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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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◆中央区 ここに歴史あり<22> ~養珠院通り 於満稲荷神社とゆかりの寺~

[巻渕彰/写楽さい] 2010年7月23日 08:30

八重洲通りを北へ行ったところに「養珠院(ようじゅいん)通り」がある(写真上左)。八重洲一丁目の外堀通りから日本橋三丁目の昭和通り手前までの東西を結んでいる。道路標識も少ないので見過ごしがちの道である。その由来は「於満稲荷神社」にある(写真上右)。家康の側室・お万の方を祀ってあり、院号が養珠院であることから、平成16年(2004)に中央区道路愛称が付けられた。

 

0913_22_100504youjuin.jpgお万の方1577-1653)は家康の十男である紀伊徳川家開祖・徳川頼宣(よりのぶ)と十一男の水戸徳川家開祖・徳川頼房(よりふさ)の生母である。尾張徳川家とともに御三家となった。同神社の由緒書によると、「養珠院は代々日蓮宗を信仰し、ここ日本橋あたりで神仏寄進の物資調達をしたそうで、その遺徳に恩義を寄せた商人たちがこの稲荷社を建立した」という。

 

江戸期の古地図では、この社は上槙町(かみまきちょう=現八重洲一丁目)に存在していたことが分かる。草分名主の檜物町(ひものちょう)の南隣で元祖下町の一帯。現在の於満稲荷はビル脇に再建されていて、人ひとりがやっと入れる狭いところであるが、旧江戸城(皇居)方面を向いているのは往時を偲ぶかのようだ。

 

このお万の方とゆかりの寺が渋谷区千駄ヶ谷にある。日蓮宗の法運山仙寿院で、赤坂の紀伊徳川屋敷にあったものを正保元年(1644)に現在地に移転して開山したもの。同院の沿革によると、お万の方の発願により紀伊徳川家、伊予西条松平家の江戸での菩提寺祈願所として10万石の寺格だったという。壮大な堂宇と庭園で、『江戸名所図会』には〈新日暮里(しんひぐらしのさと)〉として、「谷中日暮里に似てすこぶる美観たり、弥生のころ爛漫たる花の盛りには大いに群衆せり」とある。

 

ここは何と、墓地の真下を人と車が通っている。昭和39年(1964)の東京オリンピック道路拡張工事によって墓地が切り取られる計画であったが、墓地をそのまま生かすためにその下部を掘り下げて切り通しのトンネルにして、その上に改葬したそうだ。このトンネルは「千駄ヶ谷トンネル」で、"心霊スポット"ともささやかれている(写真下左)。今の本堂(写真下右)は昭和40年(1965)に再建されたもので、その屋根には由緒の象徴である徳川葵の御紋が輝いていた。

 

 

 

三井本館(国指定重要文化財)

[ゆりかもめ] 2010年7月15日 13:00

 大正12年の関東大震災後・・・・・昭和4年(1929年)竣工・・・・地上7階・地下2階です。

関東大震災の2倍の大きさの地震にも耐える事が出きるようにとして建設されました。

本館では現在、中央三井信託銀行が営業なさって居り地下には当時、東洋一の金庫として設置された金庫が今も健在です。

豪華な金庫の扉を御紹介します。

   2010_0714 金庫扉 1.JPG

アメリカ モスラー社 製作

金庫の円形扉   直径・・・・250cm   厚さ・・・・55cm    重さ・・・・50tの特殊鋼です。

膨張率の大きい合金鋼がサンドイッチ状に組込まれ火災に備えています。

当時は搬入するに当たり、重量制限の為に日本橋(当時は木造)上を運ぶ許可が下りず、新常盤橋の側まで船で運び陸揚げして深夜三井本館まで運んだそうです。

  2010_0714 金庫扉 横1.JPG

 上記、2枚の写真は事情を説明の上、銀行の許可を頂き立会いの下で撮影させて頂きました。

御好意に感謝して居ります。

  2010_0714 コリント式 柱の上部.JPG 

外壁はコリント式の大列柱の上部です。

アカンサス模様

6・7月に白・淡紅色の花が咲く多年草の低木です。地中海沿岸地方に多く分布します。

古代ギリシャ及び ローマのコリント式建築で、柱頭部分の装飾用に図案化されています。

  2010_0714  外壁紋様.JPG

 

 

 

 

 

佃島の盆唄

[サム] 2010年7月15日 08:30

RIMG0779RS.JPG毎年7月13日から3日間行われる佃島の盆踊りは「念仏踊り」とも云われる。江戸期浜町にあった本願寺別院が明暦の大火後築地に移築されたが、これに関わった佃島の門徒が延宝8年(1680年)その完成を期して先祖の霊を慰めたのが始まりとされる。

江戸市中を巡り、お布施を受けてそれを築地本願寺に奉納していたが、天保2年に禁じられて以降、島内でのみ行われてきたという。

現代の一般的な盆踊りと比べ、単調な太鼓の音と哀調を帯びた盆歌。

戦後佃島盆踊保存会が出来、伝統が継承され、昭和51年に東京都無形文化財に指定された。

南無阿弥陀仏の掛軸をかけた祭壇にお参りした後、「秋の七草」を詠み込んだ唄や、最後は南無阿弥陀仏で終わる数え唄などに合わせ、「渡場通り」に設営された櫓を囲み踊りが続く。

最終日は、仮装をして踊る人も見られる。

        RIMG0695NS.JPG   RIMG0703NS.JPG   RIMG0710NS.JPG

              RIMG0722NS.JPG   RIMG0796NS.JPG   RIMG0713NS.JPG

 

 

 

谷崎潤一郎 『幼少時代』を歩く

[与太朗] 2010年7月13日 15:00

 7月になりました。7月に生まれ死んだ谷崎潤一郎は、小説家として自分が成し遂げた仕事は幼少時代の環境に負うところが多大だと書いています。そこで文豪70才時の著『幼少時代』を片手に、幼年期・少年期を過した蠣殻町・茅場町界隈を歩いてみました。

  IMG_0108.JPG 

 

生誕の地 谷崎活版所

   谷崎は明治19年(1886)7月24日、日本橋区蠣殻町二丁目十四番地、谷崎家の繁栄を一代で築いた「偉いお祖父さん」久右衛門の家で生まれました。(7月24日といえば奇しくも同じ中央区生まれの文豪芥川龍之介の命日、河童忌ですね。) 「谷崎活版所」という巌谷一六(小波の父で明治の三筆といわれた)の隷書の看板が掲げられた黒漆喰土蔵造りの家の蔵座敷、この年は記録的な暑さで、そのまた暑いさかりの誕生でした。現在の住所でいうと日本橋人形町1-7-  10、人形町通りを西に折れた「玉ひで」の並びに「生誕の地」碑があ  るのでご存知の方も多いでしょう。 [写真 上]

 当時、人形町通りの角は絵草紙屋の清水屋で、潤一郎少年は年方・月耕・清親など毎日のように眼を輝かして見惚れていた。生家の斜向いの東側一帯には矢場(楊弓店)が並んでいる。玉秀(現玉ひで)のかしわは「いかにも東京風にあっさりした、柔かで旨い鶏」で始終取り寄せていた。水天宮と大観音が子どもの恰好の遊び場になっていました。

 

IMG_0187.JPG

 

 

 

 南茅場町の最初の家

     明治24年、一家は浜町に移るが、そこには長くおらず、さらに南茅 場町の四十五番地(現在の日本橋茅場町1-4あたり) [写真 右上]へ移転、日枝神社や薬師堂から一丁と離れていないところでした。ここから霊岸橋を渡った蒟蒻島の小岸幼稚園に短期間通い、IMG_0213.JPG翌明治25年の9月に阪本小学校[写真 右中]に入学します。      「薬師  の地内」には南から天満宮、翁稲荷、  浅間神社、 神楽堂、     日枝神  社、薬師堂、  閻魔堂、大師堂などがあり、     (これらの寺社は現在ずっと狭くなったり、  跡形もなかったりしている)飴屋、駄菓子屋、糝粉屋などの露天商が出て、いつも子供たちが集まっていました。     日枝神社は「お旅所だったから一年置きの六月十五日に盛大な祭礼がある外はひっそりとして」いましたが、   先月執り行われた神幸祭のにぎわい[写真 右下] IMG_0193.JPG  は昔と変わっていないようですね。    また、薬師堂に今も残る釜七の天水鉢は天保の作ですから潤一郎少年も当時目にしていたことでしょう。

 

 

 

 阪本小学校

IMG_0211.JPG 幼時から「人形町界隈に特に親しみを感じていたので、小学校といえば・・・有馬学校のことしか考えていなかった」谷崎ですが、24才の作『少年』でも作者と思しき主人公は蠣殻町二丁目の家から有馬学校へ通っています。(東華小は明治34年創立でまだない。)ところが南茅場町の家からは阪本小が「なるほど」「ずっと近い所」にありました。二学期から入学の一年生は甘えん坊の意気地なしで落第となりましたが、その後は先生にも恵まれ才能がどんどん開花していきます。阪本小では終生の友、笹沼源之助と同級になります。彼は東京における中華料理の元祖、偕楽園の跡取りでした。(偕楽園は現在

IMG_0212.JPGの日本橋茅場町2-10あたりらしい。 [写真 左上] ) 阪本小正門前の新場橋( [写真 左中]当時の橋は今よりもっと北寄りだった)で、美少年趣味の薩摩軍人に馬場先門まで拉致されてしまったのも、やり直し一年級のころでした。 [蛇足ながら、生誕の地の説明板では、阪本小入学後に住所を転々としたとあるので、蠣殻町生家から入学したと誤解されるかもしれませんね。]

 

 南茅場町の二度目の家

 商才のない父親の事業不振で、一家は蠣殻町一丁目米屋町裏通 IMG_0184.JPGりの父の店に移り、さらに没落して南茅場町五十六番地、明徳稲荷(現在の場所と違う)の路地奥に引っ込むことになります。明治27年でした。ここは幼少時代最も多くの年月を過ごす場所で、後に「電車道になってしまった。」と慨嘆していますが、現在の茅場町一丁目の交差点付近と思われます。( [写真 左下]は現在の明徳稲荷)

 明徳稲荷のお神楽堂では、毎月八日の晩に茶番狂言が行われ、熱気のこもった詳細な思い出話からは歌舞伎などとともに谷崎文学に深く大きな影響を与えたことが感じ取れます。

 

 鎧橋

 南茅場町へ来てからも、母やばあやに連れられて毎日のように鎧橋を渡り、本家(活版所)に遊びに行ったり、風呂を貰いに行ったりしていました。

 鎧橋は明治5年に木橋が架けられて鎧の渡しがなくなり、明治21年には鋼製トラス橋に替わります。「その頃市中にそう多くはない鉄橋の一つで」「往き復りに橋の途中で立ち止まって、日本橋川の水の流れを眺め」「上流の兜町の岸にある渋沢邸のお伽噺のような建物を、いつも不思議な心持で飽かず見入ったもの」でした。現在の橋は昭和32年に架け替えられたもの。 [写真 下] 井上安治の版画にもある渋沢邸の場所は現在日証館ビルが建っています。(なお、茅場橋は昭和4年の創架です。)

IMG_0222.JPG 

 谷崎は後年、変貌していく東京を慨嘆し、もはや自分の故郷とは思っていない、むしろ京都・大阪の旧市街に忘れていた故郷を見つけた気がする、と言っていますが、彼の文学の素となった幼少年期を70才になって『幼少時代』で情熱的に再現しました。さらにそれから50数年もの歳月が流れ、そのままに残るものはほとんどありませんが、明治20~30年代、昔の江戸のおもかげを残していた明治の東京を著者の興奮に導かれて歩き、しばし楽しい夢が見られました。

 [またまた蛇足ですが、芥川龍之介の墓は染井の慈眼寺にあります。ここは谷崎家の菩提寺でもあり、京都法然院に墓のある潤一郎も分骨されています。時には二人、生前の文学論争の続きを楽しんでいるのでしょうか。]

 

 

浜離宮恩賜公園「松の茶屋」復元工事見学

[メニイブックス・オサ] 2010年7月 6日 08:30

7月3日(土)10時から浜離宮恩賜公園内「松の茶屋」の復元工事を見学してきました。20名くらいの方たちが参加しました。

東京都建設局東部公園緑地事務所の方、文化財建造物保存技術協会の方、郷建設の方が説明をしてくれました。

現在建物の骨組みができており屋根の杮葺き工事等を説明してくれました。

構造説明.JPG

柱材は栂できれいな木目がはいっておりこれだけの品質ものを日本国内で見つけるのに大変な苦労をしたとのこと。土台はヒノキ。

 

屋根構造.JPG

屋根の構造は入母屋造り、杮葺き

 

杮葺き実演.JPG

場所をかえて杮葺き(材料はサワラ)の実演をしてくれました。私たち見学者にも竹釘を打たしてくれ、このような機会がないとできないことなのでとても良い経験をさせてもらいました。写真見える竹釘うちの道具も特殊なものです。

 

柱接ぎ方法.JPG

柱を2本接ぎする方法です。接がれた状態でどのように2つに分けるか試してみましたがわかりませんでした。実際に分解してくれてわかったくらいで本当によくできています。日本の職人さんの技術に驚かされました。

 

下の写真も江戸時代の礎石の形にあわせて土台を加工しています。このようにいたるところに職人さんの技が見られました。

礎石にあわせる.JPG

また現在の建築基準でいろいろと耐震補強がなされています。出来上がってしまうと見られませんが、このような工夫を見られたのも良い経験でした。

耐震補強.JPG

壁面の鉄骨による補強

天井の梁と筋交い.JPG

太い松の梁で強度は十分だそうですが、筋交いを入れています。

1時間ほどの見学でしたがチョット時間が足りないくらいに興味のある、面白い見学でした。今年の11月に完成するそうですが出来上がるのが今から楽しみです。またこのような見学会があればぜひ参加したいと思いました。

 

 

 

ふるさとの出来事から世界情勢まで・ニュースアートサロン

[坂の上のねこ] 2010年7月 6日 08:30

各地で夏の全国高校野球選手権大会の地方予選が始まりました。

ふるさとの母校や強豪校の結果が気になるこの時期、おすすめのスポットが、佃にあるニュースアートサロンです。

 

ニュースアートサロンは共同通信社が、同社の研修・交流センターの1階に社会に開かれた文化施設として開設したスペースで、誰でも利用できます。

 

住所:中央区佃2-1-3 (有楽町線・大江戸線の月島駅4番出口から徒歩10分)

開館時間:午前10時~午後5

休館日:日曜・月曜・祝日・年末年始・旧盆期間

   

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入り口から続く壁に並ぶ、歴史のあゆみを伝える様々な写真

ここでは、国内外の最新のニュースはもちろん、これまでの歴史を記してきた貴重な写真や映像を見ることができます。ニュース通信社の施設というとちょっと緊張してしまいますが、写真撮影の許可をお願いしたところ、スタッフの方がとても親切に案内して下さいました。

中島さん、ありがとうございました!

 

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                ニュースが美術館のアート作品のように展示されています

 

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                     隅田川を望む、明るく広々とした閲覧スペース

そして冒頭に書いたとおり、この時期特に嬉しいのが、ずらっと並んだ全国の新聞。

ネットの時代とはいえ、紙派の私としては新聞はやはり両手に広げて読みたい・・。

地方予選1回戦からの経過情報や、各校選手のちょっとしたエピソードなどは、

地元紙のきめ細かい取材ならでは。そして、高校野球だけでなく、全国紙には載らない

ローカルなニュース、意外な作者が意外な地域の新聞に連載している小説、などなど、

地方紙には魅力がたっぷりですよ。

 

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美しく並べられた在京紙7紙、地方紙49紙。今日はどこを訪れましょうか。

 

写真9.JPGパネルをタッチして、各地域の新聞の紙面レイアウトを画面上で比べることもできます

 

高層集合住宅ビルに囲まれた佃の一角にあるガラスの建物に、日本各地から世界各国、そして過去から現在までの様々なニュースが凝縮されているなんて、ちょっと誇らしくなりました。