、のちに竜閑川と名付けられたそうだ。竜閑の名は、川の西側の町に御坊主「井上竜閑」が住んでいたから、という。
神田八丁堀は、十返舎一九(じっぺんしゃいっく=明和2年(1765)-天保2年(1831)。東陽院の墓碑は中央区民文化財史跡指定)『東海道中膝栗毛』で弥次さん(弥治郎兵衛)がこの新道の小借家に住んでいた、という滑稽本の舞台として知られている。
日本橋川に接する西端の場所(日本橋本石町四丁目)に「竜閑橋(龍閑橋)」が架かっていた。大正15年(1926)架橋の親柱と橋桁一部が、いま残っている(写真下)。当時は橋長10.5m、幅員27.0mで、わが国初の鉄筋コンクリートトラス桁構造であった、とのこと。竜閑川には、ここ竜閑橋から東へ、白旗橋、西仲之橋、今川橋(国道17号)、東仲之橋、地蔵橋(昭和通り)、火除橋、九道橋、甚兵衛橋、玉出橋があった。今川橋跡と地蔵橋跡には記念碑や説明板が設置されている。
[北遊人]
2009年9月 3日 16:28
前回は神田川川口から柳橋、浅草橋へと川沿いを歩きました。 今日はその先"左衛門橋"、中央区と千代田区の区境を歩いてみます。(左衛門橋は台東区の区境でもあります)
浅草橋橋際からの写真です。
左右に走っている大通りが靖国通りです。左の両国橋を渡ると名前が京葉道路と変わります。
真正面が江戸通りです。江戸時代の浅草御門から奥州街道へ抜ける街道筋です。
右側神田川沿い一帯が江戸時代郡代屋敷があった所で、交番脇に説明板が立っています。
現在は神田川側に柳原通り、靖国通り側に馬2仲通りと2本の道が見えます。建て替え建築中の日本橋女学館中・高校がこの一角を占めていますが、前回紹介した初音森神社の在った初音の馬場も江戸時代この辺りに在ったようです。
これが現在の柳原通りです。右が建築中の日本橋女学館の校舎です。
両側に柳が植えられ江戸時代の柳原土手の柳並木を思い浮かべさせてくれます。
中央、千代田の区境は左衛門橋通りと思いきや、橋西側神田川沿いが千代田区、その南2ブロック程中央区が千代田区に食い込んだ形となっています。
写真の右側が千代田区東神田2丁目、左側が中央区馬喰町2丁目。
街路樹の木をよく見ると此処が境界かなと判ります。
柳原土手は、江戸時代沢山の古着屋の集まった通りだったと言われていますが、現在は馬喰町1丁目に衣類の問屋街が形成されています。
今日歩いて目についたのは、川島企画販売(株)の KAMISM SUMMER SALE(和紙) の貼り紙と 和楽庵 という着物、帯のリサイクル店 です。