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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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中央区で見る江戸城の遺構

[小江戸板橋] 2011年2月28日 09:00

江戸のシンボルは何でしょうか。

「江戸城」、千代田のお城が、まず挙げられるのではないでしょうか。

 

中央区にも、その広大な遺構がじかに見られる所があるのです。

江戸城外堀に架けられた「常盤橋」です。

現在、このエリアには、「常盤橋」、「旧常磐橋」、「新常盤橋」の三つの橋があります。

その真ん中の、自動車が通行できない橋が、今日の目的の「旧常磐橋」。

少々名前がややこしいのですが、まずは、実物を見ることから始めましょう。

 

地下鉄半蔵門線の三越前駅の「B1」出入口から地上に出ましょう。

(なお、銀座線の三越前駅からだと、「A5」出入口から地上に出て、三井住友銀行、日本銀行本店を右に見ながら、江戸桜通りを直進します。)

そこから直ぐに見えるのが、「常盤橋」。

そして、お堀沿いに北に道なりに進むと、「旧常磐橋」。

日本銀行本店を背に、橋の向こうを見やれば、外堀に残る、枡形門の跡が望めます。

 

両翼を石垣でしっかり組まれた「コの字形」の枡形。

その空間に、冠木門、渡りやぐらなどが築かれていたのでしょう。

 

ウーン深い。 堀ではなく「おもむき」が・・。

 

ここは、内堀に架かる江戸城大手門から続く、外堀の大手口。いわば正面玄関の位置づけですね。

江戸城内郭と町地とを結ぶ、境の門。

そして、現在の江戸通りに沿う形で、浅草から千住宿・草加宿・越ヶ谷宿へと続く、日光街道・奥州道中の重要な玄関でもあったのです。

 

橋の中ほどが、中央区と千代田区の境なのでしょうか。

橋の向こう側に、千代田区教育委員会の「常磐橋」の案内板があります。

 

「現在の石橋は枡形に使っていた石を用いて、明治十年に改架した都内随一の貴重な洋式石橋」なのだそうです。

橋にも、石垣の石が用いられていたのですか。

踏みしめる足が、何とはなしに熱く感じられます。

 

城に深い愛着を持つ人には、なかなかのビュースポットです。

が、周囲での寝泊りや飲食を禁じる注意書きや、愛煙家の溜まり場的な空間になっている事、外堀の水のどんより感などが気になる人には、少しディープ過ぎるかも知れません。

 

ディープといえば、このエリア、日本橋川・外堀との曲線に、JR線の高架、そして首都高速道路の高架が複雑にクロスしているので、「常盤橋」と「新常盤橋」間をぐるっと周遊すると、自分の位置関係が、一瞬分からなくなりますよ。

 

中央区側(日本銀行本店側)の堀内に、「日本橋川常盤橋 防災船着場」があります。

この船着場は、大地震等の災害時に陸上交通の補完施設として利用されるのだそうです。

河川や堀が巡り、舟運が発達していた江戸の遺構が、様々な場面で有効に機能するように、見えにくいところで、しっかり整備されていたのですね。

 

 

 

東京マラソンコース ウオーキング 銀座から月島 もんじゃ祭り

[銀造] 2011年2月26日 08:30

 今週は、銀座4丁目から築地、明石町から佃、月島を楽しく歩きました。

あかつき公園では、白梅にメジロが2羽、盛んに花の蜜をついばんでいました。

シーボルトの碑では、シーボルトさんの功罪を勉強しました。

CIMG7580.jpg

 佃の住吉神社、佃小橋を経由して、月島に入りました。 昼食は何にしようかな?

皆さん、お目当てのもんじゃ屋さんへと急ぎました。 

あるグループは月島温泉のお隣にある洋食屋さん"ピアソラ"の前でメニューを見ています。

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 店内に入られたグループの方々の写真を撮影させて頂きました。中々洒落て清楚な店内。

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 西仲通り商店街で、第1回東京月島もんじゃ祭りのポスターを発見。

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何時来ても楽しいhappy01月島、次はもんじゃ祭りにこようっと!

 

 

幻のビール ~カブトビール~

[O傘] 2011年2月25日 17:00

一枚の写真が目につきました。京橋あたりを写した古い写真です。

大正8年(1919)5月7日東宮殿下(皇太子)であった昭和天皇の成年式(注1)を祝うために京橋の橋詰めに設置された2基の「奉祝門」が高々と写っています。

IMG_8350tcomp.JPG市電が通る京橋通りは、昔も人力車や荷車が往来する賑やかな通りだった様子が分かります。この4年後に関東大震災でビルや家が倒壊してしまいます。

さて、そして写真をよくご覧ください。ビルの上に「カブトビール」の文字看板が上がっています。

カブトビールは今は目にしませんが当時は有名だったようですね。それでカブトビールについて少し調べましたのでご紹介します。

カブトビールの発祥
半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場).jpg「カブトビール」は、愛知県知多半島にある半田市で生まれました。

今でもビール工場の赤レンガの建物(注2)が3分の2ほど残っていて、観光スポットにもなっています。

明治時代から太平洋戦争末期に掛けて「カブトビール」を製造して、全国に送り出した工場です。

昨年(2010年)9月、赤レンガの建物の内部が一般公開されたそうです。

知多半島は古くから醸造産業が盛んで、お酢の「ミツカン」(本社・愛知県半田市)をはじめ、酒、味噌、たまりなどの発酵酒や調味料が育まれました。

半田カブトビール工場t.jpg「カブトビール」は明治32年(1899年)に丸三麦酒株式会社が発売をはじめました。

ポスターt.jpgアサヒ(大阪)、サッポロ(札幌)、キリン(横浜)、エビス(東京)の大都市を控えた4大メーカーに対して、半田という地方都市から果敢に挑戦しました。

なんと明治33年(1900)のパリ万博では金牌を受賞しています。


大手メーカーに対抗したカブトビールは趣向を凝らした宣伝を展開しました。20世紀初頭には全国5位のシェアを占めるようになったそうです。

その後、赤レンガの建物でのビール製造は昭和18年(1943年)に中止され、第二次世界大戦中に中島飛行機製作所の衣料倉庫として使用されました。そして終戦後になってもカブトビールの製造は行われませんでした。

カブトビールの復刻 

  IMG_8461tcomp.JPG知多半島の半田の「赤煉瓦倶楽部」が復刻プロジェクトを進め、明治・大正時代の「カブトビール」を平成15年(2005年)6月4日に3000本限定で復刻させることに成功しました。


復刻カブトビールは、明治のビールの特徴の「赤褐色、味が濃くてホップが強く、熟成3カ月、アルコール度は強め」を持っているそうです。瓶も当時に近い形を選んだとのこと。

東京で1軒だけですが復刻のカブトビールを飲むことができます。

中央区新富町にある店名「ハントコ」Cafeです。店の名前「ハントコ」は、ビール工場のあった愛知県知多半島からとっています。
http://r.gnavi.co.jp/p606501/

http://blog.hantoco.jp/

是非、一度幻のビールをご賞味あれ!

なお、カブトビールの名称の由来は、ビールを喉で勢いよく飲む「かぶる」がなまったという説や、日清戦争後の戦意高揚のために勇ましい「兜」の商標を採用したなど諸説あります。

 (注1)成年式とは、ある年齢に達した人を、子供から一人前の人間として社会的に認めるために行う種々の儀式で、一般に15歳から18歳までに行われていました。
貴族社会では加冠(かかん)とか元服(げんぷく)等とよばれ、士族社会では烏帽子着(えぼしぎ)、農民の間では男性は名替(ながえ)祝い、女性の場合は鉄漿付(かねづけ)祝い、ユモジ祝いなどとよばれたそうです。

(注2)赤レンガのビール工場は、日本橋をデザインした妻木頼黄(つまき・よりなか)氏が設計。建物は平成16年(2004年)に国の登録有形文化財に登録されました。レンガの数は東京駅、北海道庁、横浜赤煉瓦倉庫に次いで日本で4番目だそうです。なお、壁面の煉瓦には第二次大戦中のP51の機銃掃射の痕が残っています。
 

 

 

レトロちっくな看板建築

[みど] 2011年2月25日 09:15

中央区観光協会にも参画している"ホテルかずさや"は明治24年創業という
ホテル業界の中でも草分け的な存在です。
このホテル内にあるレストラン「ニレーヌ」では、中央区のオリジナルカレー
「お江戸旬カレー」を食べることができます。
 ▼「お江戸旬カレー」についてはこちらをご覧ください。
   http://www.chuo-kanko.or.jp/50th/opening/oedocurry.html

さて、今回の情報は"ホテルかずさや"ではなく、その隣に何気なく存在する
レトロちっくな看板建築です。
「看板建築」をご存じない方のために補足しますと、主に東京や関東周辺で
関東大震災後の昭和2、3年ころに建築され、とりわけ商店などで用いられた
建築様式のことを言います。
具体的には、木造2階建てで屋根裏部屋があり、店と住まいが一緒になった
併用店舗となっているもので、前面の壁面は垂直にたちあがって、銅面や
モルタル、タイル張りとなっているものです。建物は通りに面していることが
多いため、軒が前面に出ているということはありません。この前面の平たんな壁
を利用して、自由なデザインを試みたところから、看板建築という名称がつけら
たとのことです。
どこか懐かしさがあって、日本の風情を感じさせてくれる建築様式だと思いませんか。

s-01.jpg

 

 

◆中央区 ここに歴史あり<28>~八丁堀にある3つの神社~

[巻渕彰/写楽さい] 2011年2月21日 13:00

江戸期の八丁堀一帯は、与力同心組屋敷が置かれた武家地(大繩拝領地)とともに町人が暮らしていた町地でもあった。そこには庶民信仰の神社が存在していた。現在は天祖神社、日比谷稲荷神社、今村幸(いまむらさいわい)稲荷神社の3社がある。

 

0913_28_110220hacho_jinja.jpgまず「天祖神社」(八丁堀3-6-6、写真上)は宝橋の東南に位置する。江戸期には「伊雑(いそべ)大神宮」とよばれて、『江戸名所図会』にも描かれている由緒ある神社である。現在は祠と由来碑だけが立っているだけで、町内会が管理している。

=関連記事が2011/1/20付読売新聞都民版に掲載

 

碑文の由来によると、「志摩国答志郡伊雑荘の伊勢皇大神宮(伊勢神宮内宮)別宮である伊雑宮を寛永元年(1623)5月上旬、東へ下り武蔵国豊嶋郡江戸日本橋通三丁目へ間口10間、奥行12間の社地を賜わり、間口3間、奥行5間の御社を建立した。その後、寛永10年(1633)6月下旬、八丁堀松屋町(現在地辺り)に300坪を賜わり旧社を取り崩し再建した」とある。

 

『江戸名所図会』には「このところを磯辺横町と呼べリ、土俗、磯辺太神宮」とあり、神社の正月風景を挿絵にしている。元宮の伊雑宮は三重県志摩郡磯辺町に鎮座していることから、「イゾウグウ」とか「イソベさん」とよばれている。名所図会では「伊雑」「磯辺」の表記で、「いそべ」と読みを振っている。

 

つぎの「日比谷稲荷神社」(八丁堀3-28-15、写真中)は高橋の北西側、かつては日比谷河岸とよばれた、亀島川沿いにある。ここも祠と由緒書きがあるだけの神社。

 

由緒書きによると「慶長11年(1606)に江戸城日比谷御門建築のために八丁堀先の干潟を埋築、社殿を造営した。新しい土地の地主神とし祭祀されていたから、この一角は日比谷町と公称されていた。旅人御守護に霊験が篤かったので、江戸へ来た人びとの多くが当神社に泊まってお詣(まい)りしたことで、これを『旅泊稲荷』とも唱え『さばいなり』とよんでいた」とある。

 

3つ目の「今村幸稲荷神社」(八丁堀3-24-11、写真下)は「八丁堀駅」北東側の建物2階に存在する。江戸初期にこの地を拝領した今村家を祀ったのだろうか? 由緒書きもなく、何も掲出されていないので由来は不詳だ。幕末の絵地図にも記載がない。「伊勢屋、稲荷に・・・」といわれるほど、各地、各屋敷に稲荷社が祀られていたようなので、屋敷内稲荷だったのか。

 

「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永9年(1632)?)には、この地は「今村伝十郎」とある。『御府内沿革図書』の延宝年中(1673-1681)図では、幸町と日比谷町を合わせた地に「今村彦兵衛」と記され、元禄年中図では、そこは「幸町」「日比谷町」となっている。もと寺地だった一帯に今村伝三郎の屋敷があり、元禄3年(1690)この屋敷地を公収し、翌同4年に、幸橋外にあった幸町(現・港区新橋辺り)が移ってきて幸町と称された。

 

 

 

雪振れば佃は古き江戸の島

[坂の上のねこ] 2011年2月16日 08:30

ホワイトクリスマスならぬホワイトバレンタインデイとなった14日、

都内では比較的雪の積もりにくい中央区もうっすらと雪化粧をしました。

写真はわが家のバルコニーから撮った佃公園の雪景色です。

*ご存知の方も多いと思いますが、写真に写っている江戸風のデザインの灯台、実は公衆トイレなんですよ。

P2140141.JPG  P2140146.JPG

 

 さて、こんな雪の日に思い出していただきたいのが、劇作家北條秀司さんの句、「雪降れば佃は古き江戸の島」。この句の碑が、住吉神社から隅田川に向かって少し歩いたところ、3軒の佃煮屋さんが集まっている一角に建っています。

P2150142.JPG  P2150143.JPG

今度雪が降ったら(もちろん降らなくても)、ぜひこの句碑を見にいらして下さいね。


 

余談ですが、ニューヨ-クのマンハッタン島の西側を流れるハドソン川は冬にしばしば凍ります(北から流氷が流れて来る)。一方、東側を流れるイーストリバーは凍りません。その理由はイーストリバーの水は塩分の多い海水だからです。東海岸の極寒の冬でも、イーストリバーは凍らず船の出入りが可能だったため、マンハッタン島は数百年前から貿易で栄えたのだそうです。隅田川も河口付近のこのあたりは海水なので凍る心配はなく、江戸の水上貿易&交通の要として栄えた理由はここにもあるのかもしれません。もっとも、今よりかなり寒かったと推測される江戸時代とはいえ、さすがに川が凍るほどではなかったでしょうけれど。