[下町トム]
2012年6月14日 12:30
中央区は日本の演劇の歴史の中心地でも会ったことは皆さんご存知のとおりです。改築中の〔歌舞伎座〕や〔新橋演舞場〕〔明治座〕などと並んで伝統を誇るのが、〔三越劇場〕です。
日本橋の三越本店の6階に設置されているこの劇場は、大劇場と言うよりも「こじんまりした高級シアター」という感じがピッタリです。公式ホームページによると、1927(昭和2)年に〔三越ホール〕として開設され、戦時中の閉鎖を経て戦後現名称で再オープンしたそうです。歌舞伎や各種劇団の公演のほか、落語や邦楽の公演も行われ、親しみの深い劇場です。
造りがまた凝っていて、大理石を用いた壁面やステンドグラスをはめ込んだ天井などは気品と落ち着きを醸しだしています。まるでヨーロッパのオペラハウスのような気取った心持ちにもさせてくれます。中央通路の天井部にも様々な紋様があしらわれていて、戦前の職人の手抜きをしない作業に感心します。中には獅子のような模様もあり、三越のプライドを表現しているようにも思えます。
この日は〝劇団新派〟の公演「華岡青洲の妻」がかかっていました。新派の二大巨頭である、水谷八重子と波乃久里子が熱演し、会場の観客を魅了しました。
ちなみに〝劇団新派〟は1888(明治21)年に大阪で旗揚げされた劇団「大日本壮士改良演劇会」というのが出発点だそうです。士分を離れてやや鬱憤をもった壮士といわれる人たちが、何か新しいものを演劇の世界に求めたのではないかと推察します。何となく、明治の先進的チャレンジ精神が彷彿とするネーミングのように思えます。その後、歌舞伎に代表される伝統演劇を〝旧派〟となぞらえて〝新派〟という名前が与えられたということです。
したがって、〝新派〟は来年で125周年を迎えます。最近は若い有望な役者も増えてきて、この劇団の発展が楽しみです。現在の公演は今月23日まで開演中です。機会があったら、三越劇場の雰囲気も味わいがてら、是非観劇に出かけてみて下さい。
続きを読む: 三越劇場と〝新派〟公演
[巻渕彰/写楽さい]
2012年6月12日 08:30
大正12年(1923)9月関東大震災発災から6年6カ月後の昭和5年(1930)3月に復興式典が挙行されたことはすでに述べたが、先ごろ、岩波文庫『銀座復興』が刊行され、朝日新聞「昭和史再訪」(2012/6/2付夕刊)で復興式典が取り上げられた。大震災では銀座煉瓦街(金春通りの遺構碑=写真下左)が崩壊し、明治・大正期の近代遺産が消えた日でもあった。
今日、銀座に残る大震災帝都復興への足跡を探してみよう。
まず、「関東大震災10周年記念塔 銅造彫刻・燈臺」(写真上左)が銀座四丁目先、数寄屋橋交番裏の数寄屋橋公園にある。10周年にあたる昭和8年(1933)9月1日に建立された。彫像は彫刻界の巨匠北村西望作で「燈臺(とうだい)」と名付けられ、青年が兜を装い、松明を捧げ獅子を従えた作品。西望は長崎出身、長崎平和祈念像の作者で、文化勲章を受章した。
刻まれた標語は朝日新聞社が懸賞募集して当選した、「不意の地震に不断の用意」である。昨年の東日本大震災では1000年に一度ともいわれる大地震津波に見舞われ、まさに"不意"の災害であった。震災後は誰もが防災対策の"不断の用意"を心掛けるようになった。79年前のこの標語は、震災の教訓をいつまでも忘れないようにと、われわれに語りかけている。
つぎは「新幸橋跡碑」(写真上右)である。銀座八丁目先、内幸町方面に向かう銀座コリドー街の角に建っている。ここは戦後埋め立てられた旧江戸城外濠跡。関東大震災時には南の幸橋と北の山下橋に挟まれた堀川で、ここに橋は架かっていなかった。このため日比谷公園に逃げ込めなかった体験から、地元の篤志家・藤平久太郎らの私費と企業からの寄付で、昭和4年(1929)9月に架けられた民間の橋であった。開橋式を祝い、渡り初めを挙行したのち、東京市にこの橋を寄付した、という。碑は同年10月建立で、寄贈した旨が刻まれ、篤志家の名前と寄付した企業名が添えられている。
冒頭に紹介した『銀座復興 他三篇』(写真下中)は2012/3/16第1版の岩波文庫で、著者は水上滝太郎(1887-1940)、昭和6年(1931)発表。関東大震災で被災した銀座の人々が復興に立ち上がっていく姿を描いた小説である。料理屋を舞台に、焦土化した銀座で復興への勇気を奮い立たせる主人公の生きざまがみえてくる。
朝日新聞「昭和史再訪 関東大震災の復興式典」(写真下右)では、復興式典を報じた当時の記事に、「1週間続いた祝賀行事では、2万人のちょうちん行列など喜びにわいた」、と紹介している。また、「証言」コラムでは、中央区総括文化財調査指導員で、新書『銀座物語』著者である野口孝一さんを紹介し、「(盛り場として)復興後の銀座は飛び抜けることになりました。交通機関発達の恩恵を最も受けました」と述べている。●巻渕彰
[銀造]
2012年6月10日 08:30
安平稲荷神社は、京橋プラザ、三吉橋の近くに鎮座されています。 何年も前から、ご由緒について調べていましたが、京橋図書館の郷土資料室にて、記述を見つけました。
昭和31年版、銀座タイムス社編集の「銀座年鑑」によれば、住所は東1の2、鈴木専吉邸内とありました。 江戸時代、旧幕時代、新庄美濃守の邸内にあったもので、明治維新後、同所を先代、鈴木専吉が入手して、明治26年に万安楼を開業する際、安平稲荷神社と名付けて祀った」とあります。 以下、割愛。
郷土資料室で入手していた明治初期の地図でも確認できましたよ。
その時代背景、居留地の事、新富町の名前の由来などを考えました。○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
そんな歴史を持つ安平神社です。 今でも、近隣の方々が二礼二拍手一礼で毎朝のご挨拶をして通る習慣に敬意を表し、心が休まる風景です。
大きなマンションの片隅の歴史、ちょっと訪ねて心を休めてみませんか?
[与太朗]
2012年6月 9日 08:30
文化勲章・国民栄誉賞に輝く名優、森繁久彌(1913-2009)と、今も根強い人気を誇る脚本家で直木賞作家の向田邦子(1929-1981)。森繁久彌の生誕100年と「向田邦子賞」創設30周年を記念して、二人の交流と活躍をたどる展覧会が日本橋で開催されています。
【森繁久彌と向田邦子展】
6月6日(水) → 18日(月)
日本橋三越本店 新館7階ギャラリー
入場料 : 一般・大学生 800円
2009年に96歳の天寿を全うした森繁久彌と、対照的に51歳の若さで台湾の航空機事故に散った向田邦子。1959年秋頃、森繁のラジオ番組『奥様お手はそのまま』の台本を書いた向田邦子は森繁に認められ、以後彼の出演するラジオ・テレビ番組の脚本を任されてその才能が開花し、『七人の孫』、『だいこんの花』、『時間ですよ』、『寺内貫太郎一家』などで不動の地位を築いていきます。「ズブの素人の私がどうやら今日あるのは、フンドシかつぎがいきなり横綱の胸を借りてぶつかりげいこをつけてもらったおかげ」(『余白の魅力 森繁久彌』)と彼女は感謝しています。彼女の突然の死を嘆き悲しんだ森繁は三周忌に際しその墓前に句を捧げました。
「花ひらき はな香る 花こぼれ なほ薫る」
お二人とも生れも育ちも中央区とはご縁がありませんが、向田邦子はシナリオライターを志す前は映画雑誌の編集者で、9年間在職したその出版社・雄鶏社は江戸橋にありました。1978年の第一エッセー集『父の詫び状』所収の24編(乳がん手術の後遺症のために右手が使えず、左手で書いたそうです)は『銀座百点』に掲載されたものです。また、彼女をかしらに四人姉弟は水天宮のお札のおかげでつつがなく生れたと聞かされて育ち、人形町の魅力を熱く綴ったエッセー『人形町に江戸の名残を訪ねて』を遺してくれました。
中央区とは関係ありませんが、ここで蛇足を一つ。森繁久彌は戦後まもなく世田谷に居を構えましたが、最寄りの小田急線千歳船橋駅近くから森繁邸に至る道はいつからか「森繁通り」と呼ばれていましたが、一昨年、世田谷区はこの通称を正式名称とする「命名式」を行いました。森繁邸は現在高級マンションに変わっていますが、入口に掲げられたその名前は「SETAGAYA TEVYE」。900回公演を誇るあの名舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』の主人公の名前がつけられています。
【写真上】 日本橋三越本店の展覧会場
【写真中】 向田邦子の墓(多磨霊園)
墓碑右手のブック形の碑に「花ひらき・・・」が
【写真下】 森繁久彌の墓(谷中霊園)