[下町トム]
2013年12月27日 09:00
今年も残り少なくなってきましたね。中央区にゆかりのある方々にとっては、きっと様々な思い出が交錯していることでしょう。
クリスマスが終わると、お正月の準備ですね。大掃除をしたり、おせち料理の準備をしたり、忙しい年の瀬です。そして、大晦日は皆さんどのようにお過ごしになるでしょうか。最後まで慌しく新年の支度に追われる人、年末年始もお仕事の人、そしてのんびりと過ごされる人・・・・それぞれに一年を振り返る日です。
大晦日といえば、〝年越し蕎麦〟を食べる方も多いでしょう。もともと、〝年越し〟とは〝節分〟のことで、この日に無病息災を祈って縁起のいい蕎麦を食べたのが始まりということです。かつて旧暦では〝立春〟こそが新年だったので、前日の〝節分〟が重要視されたのでしょう。後に12月の最終日が〝年越し〟となり、太陽暦の導入とともに全国に定着しました。今では、〝除夜の鐘〟とともに、大晦日の風物詩ですね。
実は、大晦日にはもう一つ大事な伝統行事があります。神社で〝大祓〟(おおはらえ)のお参りをすることです。6月の晦日の〝夏越の祓〟(なごしのはらえ)とともに、日頃の穢れを落とし、新年に願を託す重要な儀式です。奈良・平安の時代から行われてきました。この日は、厄落としになるという〝茅の輪〟をくぐり、身を清めます。そして、自らに代わって穢れを落とすことを託して〝人形〟(ひとがた)を奉納するのです。
そもそも、神社にお参りする意味は、日頃の加護への感謝を奏上し身の過ちや穢れを払い落として反省することにあります。いきなりお願い事をするものではないとされています。
その意味で、〝大祓〟(おおはらえ)はむしろ〝初詣〟よりも意味深いとも考えられます。
中央区にもこの儀式を執り行う神社がいくつもあります。ぼくの場合は、これまでに〔波除神社〕〔鐵砲洲稲荷神社〕〔小網神社〕などでこの行事に触れ合いました。いずれも歴史と伝統に培われた風格と厳かさに包まれ、何だか見の引き締まる思いがしました。
皆さんも是非、一年の締めくくりに近くの神社に参詣されてはいかがでしょうか。混雑する初詣の境内と異なり、ゆっくりとお参りすることができますよ。
では、今年一年お世話になりありがとうございました。どうぞよいお年をお迎えください。
[与太朗]
2013年12月26日 09:00
師走といえば赤穂義士の討入り、歌舞伎座では『仮名手本忠臣蔵』・・・ということで、今年も忠臣蔵にちなんだ話を一つ。
四十七士の一人、間新六(郎)光風(はざましんろくみつかぜ)の墓が築地本願寺にあるのを御存じの方も多いと思います。討入り後に姿を消した寺坂吉右衛門を除く四十六人のうち、新六ただ一人が泉岳寺以外に葬られました。これは、義士切腹の日元禄十六年(1703)二月四日、老中秋元但馬守の家臣だった新六の姉婿の中堂又助が、新六が切腹した毛利甲斐守邸から遺骸を引取り、中堂家菩提寺の築地本願寺に葬ったことによります。 (のち泉岳寺にも三十五日に他の義士とともに墓碑が建てられます。戒名は刃模唯劒信士。)
新六は父の喜兵衛(細川越中守邸で切腹)、兄の十次郎(水野監物邸で切腹)とともに討入りに加わっているので、(親子三人も参加したのは間家だけですね。) 「なぜ新六だけ?」と思われる向きもあるようですが、切腹後の泉岳寺への遺体搬送は細川家、水野家、松平隠岐守家、毛利家の順に時差を設けて行われたので、中堂又助は喜兵衛の細川家と十次郎の水野家にも足を運んだが、遺体はすでに泉岳寺に運ばれた後で、最後になった毛利家にはようやく間に合って新六の遺体のみ引取ることができたのだと考えられます。なお、本所吉良邸から泉岳寺引揚げの途中、新六が槍に金子を結びつけて本願寺に投入れ、供養を頼んだという伝えがありますが、後の作り話でしょう。
新六ただ一人・・・といえばもう一つ。切腹の作法は当時すでに形式的になっていて、腹を切る前に介錯人が首を落とすのが当たり前のところ、新六のみ介錯人が刀を振り下ろす前に腹一文字に切って果てたといわれています。吉良上野介に一番槍をつけ介錯をまかされた兄といい、剛毅な兄弟だったようですね。
先日(14日)、泉岳寺の義士祭に出かけてみましたが、いやはや例年以上の人出で、義士の墓所にはとてもたどりつけそうもないので、すぐにあきらめて築地本願寺に回り、静かな新六の墓にお参りをいたしました。
【写真上】 築地本願寺の新六の墓、天保年間に再建されたもの。こちらの戒名は「歸真釋宗貞信士」。
【写真下】 新橋・新正堂(内匠頭が切腹した田村右京大夫邸跡に近く、「切腹最中」で有名) の「義士ようかん」、歌舞伎座の B2F木挽町広場で売っていました。 左・・・間新六郎(黒糖) 中・・・間喜兵衛(塩) 右・・・間十次郎(黒糖)
[Mr.Chuo-ku]
2013年12月17日 08:49
年賀状を書き終わった方も、これから書く方もいらっしゃると思います。そして、お正月に届く年賀状を、皆さん楽しみにされているのではないでしょうか。
中央区の「日本橋郵便局」では、ここ数年の元旦には来賓を招いて、「年賀郵便元旦配達出発式」が行われています。
この「日本橋郵便局」は、1871年に近代郵便制度が始まった際、駅逓司(後の郵政省)と郵便役所(現在の東京中央郵便局)が設置された地にあり、「郵便発祥の地」として記念の碑文と「日本近代郵便の父」として知られる前島密の銅像が設置されています(↑写真)
日本橋の地が郵便の発祥となったのは、ここが交通の利便性に優れていたからだそうです。
郵便創業100年を記念して作られたポスト(日本橋郵便局)
ちなみに、日本で最初のポストは1871年に設置され、当時、「書状集箱(しょじょうあつめばこ)」と呼ばれており、現在のポストの正式名称は「郵便差出箱(ゆうびんさしだしばこ)」だそうです。こちら↓で各ポストの画像をご覧になれます(「総務省 情報通信白書 for Kids/ 近代郵便制度のはじまり」より)
http://www.soumu.go.jp/joho_tsusin/kids/history/3/02.html
日本橋郵便局 地図
http://map.japanpost.jp/pc/syousai.php?id=300101163000
[りょうきち]
2013年12月 6日 14:00
11月28日、木曜日でしたが、午後は仕事がオフだったので、小網神社のどぶろく祭りを訪ねてみました。
どぶろく祭りは新穀豊作に感謝する新嘗祭に由来する行事で、どぶろくは神前に供えられた後に無料で振る舞われます。イベントとしては、国の重要無形民俗文化財の里神楽舞の奉納、強運厄除けのお守り、下町のみみずくの授与が行われます。
私は、時間が外れていたこともあり、既に落ち着いた中で、お参りして、どぶろくを頂きました。そうは言ってもお囃子の中で少し華やかな雰囲気のお参りになりました。
小網神社は小さい敷地にある神社ですが、5月には御神輿が出る大祭、そして11月はこのどぶろく祭り、さらには、日本橋七福神の福禄寿・弁財天の神社として、注目を集めています。人形町辺りの年中行事には欠かすことのできない存在です。ビルの間にある小さい神社、なかなか面白い構造をしています。下の写真の正面、鳥居の奥に社殿がちょこんとあるのですが、左に新しい社務所、右には一階が倉庫、その上に二階となる五角形の神楽殿が乗っています。
どぶろくを引っ掛けて参拝を完了すると、人形町の下町的商店街がすぐ近くに広がっています。天気がよかったため寒さは和らいでいましたが、どぶろくで気持ちも和らぎ、寄り道したくなってきました。ですが、別のテーマになってしまいますので回を改めて書きたいと思います。
[巻渕彰/写楽さい]
2013年12月 4日 09:00
「秋の中央区歴史散歩2013~旧日光街道の歴史を歩く~(第2回)」が11月30日(土)午後、晩秋の好天のもとに開催された。この歴史散歩は、江戸繁栄の基礎を築いた日光街道を日本橋から浅草御門跡まで、全2回にわたって歴史を訪ねるもの。前半の第1回(11/16)に引き続き、後半の第2回は伝馬町牢屋敷跡から浅草御門跡までをまち歩きした。
参加者募集は「区のおしらせ中央」11月1日号で公募し、まち歩きボランティアガイド団体の「中央区文化財サポーター協会」が主催・実施した。
十思公園に集合した参加者は定員の30人に達し、2組に分かれて出発した(写真左)。十思スクエア内で中央区まちかど展示館の伝馬町牢屋敷模型(写真右=テレビ取材を受ける)を見学したあと、公園内の吉田松陰終焉の地碑、石町時の鐘などを見て回る。大伝馬本町通りから北上する道が旧日光街道だ。通りの両側が旧通旅籠町で、大門通りと交差した東南角に明治後期まで大丸呉服店があった。
その先は旧通油町で女流脚本家・長谷川時雨が生まれ育ったところ。蔦屋重三郎の耕書堂は街道に面して店を構え、現在、説明板が設置されている。斜め前には「江戸名所図会」に描かれている京都の本屋・鶴屋があり、地本問屋が軒を並べていた一帯だ。この辺りに金物屋が多かったことは長谷川時雨著『旧聞日本橋』に詳しい。現在も江戸期からの金物会社が存在している。
浜町川跡を越えると横山町に入る。歳末商戦を目前にいつもより人出が盛んな問屋街風景だ。馬喰町交差点からは江戸通りを歩く。江戸期には公事宿・旅人宿が建ち並んだ地域でもあり、その賑わいは今日の原点となったことであろう。さらに進み、西に入ったところに初音の馬場跡がある。家康が馬揃えしたところとされる最古級の馬場で、「名所江戸百景」や「江戸名所図会」にも取り上げられている。
隣接して郡代屋敷があった。関八州から訴訟人らがここを訪れた。馬喰町には公事宿や店が集まり、さらには江戸見物四日めぐりの観光案内屋までが現れたという。郡代屋敷跡をたどると複雑な道筋に気が付く。関東大震災復興事業で靖国通りが造られ街区は変わったが、なぜ、この辺りの区境は折れ曲がったのか、謎?を解き明かす場所である。この付近は郡代屋敷の敷地跡を区境にしたのだった。
柳原土手跡に沿って、左衛門橋に向かう。神田川に架かるこの橋は中央区、千代田区、台東区の3区の境界になる。中央区最北端の場所である。浅草橋の手前には浅草御門が置かれた。日光街道を東北に向かうときの江戸城域最後の御門であった。当時の大番所辺りに現在、交番があるのは何かの縁だろうか。浅草橋を渡った北詰西側の浅草見附跡碑で解散となる。@巻渕彰
◇当日のまち歩きの模様は、中央区テレビ広報「こんにちは中央区です」、12月第2週に放送予定である。