南高橋は、関東大震災後の復興計画の一環として、亀島川に昭和7年(1932)にかけられた鉄橋です。
明治37年(1904)隅田川にかけられ、大正12年の関東大震災の被害を受けた旧両国橋の一部(中央部分)が、この橋に利用されています。
車の通行できる道路橋としては都内最古のものだそうです。
中央区の有形文化財に指定されています。
執筆者一覧最近のブログ記事 |
南高橋の夜景
南高橋は、関東大震災後の復興計画の一環として、亀島川に昭和7年(1932)にかけられた鉄橋です。 ◆郷土天文館「こどもの絵本、おとなの漫画~永井保原画展~」 12月23日まで開催中!
中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で第16回特別展「こどもの絵本、おとなの漫画~永井保原画展~」がはじまった。日本橋生まれの永井保は、昭和初期から平成期まで漫画、挿絵、水彩画、エッセイなどの作品で活躍した。4千点余に及ぶ遺品の寄贈を受けた中から、選りすぐりの作品が展示されている。会期は12月23日まで、月曜休館。入場無料、図録(A4判カラー刷、48ページ)は有償頒布(200円)。
永井保は大正4年(1915)、本小田原町(現日本橋本町辺り)の荷扱(仲買)業の家に生まれ、十思小学校へ通う。幼少のころから絵に興味を持って学び、23歳の頃、扉絵が雑誌に採用される。27歳で陸軍宣伝班として南方戦場に従軍した。「漫画集団」同人で、『絵本キンダーブック』挿絵掲載など漫画界で活躍する。『銀座百点』や『月刊日本橋』に絵入りエッセイなども連載した。平成16年(2004)、88歳で逝去。
絵画・イラストでは風景スケッチのうち約1割が中央区を取り上げて描かれているそうだ。日本橋の思い出として、魚河岸や本小田原町のありし日の風景が遺されている。従軍中の作品には兵隊が出発する情景を描いた水彩画などの戦争画が並ぶ。戦場から帰国し、終戦直後の昭和20年(1945)9月、彼岸の中日に家族に送った絵入りの手紙はまさに絵巻物のようだ。
戦後再編された「漫画集団」は、永井が理事となって務め、やがて横山泰三、加藤芳郎、小島功、手塚治虫などの著名漫画家が加わったそうだ。永井が記録した同集団の活動や動向の資料は貴重なものという。4コマ漫画や風刺画などでも活動したほか、子ども向け絵本や雑誌にも多くの作品を残している。なかでも『キンダーブック』(フレーベル館刊行)には昭和20年代から手がけ、その色彩豊かで、楽しい絵柄の原画が展示されている。
タウン誌『銀座百点』で昭和42年(1967)-同44年に連載された「銀座ばやし」と、『月刊日本橋』で昭和54年(1979)-同62年まで連載の「にほんばし思い出帖」に興味が沸く。「銀座-」では戦前の銀座風俗が活写されている。「にほんばし-」には昔日の日本橋の正月風景や町並みが描かれている。
この特別展はひとりの漫画家という枠を超え、永井保の視点と感性が捉えた時代や社会への鋭い眼差しが伝わってくるようだ。堅苦しい歴史話とは趣を異にし、戦前・戦後を体験した表現者としての本展は一見の鑑賞価値がある。@巻渕彰
◇郷土天文館特別展のHPは、こちら>>
雨の浜町公園
10月20日(日)は朝から雨が降りしきりました。ちょうどこの日は、浜町公園ならびに浜町運動場、総合スポーツセンターを会場として「第34回中央区子どもフェスティバル」が開催されました。ぼくも地域のお手伝いで現地に参りました。
この日を楽しみにしている子どもたちも多く、朝から続々と詰め掛けてきます。会場内では小学校ごとのPTAの皆さんがそれぞれにブースを設けて、模擬店やゲームコーナーなど、趣向を凝らして子どもたちを出迎えました。また、各地域からかけつけた青少年委員や町会の役員の皆さんが会場の警備や案内、誘導などスタッフとなって大会を支えるべく活躍されています。ぼくもその端くれとしてちょっと肌寒い空気の中をびしょ濡れになってあちらこちらと動いて役割をこなしました。
ところが、雨は時間を追うごとに激しくなるばかり。とうとうお昼ごろに屋外の展示やアトラクションは中止になってしまいました。それでも、スポーツセンター内では午後2時まで子どもたちの元気な声がこだましていました。子どもたちの溌剌とした姿を見るのは何とも微笑ましいものです。
浜町公園は元は細川家のお屋敷だったということで、往時の雰囲気をとどめつつ、地域の公園として親しまれています。かつての面影は熊本から遷されたという「清正公堂」(加藤清正を祀るお堂)に辛うじて残されています。 園内には様々な草花が植えられていますが、ちょうどナンテンが赤い実をつけ始めていました。秋は深まりつつあるんですね。
公園の裏手から川辺に出てみると、隅田川は雨に煙って静かに流れていました。近代的フォルムの新大橋が正面に見えます。広重が「大はしあたけの夕立」という有名な浮世絵に描いたのはこの辺りです。ゴッホが模写したくらいの世界的名画の舞台は、今は都会の町並みに染まっています。
浜町近辺は歴史的にも文化的にも趣きのあるところです。皆様もどうぞお出かけ下さい。びしょ濡れになっても想い出深い一日でした。 『新橋』あれこれ
『新橋』というと、現在は港区にある地名になっているので、なぜ中央区?と思う方もいらっしゃるかと思います。 でも『新橋』はかつては銀座の先の汐留川に架かっていた「橋」で、江戸時代には芝口橋と呼ばれていた時期もありました。
汐留川は、終戦後に徐々に埋め立てられてしまいましたが、我が家にあった戦争直後の写真には、親柱と、右端に少しだけ欄干が見えます。 (←クリックすると大きくなります)
この親柱は現在も残っていて、銀座8丁目の博品館の斜め前、スーパーのハナマサの入口前の高速の下に、今でもその姿を見ることができます。
この新橋があった場所のすぐ近く、博品館の裏通りには、江戸時代に能楽の金春流の屋敷があったため、現在でも金春通りと呼ばれています。
幕末にここに住んでいた常磐津の人気の女師匠が、しばしば宴席などに呼ばれるようになり、幕府から「酌取御免」のお墨付きをもらいます。 これが所謂「新橋芸者」の始まりです。
料亭や待合なども、この周辺から木挽町(現在の銀座の東側)、築地辺りにあります。 ですから「新橋の花柳界」というのは、港区の新橋にあるのではなく、「新橋」という橋の中央区側の周辺の事なのです。
そして大正14年に建てられた『新橋演舞場』が、新橋駅からかなり離れているにも関わらず『新橋』とつくのは、「新橋芸者」の技芸向上の為に建てられた為であり、出資したのは料亭や置屋や芸者衆などの新橋花柳界の関係者たちです。 昭和15年からは松竹と興行契約を結び、その傘下となりましたが、今でも経営陣の中には、料亭のご主人が名前を列ねています。
新橋芸者衆によって、毎年5月に4日間催される「東をどり」は、かつては春秋の年2回行われて、川端康成・谷崎潤一郎・吉川英治らが戯曲を書き下ろし、踊りの名手「まり千代」のブロマイドが売られて女学生のファンの列ができたのだそうです。
なお、新橋花柳界が何故発展したかといえば、薩長等の幕末の志士で明治政府の要人となった人々は、当時まだ若く、西国の無粋な人たちと見られて、江戸時代に一流とされた柳橋などでは歓迎されなかった為、新興の新橋での宴席を好んだからだそうです。
現在でも有名な文学賞の、芥川賞・直木賞の選考会場となっている料亭「新喜楽」(初代女将の当時は「喜楽」といっていた)は、伊藤博文が大変ひいきにしていて、朝鮮総督として京城に在任中に、女将が訪ねて行ったところ、とても喜んで、女将を讃えた漢詩を揮毫して記念に送ったということです。
HARIO株式会社本社ビル
日本橋富沢町。マンションもちらほら建っていますが、週末ともなれば人通りが少なく、とても静かな地域です。人形町通りの堀留町交差点から2本入った大門通り沿いに、一際目を引く建物があります。ごく最近建てられたものではないことは一目瞭然。耐熱ガラス製品で知られる「HARIO株式会社」の本社建物です。
この日は平日ではありましたが、人の出入りを見かけることはなかったのですが、正面玄関と思われる足元には文化庁の「登録有形文化財」のプレートが。
同じく正面向かって右上には玄関灯が一つ飾られています。厚めで温かみのある形状が目に留まります。もしかして自社製なのでしょうか。ステンシルプレートのような社名の入った看板もステキですね。外壁のどこを観ても細部が実に美しいです。 この建物は、川崎貯蓄銀行富沢町支店として1932(昭和7)年に建設されたそうです。その後、常陽銀行東京支店、同行堀留支店として使われていたそうです。銀行建築は重厚な造りのものが多いですね。その後、当時のハリオグラス株式会社が、2000(平成12)年に創業80周年記念事業の一環として、本社をこの建物に移転したそうです。
日本は地震が多い国のせいか、古い建造物を保存することに積極的ではないように思います。建物は人が住んでこそ意味がある訳で、どのような形であれ修繕されながら大切に使われ、多くの方に観てもらい、少しでも長く残してもらいたいものです。あと個人的希望ですが、電線は地中に埋められないものでしょうかねぇ・・・ HARIO株式会社 中央区日本橋富沢町9−3 ★ハリオ・ライフ★(製品に関連する情報が掲載されているブログ) 指紋研究発祥の地
【銀座】 2013年9月20日。 新iPhoneの発売日、銀座のアップルストアの前には、700人以上ともいわれる長い行列ができていました。
新型のiPhone5sには、新たに指紋認証機能が追加され、話題となりました。
【明石町】
明石町は、明治時代に外国人居留地(築地居留地)となり、多くの西洋人が住んでいました。
当時の沽券図にも「ヘンリーホールズ」の名前が見られますね。
ヘンリー・フォールズ(Henry Faulds、1843年 - 1930年)は宣教師として来日し、1874年から1886年までの間、日本に滞在しました。 キリスト教布教のかたわら 築地病院を開いて診療に従事し、日本人の有志と盲人の保護教育にも尽力しました。 また、大森貝塚から出土した土器に残された古代人の指紋に興味を持ちました。 そして研究を重ね、個人の識別に指紋を用いることができるという論文を1880年『ネイチャー』に発表したのです。 石碑は、日本の警察における指紋法の採用(明治44年(1911)4月1日)から満50年を記念し、フォールズの功績をたたえるため、建立されました。
|
メニューアーカイブリンク集 |