日本橋蛎殻町にある美術館 ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションでは 銅板画家であり、又 戦後の一時期 作家の壷井栄に師事して 童話を書き 詩もつくっていた 南桂子の「詩と童話と版画」の展覧会を催しています。 2012・5・12~7・31
ほとばしる空想力や優しいものを包むまなざしが どの作品にも結晶しています。
この美術館へのアクセスは 東京メトロ半蔵門線「水天宮前」3番出口そば、日比谷線「人形町」A
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南 桂子展 船の旅
日本橋蛎殻町にある美術館 ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションでは 銅板画家であり、又 戦後の一時期 作家の壷井栄に師事して 童話を書き 詩もつくっていた 南桂子の「詩と童話と版画」の展覧会を催しています。 2012・5・12~7・31
展覧会タイトルになった「船の旅」は 1953年の冬、銅版画を学ぶためにフランスに渡る、その船の中で書きつけた詩とスケッチです。
1964年には 「子供と花と犬」 の版画が ユニセフのカレンダーに採用されました。
1970年には 詩人の谷川俊太郎の詩集 「うつむく青年」の装画もてがけました。
この美術館へのアクセスは 東京メトロ半蔵門線「水天宮前」3番出口そば、日比谷線「人形町」A 2出口徒歩8分です。
南桂子は 銅板画家浜口陽三氏の夫人です。 月島七不思議~第2話「月島の生い立ち」
〔月島〕というのは、もちろん地名であり、地下鉄の駅名であります。現在の住所としての〔月島〕は、〔初見橋〕から〔月島橋〕までの間の区域に1~4丁目までの区割りで存在します。 序章でも少し触れましたが、そもそもの〔月島〕はもっと広い地域を指しました。1883(明治16)年に計画が策定されて東京湾の埋め立てが始まったときに、その記念すべき最初の土地が〔月島第一号埋立地〕と名づけられたのです。その後、埋め立て計画は進行し、〔月島2号地〕(現在の〝勝どき1~4丁目〟)、〔新佃島〕(現在の〝佃〟の一部)、〔月島3号地〕(現在の勝どき5~6丁目)、〔月島4号地〕(現在の〝晴海〟)、さらに〔月島漁業基地〕(現在の〝豊海町〟)と広がっていきました。(掲出の地図は1958(昭和33)年当時のもの)
その後、1965(昭和40)年に住居表示が一新され、現在の地名になりました。〔月島〕の地名の範囲はやや狭まったわけです。
かつては多くの下町では通りの両側を一つの〝町〟とする区割りが一般的でした。江戸時代の長屋に見られるように、路地を挟んで〝向こう三軒両隣〟という考えが普通だったんですね。実際の生活感覚に合っていたのだと思います。 新しい住居表示は欧米の〝ブロック〟という考え方に準拠して町を区割りしました。そのために、道路の向かい同士が〝他所の町内〟となり、背中合わせの家屋が〝同じ町内〟となったのです。郵便などの利便性を重視したといいますが、今となってはこれでよかったのかと思うところはありますが・・・。 ただ、今でも月島の町内会は古い付き合いを大切にし、昔の区割りに近い形で町を区分けし、〔月島○の部〕(○は漢数字)という名称でコミュニティーを形成しています。
続きを読む: 月島七不思議~第2話「月島の生い立ち」 文明開化期の学園都市、築地・明石町界隈
聖路加国際病院の一角には日本で最初の四年制看護学科や大学院博士課程を持った聖路加看護大学がある。この大学は1964年に大学となったが、元々は1920年(大正9年)に聖路加国際病院付属高等看護婦学校として設立されている。その辺りを歩いてみると関東各地に現存する多くの大学や学校の発祥の地との記念碑が数多く見られる。 古いものでは、1858年(安政5年)には慶応義塾がこの地に開かれている。その敷地には中津藩邸があり解体新書の翻訳もこの辺りで行われている。
1869年(明治2年)には鉄砲洲に外国人居留地が開かれ1899年(明治32年)の治外法権撤廃まで多くの宣教師館や教会堂がこの地に建てられた。そして宣教師たちは布教の一環としての教育を始めた。その中には次のような学校がある。 1870年(明治3年)には女子学院、1874年(明治7年)立教学院、1877年(明治10年)明治学院の前身、東京一致神学校、青山学院の前身の一つ、海岸女学校が明石町近辺に設立された。1879年(明治12年)には立教女学院が湯島から移転している。1895年(明治28年)には関東学院の源流といえる関東中学院、1905年(明治38年)には女子聖学院と今も残る多くの学園がこの地に足跡を残している。
築地・明石町には海軍関係の学校も色々と有った。1857年(安政4年)には軍艦操練所が出来ている。この関係で海軍兵学寮が1876年(明治9年)に現在の国立がん研究センター中央病院の辺りに出来て、1908年(明治41年)には海軍医学校も同じ場所に出来た。海軍関では1874年(明治7年)に海軍会計学舎、後の海軍経理学校も築地に開設されている。
聖路加看護大学を除き、当時の学校はその後、関東大震災等の影響もあり築地から各地に移転していった。もし、当時のままに学校が残っていれば築地・明石町界隈は筑波学園都市を凌ぐ程の学園都市となっていただろうと考えると面白い。 2012佃島盆踊り
毎年7月13日から15日の3日間、佃1丁目の「渡場通り」の広場中央に組まれた櫓の周りで行われる佃島の盆踊り。
謂れについては諸説あるらしいが、江戸期浜町にあった本願寺別院が明暦の大火後築地に再建されるに当たり、門徒であった佃島の住民一統が埋立工事に貢献。その完成の年の盂蘭盆会で、祖先の霊を祀る行事として始めたと云うのが有力とされる。 古くは日本橋や京橋一帯を踊り廻り、志を受けそれを築地本願寺に奉納してきたが、市中廻りを禁じられて以降は佃島の中だけで行うようになり、それが今日まで伝承されてきたと云う。 戦後東京都郷土芸能のひとつに数えられてきたが、昭和51年東京都の無形民俗文化財に指定された。 音頭取りのゆっくりとした節廻しの歌と単調なリズムの櫓太鼓に合わせ、踊り手が櫓の周りをゆったりと静かに踊り歩く。哀調を帯びた素朴な風情を今に伝える。 前半は子供たちの部。後半は大人たちが踊りの中心。 最終日には往年ほどには数が多くはないものの、仮装して踊る姿が見られる。
月島七不思議~第1話「西仲通りと草市」
月島の魅力を再発見すべく、シリーズでお伝えします。
第1回は〔西仲通り〕です。名前は月島の西側中央を貫く通りであることを現しています。当然ながら〔東仲通り〕もあります。月島のメインロードである〔清澄通り〕をはさんで、東と西にきれいに区分けされているのが月島の特徴です。120年前にこの地区が造成されたときに、新しい近未来の都市計画のさきがけとして区割りされたとのことです。 〔西仲通り〕は今では〝もんじゃ焼店〟が立ち並ぶ賑やかな名物通りですが、もともとは普通の商店街でした。戦後、いち早く地元の商店が結束して商店街を形成し、地域の生活を潤すエリアとして親しまれてきました。
この通りの名物と言えば、毎年7月中旬に催される〝草市〟です。そもそもは、この時季に、お盆の道具(麻幹、筵、溝はぎ、など)を売る店が屋台を並べたのが始まりとか・・・。(写真は4年前のもの)
その後、縁日のように多くの露店が並ぶようになりました。地元の古老に聞くと、かつては〔西仲通り〕ではなく、それに直行する路に露店がひしめいていたものだということです。 今では商店街や町会の皆さんが中心となってコミュニティー主導の〝手づくりの縁日〟という感じで行われています。子どもたちにとっては、夏休み前の楽しみの一つです。今年は7月14日(土)、15日(日)の2日間に行われます。是非お立ち寄り下さい。
このような下町情緒豊かな味わいを残す月島の町をさらにいろいろご紹介したいと思います。引き続きよろしくお願いします。 続きを読む: 月島七不思議~第1話「西仲通りと草市」 |
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