[北遊人]
2010年11月30日 09:30
旧東堀留川の河岸地にある小網神社で、29日、どぶろく祭りが行われました。
祭りの謂われは、11月28日の新嘗祭に供饌されるどぶろく(神饌田でその年にとれた新米をかもして作った濁酒)を参拝者に振舞うところから名つけられた。
小網神社の説明板です。
隣接されている神楽殿です。
振舞いのどぶろくです。
強運厄除けの みみずく がお目見えです。
ちょうど、民俗文化財のお神楽を聞くことが出来ました。
現社殿、神楽殿は昭和4年に造営され、戦禍にも免れ現在、日本橋地区に残されている唯一の木造ひのき造りの神社建築であり、中央区文化財に指定されている。
[与太朗]
2010年11月29日 08:36
「江戸京橋銀座一丁目。お上りなれば左りの方。お下りなれば右りの方。表は板塀に竹を植え込み、隠者めかした山東京伝。内へ入れば、たゞの店。京屋伝蔵方にて・・・」(山東京山『煙草二抄』)
江戸戯作の第一人者、ベストセラー作家の山東京伝は、数え13歳から56歳の没年まで銀座一丁目の住人でしたが、寛政五年(1793)秋、33歳のとき、京橋銀座一丁目東側橋の方の木戸際に借家して間口九尺奥行二間、紙製煙草入れの店を開きます。浮世絵師北尾政演としても評価の高い京伝自身デザインの新形商品が大当たり、寛政七年には同じ銀座一丁目、父伝左衛門が家主を務める医者の家蔵を買って移転、間口三間の広い店になりました。
京伝は戯作の中でも店を宣伝、歌麿は京伝店の店頭を大判錦絵に描き、京伝に引き立てられた馬琴もその作中で「今時、京伝店の煙管・煙草入れを持たない者と薩摩芋・唐茄子の嫌いな女はいない」などと提灯持ちをしています。自作の引札(ちらし)も評判を呼び、判じ物仕立てになったものもありました。(判じ物とは、狐に背負われた子の絵で「古今」、老僧が逆さになって「候(そうろう)」と読ませる類。明治になって幸田露伴が解読文『京伝の広告』を書いています。) 繁昌につれて扱う商品も開業時は紙製煙草入れのみだったのが、楊枝入れ・煙管・鼻紙袋から懐中物一式、読書丸・奇応丸などの薬類、白牡丹など化粧品と増え、「江戸じまん名代名物ひとり案内」という番付には化粧品・小間物・薬類に「京はし 京傳 烟草入」が前頭に挙げられています。
彼は黄表紙・洒落本ですでに大作家としての地位を築いており、寛政の改革では筆禍に遭いましたが(手鎖五十日)、しっかりした堅実な家業を起こし、それを基にさらに読本・合巻や考証の分野で腕を揮っていきます。マルチアーティストというと往々奇人変人タイプを想像しがちですが、京伝は人格的にも円満な粋者、通人だったようです。
文学散歩の草分け野田宇太郎は、京伝を「銀座的人物」と評し、こう書いています。
「江戸稀代の粋人で、戯作もし浮世絵も描き、ディレッタントらしい教養をもちながら商才にもたけていた山東京伝を、わたくしはいかにも銀座らしい人物だと思う。」
【写真上】現在の銀座一丁目東側(一丁目交番前より)
【写真下】京橋記念碑と親柱(明治8年)
[巻渕彰/写楽さい]
2010年11月25日 08:30
現在、国の重要文化財指定されている永代橋。今から約200年前に崩落したことはよく知られている。時は文化4年(1807)8月19日、深川富岡八幡宮の大祭は11年ぶりに執り行われた。祭りで賑わう人々が永代橋を渡っているときに崩壊したのだ。当時は木橋でかなり痛んでいたともいう。犠牲者は約500人とも、はたまた1500人に達したとも言われ、確かな人数は不明だ。この大惨事を蜀山人(大田南畝)は狂歌で「永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼あすは葬礼」と詠んでいる。落語「永代橋」でも演じられた。
当時の犠牲者を悼んだ文化4年永代橋崩落横死者供養塔および石碑が目黒区下目黒の海福寺にある(写真上左右)。同寺は江東区深川にあったが、明治43年(1910)現在地に移転した。供養塔と石碑は平成3年に東京都指定有形文化財になっており、説明板が設置されている(写真下左)。
これによると「江戸はじまって以来の大惨事が発生した」「溺死者の百日忌・五十回忌・七十七回忌・九十一回忌の折に海福寺境内に建立された」「溺死者440人ともいわれた空前の大惨事を、江戸市民がどのように受けとめ後世に伝えていたかを明らかにすることができる都内唯一の資料である」と記されている。
供養塔の台座はだいぶ古く、そこに彫られた刻字はかなり磨り減って読みにくいが、「京橋」や「八丁堀」と刻まれて、犠牲者の氏名がわずかに読み取れる。3年ごとに執り行われる深川八幡祭は現在でも、中央区側の新川や箱崎町が氏子であり、隅田川をはさんで幅広い社域を誇っている。当時も隅田川の西側から担ぎ手や観衆が集まっていたことが分かる貴重な史跡である。
[O傘]
2010年11月22日 12:49
江戸時代の天下祭「山王祭」に参列していた「静御前」(しずかごぜん)の山車(だし)はじめ、10数台の人形山車の絢爛豪華な巡行が、栃木市の中心街「蔵の街大通り」で行われました。「とちぎ秋まつり」です。
祭りは隔年で開催されているそうですが、今年(2010年)は開催の年にあたっていて、11月13日(土)、14日(日)の2日間行われました。
ガイドのサポーターも兼ねて「絢爛とちぎ山車祭見物」のイベントに参加することになり、
日本橋の町内が所有していた「静御前」などの人形山車【参考1】の巡行を、初日(11/13)に見てきましたのでご紹介します。
東武浅草駅を10時30分発の特急に乗り、約1時間10分で栃木駅に到着です。
祭りは14:30の開始なので、それまで街の散策をしました。
【街の紹介】
街には、いたるところに古い蔵(土蔵)が現存し、出桁(だしげた)造りの家も多く目にします。明治、大正の昔に返ったようです。
これらの多くは文化庁の登録有形文化財や県の文化財に指定されています。
街の中心には、流れの穏やかな清流「巴波川」(うずまがわ)が流れ、
祭りに来たお客を川舟にのせ、船頭が土地の民謡や蔵の話を披露しながら竿を操っていました。
川床には藻が揺らぎ、たくさんの鯉が泳いでいます。見ているとゆったりした時の流れを感じます。
栃木市の街の歴史については【参考2】をご覧下さい。
【とちぎ秋まつり】
オープニング・セレモニー(出発式)で、栃木市の鈴木俊美(としみ)市長の挨拶があり、
「今回の秋つりは、3月に近隣3町を合併し人口も倍近い14万人になった新生栃木市の最初のとちぎ秋まつりで、大変意義深い。
また小江戸と呼ばれる川越市、旧佐原市や、中央区、墨田区とも幅広くお付き合いをしている。」
などの挨拶があり、
来賓として香取市、春日部市などに並んで、
中央区から区長代理の中央区文化・生涯学習課長の鈴木 浩(ひろし)氏が紹介されました。
大勢の見物客が両側の歩道をうずめる中、絢爛豪華な人形山車の巡行が始まりました。
お目当ての「静御前」の山車には、太鼓席の横に「元江戸山王祭 九番山車」【参考3】の札が立ててありました。
多数の山車が連なり巡行する様子を見ていると、江戸時代の山王祭を見たような気がします。
歌川広重の「名所江戸百景」に「糀町(こうじまち)一丁目山王祭ねり込(こみ)」の絵があり、山車が連なり、
桜田濠越しに半蔵門から江戸城に練り込む様子が描いてあります。
この「とちぎ秋まつり」を見て、当時の天下祭りで使用された高さ7mもある人形山車45基の行列がいかに絢爛豪華で壮大だったかを思わずにはいられませんでした。
そして日本橋で所有していた「静御前」の山車に会えたのも嬉しく、感慨深いものがありました。
中央区と交流のある「小江戸」栃木市を是非一度訪れてみてはいかがでしょうか。
【参考1】栃木の山車
「とちぎ秋まつり」に、江戸時代の天下祭「山王祭」に出御(しゅつぎょ)した「静御前」(注)の山車は、日本橋の町内が所有していたもので、明治初期に栃木の倭(やまと)町3丁目が購入したものだそうです。
(注)静御前:京の白拍子(しらびょうし)(平安時代から鎌倉時代にかけて、歌舞を行う遊女)で源義経の寵女(おもいもの)。頼朝に捕らえられ、鎌倉「鶴ケ岡八幡宮」の舞台で直垂(ひたたれ)、立烏帽子(たちえぼし)に刀を差し「しづやしづ、賤(しづ)のをだまき、くり返し、むかしを今に、なすよしもがな」と頼朝の前で臆せず歌ったといわれます。
静御前の人形は嘉永元年(1848年)、「松雲斎 徳山」の作といわれ、栃木にある山車で最も古い人形です。
このほか三国志の「劉備」(りゅうび)、「関羽」(かんう)、「張飛」(ちょうひ)の山車もあり、これらは明治26年(1893年)、県の祝典のために日本橋本石町の人形師「三代目 原 月舟」に依頼して製作したものだそうです。
そして、「天照大神」(あまてらすおおみかみ)、「日本武尊」(やまとたけるのみこと)、
「素盞鳴尊」(すさのおのみこと)、「神武天皇」、「太閤秀吉」(たいこうひでよし)、「桃太郎」の山車もあり、「静御前」および三国志の3体と合わせて県指定有形民俗文化財です。
左の写真は、「天照大神」の山車
さらに「諌鼓鶏」(かんこどり)、「弁慶」、「仁徳天皇」の山車もあり、これらは市指定有形文化財に登録されています。
これらの山車は県や市が保有しているのではなく、各町会が保有・維持しているそうです。
栃木の山車は「江戸型人形山車」(えどがたにんぎょうだし)と呼ばれ、山車を覆う幕が金糸、銀糸で、山車ごとに特徴のある絢爛豪華な刺繍がなされています。そして高さ7mほどもある山車が江戸城の御門をくぐるために上げ下げ可能な2重構造になっています。
大通りにある「とちぎ山車会館」で本物の山車や「とちぎ秋まつり」の映像などをいつでも見ることができます。
【参考2】 栃木の街の歴史 ~例幣使街道と巴波川の海運~
栃木市は、埼玉県の川越市や千葉県の旧佐原市(現 香取市)にならんで「小江戸」と呼ばれ、
明治4年(1871年)の廃藩置県で、江戸時代の下野国(しもつけのくに)が、栃木県と宇都宮県に分割されましたが、明治6年に2つの県が合併して栃木県になり、この栃木市に県庁が置かれて政治・経済・文化の中心地として栄えたそうです。
その後、明治17年に県庁は宇都宮市に遷りましたが、県名は栃木県として残りました。
「県庁堀」に県庁の名を残しています。
江戸時代には、家康を祀る日光東照宮に、江戸時代には朝廷から勅使(ちょくし)「例幣使」(れいへいし)が毎年参向し、栃木は、その「例幣使街道」の宿場町(栃木宿:第13番目)として発展し、
さらに巴波川(うずまがわ)を利用して、江戸との間を舟運(ふなうん)により物資輸送を行ったことで、幕末期には栃木商人は隆盛を極めたといわれます。
栃木の「蔵」はやはり土蔵が多いのですが、石蔵、板蔵もあるそうです。用途は倉庫のほか、店舗としての「見世蔵」(みせぐら、店蔵)があります。この栃木には日本最古級の見世蔵があるそうです。
栃木は江戸時代に浮世絵師「喜多川歌麿」と交流があり、最近発見された「鐘馗(しょうき)図」、「三福神の相撲」および「女達磨(おんなだるま)図」の3点の肉筆画を保有しています。
【参考3】 江戸時代の山王祭の山車行列
山王祭は、神田祭とともに将軍の上覧が許され江戸城内に入ることができたため「天下祭」(てんかまつり)と言われ、2つの祭りは交互に隔年で開催されました。
当時の山王祭の行列は大榊を先頭に、各町の山車(45基)、神輿(3基)が続き、このほか付祭(つけまつり)と称し、長唄や常磐津節などの音曲を伴った踊り屋台(移動式舞台)なども参加したそうです。
山王祭の山車は、1番の諌鼓鶏(かんこどり)から45番猩々(しょうじょう)の山車まであります(文久2年)が、大多数の山車は現在の中央区の日本橋地区、銀座地区、新川地区の町が出したものでした。
山王祭も天保の改革の倹約令の対象となって以後次第に衰えますが、文久2年(1862年)の祭が、将軍上覧の最後の天下祭といわれます。
そして明治22年(1889年)を最後に、山車が山王祭に引き出されることは無くなりましたが、
これは市街電車の架線敷設により背の高い山車の巡行が出来なくなったとか、維持と巡行に費用がかさむなどの理由だと言われています。
そして人形山車は、次第に関東各地に分散していったようです。
[ゆりかもめ]
2010年11月21日 10:17
東京メトロ有楽町線・都営地下鉄大江戸線 月島駅下車 徒歩3分の場所に大きな銀杏の木が屋根の間から天に向かって伸びています。佃波除稲荷のすぐ近くです。
江戸時代中期に在住された上野寛永寺、崇徳院宮法親王(すうとくいんのみや)が地蔵菩薩を厚く信仰され自ら地蔵尊像を描き江戸府内の寺院に地蔵尊造立を促されたと伝えられています。
屋内にある地蔵尊御姿です。
本尊に手 を合わせ近づいて撮らせて頂きました。
地蔵菩薩です。
奥に本尊がありその手前に このような大きな二抱えもあるような銀杏の木の幹があります。
この銀杏の木が屋根を越してその上に出て大きく成長しています。
区民有形文化財に・・・・との御話もあったそうですが地域の自然の中で皆様と共に育って行くと云う事で辞退なさったそうです。
ですから「銀杏について」の詳しい資料はありません。
隙間から上を見上げて撮りました。
東京都佃一丁目 9-6 佃天台地蔵尊
[小江戸板橋]
2010年11月19日 18:00
「これは何だ。」
目の前にズズズイーッとつながる作品を前に、息をのみます。
今から200年ほど前。1805年(文化2年)の江戸の町並みを活写した絵巻。
『熙代勝覧(きだいしょうらん)』です。
華のお江戸の中心地、神田今川橋から、遠くに富士を望む日本橋までの大通り。
重なり合う町屋、行きかう人々のざわめき、通りの喧騒。
生活の匂いまで、グッと伝わってくるようです。
緻密な大通りの描写が、絵巻物ならではの長大な空間に広がっています。
この絵巻は、ベルリンの国立アジア美術館に収蔵されており、実物の1.4倍に拡大された複製が展示されているのです。
ところは日本橋三越前コンコース。地下鉄銀座線及び半蔵門線「三越前駅」改札口の直ぐそば。地上出入口番号でいうと、A3とA5の間です。
「この迫力は何だ。」
文化2年の、時の将軍は徳川家斉公。
江戸文化の爛熟期といえる、文化・文政の輝けるシーン。
圧倒的な人の流れ。今に残る老舗の数々。
描かれた人々の、その表情や仕草に、つい引き込まれます。
いつしか江戸の町の、華やぎの中を歩いているような気分。
動物も、犬、猫、馬、牛をはじめ、猿が1匹、鷹が2羽描かれています。
絵巻を見る手がかりに、猿と鷹から捜してみてはいかがでしょう。
地上へ戻り、200年後の町並みを眺めてみます。
日本橋からJR神田駅方面に向けて、中央通りを歩きます。
今川橋は、かつての竜閑川が埋め立てられているため、現在は存在しません。
その代わり、HONMA GOLFさんの前に『今川橋由来記』が設けられています。
ここから、日本橋方面を振り返って見ましょう。
絵巻の中を歩いた目には、町の風景がどんな印象に映るでしょうか。