[与太朗]
2010年10月28日 13:30
中央区は多くの文化人・芸術家を生んでいますが、銀座通り沿いで生まれ育った人となると少ないでしょう。何点もの麗子像で有名な岸田劉生は彼の回想文『新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)』によれば、明治24年(1891年)6月23日、京橋区銀座二丁目11番地(現在の銀座2-7メルサの辺り)で生まれ、「鉄道馬車の鈴の音を聞きながら青年時代までそこで」育ちました。
父は明治の先覚者の一人、岸田吟香。生家は目薬「精錡水」(吟香がヘボン博士から製法を伝授されたもの)で名高い楽善堂。店と母屋と工場があり、隣の勧工場も岸田の家作、銀座通りをまたいで倉庫もありました。岸田麗子の『父 岸田劉生』によれば、店は間口八間、半分に区切って向かって右が「精錡水」や「薬シャボン」を売る薬房、左が中国の筆墨硯紙その他文房具類や書籍を売る書房でした。(楽善堂の「鐡飴煎」という薬の広告看板が郷土天文館に残されていますね。)当時としてはハイカラな家で、銀座通りに面した二階には洋風のバルコニーがあり、吟香はよくここで体操をしていたそうです。(『新古細句銀座通』には劉生画の生家図、隣の勧工場などの挿画があって楽しい。)
子供のころの劉生はかなりのいたずら坊主で、銀座の舗道に糝粉細工で作った血まみれの小指を置いて大騒ぎを起こしたり、女の生首を作って女中の腰を抜かせたりしました。また、竹川町(現銀座七丁目)の勧工場にある西洋画の常設展覧所に通い詰め、木戸御免にしてもらうなど、将来の大画家にふさわしいエピソードも残しています。
劉生は多くの麗子像をはじめとする肖像画、自画像や代々木の切通し坂の絵が広く知られています(「麗子微笑」「切通しの写生」は国の重要文化財)が、中央区内を描いた絵としては、銀座風景や築地居留地風景の油彩が初期に何点か描かれています。
【写真上】 生家辺の現在
【写真中】 生家跡近くにある銀座発祥の地碑
【写真下】 京橋跡近くの煉瓦銀座の碑
( ちなみに、京橋架け替えの際、父吟香と天狗 煙草の岩谷松平が渡り初めをしたことをよくおぼえていると劉生は書いています。明治34年の鉄橋の時でしょう。)
[巻渕彰/写楽さい]
2010年10月27日 11:00
江戸後期、日本全国を測量して本格的地図を完成させた伊能忠敬。「大日本沿海輿地全図」は通称「伊能図」と呼ばれ、八丁堀亀島町で作製・完成された。その史跡地の日本橋茅場町二丁目には「地図御用所跡」説明板(写真下左)が建っている。また、亀島橋西詰南側には歴史案内板がある(写真下右)。
伊能忠敬は延享2年(1745)上総国山辺郡(現千葉県山武郡九十九里町)で生まれ、18歳のとき下総国佐原村(現佐原市)の豪家・伊能家に入婿し、忠敬と名乗った。50歳で家督を譲り、翌年江戸深川黒江町(写真上左)に居を移し、幕府天文方の高橋至時に師事して天文学を学んだ。
蝦夷地の測量に始まり、以後17年間、10次にわたる日本全国の沿岸を実地測量し、その距離は4万kmを超えたといわれる。測量の出発前には弟子たちと富岡八幡宮に参詣して、道中の無事を祈ったという。そのゆかりの同神社の境内には旅立ち姿の銅像(写真上右)が建っている。
文化11年(1814)には深川黒江町から八丁堀亀島町に転居した。ここは地図御用所としての役宅でもあった。この地は与力藤田六左衛門の屋敷(約200坪)の一部借地で、亀島町とはいうが、武家地のため正式な町名はない。したがって、このあたりの町名を援用したもの。桑原隆朝(仙台藩医、江戸詰、400石)の屋敷跡だった。
忠敬は文政元年(1818)、73歳で死去し、ここが終焉の地となった。遺言で浅草源空寺に埋葬したが、喪のことは黙していた。死後も門弟たちによって地図製作(仕立て)は続けられ、文政4年(1821)、「大日本沿海輿地全図」が完成し、幕府へ上呈した。このときになって喪を公表した。
幕府要人への地図披露にあたり、息子忠誨は、「・・・大広間エ、京ヨリ西之方大図十四巻開キツグ。中図、小図又ツグ。御老中、若年寄御ラン遊、又諸巻巻キ納メ・・・」(「忠誨日記」 文政4年7月10日)(『伊能忠敬研究』第34号所収)と遺している。
[まぴ★]
2010年10月27日 09:00
毎年10月は各地の神社で恵比寿講が開かれます。
その前日にべったら漬けが売られるようになりそれがべったら市になりました。
江戸時代の中頃から続いてるそうです。
これは、中央区観光検定のテキストにも載っていて
べったらが大好きなので絶対行きたいと思って、昨年初めていきました。
10月19日20日と2日間。
駅を降りると色んなお店がずらーっと並び、400軒くらいの露天が出ているそう。
べったら漬けのお店だけでも100軒以上あるのでは!
まずは宝田恵比寿神社へお詣り。
これは昨年の写真ですが、神社の横にあったべったら屋さんをみると
威勢のいいおにーさんが「食べてみて~」と試食をすすめてくれたべったらが
とても美味しかったので買ったのですが、東京新高屋という有名なお店でした。
宮内庁御用達で、林家三平さんが、初代の三平さんとそのお店のPRポスターに出てたそう。
これが寶田恵比寿神社、御神輿も出ていて賑やかでした。
今年も新高屋さんで買いましたが、去年はなかった皮付きべったらや蕪もありました。
でも野菜高騰のせいか、大根が小さくなってる気がします。
主人の母がべったらが好物なので、今年は本場のべったら漬をクール便で大阪に送りました。
にんべんさん、榮太郎飴さん、山本海苔さん、貝新さん、日本橋文明堂さんなど
まち歩きツアーでお邪魔したお店も出店されていました。
[下町トム]
2010年10月27日 08:45
新富町から銀座へと歩く途中、ちょうど首都高速の京橋入口付近に<三つ橋>の記憶を伝える案内案を見つけることができます。
〔銀座ラフィナート〕(旧京橋会館)の脇にひっそりと掲げられたその文章を読むと、この辺りが川に囲まれた地域だったことがよく分かります。
歴史小説の好きな方はご存知かと思いますが、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』第9巻「鯉肝のお里」の舞台として詳しく描かれています。
〔三つ橋〕に関する歴史は、9月24日付けの写楽さい氏のブログに詳しいので、そちらをご参照下さい。 中央区ここに歴史あり〈24〉
私が紹介したいのは、この地に建つ〔銀座ラフィナート〕(旧京橋会館)です。
地下一階には、歴史を伝える名を冠したお店「みつはし」があります。なかなか落ち着いた店ですので、立ち寄ってみて下さい。
また、〔銀座ラフィナート〕1階玄関脇にはもうひとつの史実を伝える〝自動電話交換発祥の碑〟があります。そもそも、この建物はNTTにゆかりがあります。元は京橋電話局があったところなんですね。
大正15年にわが国で初めて電話の自動交換が行われた場所です。携帯電話全盛の時代に想像もつかないかもしれませんが、当時は、交換手の手を経ないで機械が電話回線をつなぐという斬新な設備を誇ったのです。
さて、かつての古名は、高速道路の料金所や駐車場の名に「白魚橋」が残され、往時を偲ぶことができます。白魚橋のさらに古い別称「牛の草橋」の由来をどなたかご存知でしたら教えて下さい。
以前ご紹介したように、昔は〝土橋〟や〝竹橋〟のように見た目をを橋の名に残すものがありましたから、草橋も草の生える姿をその名に残したものでしょうか。〝牛〟は動物のことか、それともお城から見て〝丑〟の方角だったからか・・・関心が深まります。
近世も近代も現代も、さまざまな顔を見せてくれる・・・・中央区の魅力の一つですね。
〔参考〕左が付近の古地図です。3つの橋が向かい合っている姿がよく分かります。(尾張屋版切絵図から引用)
左から来るのが京橋川、右手に出て行くのが桜川です。桜川は、八丁堀駅近くの〔桜川公園〕などにその名を残しています。
[小江戸板橋]
2010年10月27日 08:45
江戸時代には、時間を知らせるために鐘を撞きました。
町地に設けられた最初の「時の鐘」は、中央区内にありました。
所は、日本橋石町。
石町に鐘撞堂が建てられたのが、寛永3年(1626年)と言いますから、
三代将軍家光公の時代ですな。
この江戸の町地で最初の鐘。江戸城内で撞いていた城鐘を移したとも、
鐘撞堂を建てたのに合わせて新しく鋳造したとも言われています。
「時の鐘」第一号ならば、江戸城内で響いていた鐘を譲り受けたと言う
ほうが、趣があって素敵じゃないですか。
鐘撞きの管理をしていたのは、鐘撞役「辻源七」さん。
でも、鐘撞きの時間は、どうやって決めていたのでしょう。
ものの本から推測するに、和時計や時香炉を使っていたようです。
線香の燃える時間で、時を図るのが、時香炉ですね。
捨て鐘を3回撞いて注意を喚起し、その後に時刻の数だけ撞いて知らせ
ていました。
ほんとの所、時間が多少ずれることもあったそうな。
江戸の人々は、それを飲み込む、おおらかさがあったのでしょう。
明暦3年の大火(1657年)の後、江戸の市街地は急速に拡大します。
それに伴い、上野、浅草、市谷、芝など十数か所に設けられていったとか。
現在、「時の鐘」は、日本橋小伝馬町の十思公園内に移されています。
二階建ての鐘撞堂に提げられているのが、宝永8年(1711年)に鋳造された
鐘です。
なぜ、日本橋石町に第一号が置かれたのでしょうか。
それはもう、そこが江戸の町の中心だからですよ。
あの鐘の音が、江戸中に響き渡っていたのですね。
[下町トム]
2010年10月18日 07:38
中央区は水辺の多い土地です。海や川に面している場所も多いですが、水運のための運河も多かったことは有名です。
今では埋め立てられてしまった川や運河も多いのですが、新川近辺には、亀島川や日本橋川がかつての雰囲気を残してくれています。
〔写真は、新川付近今の姿。右の写真は佃リバーシティーを望む〕
この辺りは、明治期くらいまでは、酒や醤油の水揚げの舟が行き交ったといいます。東京の商業の物流を支えた運河も、今は水面に新しい町の姿を映して、静かにたゆたうかのようです。
時には下町水辺散歩もいかがでしょうか。