[之乎者也]
2014年6月27日 09:00
梅雨の季節、ブログ読者の皆さまはいかがお過ごしでしょうか? 今年の梅雨は真夏のような晴れの日があったかと思うと、雹が降ったり、突然の雷雨があったりと異常気象ですね!
春先のお出かけに絶好な季節とは異なり天気の急変も心配なこのごろ。今日はいつもとはちょっと趣向を変えて、文学で中央区、それも江戸時代の石川島と佃を探訪してみたいと思います。
金曜日の会社の帰り、東京駅前の本屋さんで中央区が舞台になった本 を2冊買ってきました。
中央区の時代物文学といえば、先ずは池波正太郎の『鬼平犯科帳』。18世紀半ばの江戸の火付盗賊改方で、18世紀の後半、寛政の改革の松平定信の下で石川島人足寄場を管理した長谷川平蔵がモデルとして有名なテレビ時代劇・小説ですが、今日はちょっと角度を変えて、人足寄場にフォーカスした小説を紹介したいと思います。
一冊目は、松本清張の『無宿人別帳』(文春文庫)。この短編小説集には10のお話が入っていますが、その中の『海嘯(つなみ)』が人足寄場のお話になっています。小説では、能登の漁師の出身で江戸に流れ着き無宿の主人公新太は、町を歩いているときに岡っ引きに呼び止められて辻番所に連れて行かれ、そのまま伝馬町の仮牢(留置場)に入れられてしまいます。伝馬町からは佐渡の金山へ送られ、地獄のような坑道の水汲みの仕事をさせられ、そのまま命を失うことも多いのですが、新太は幸い石川島に送られることになります。
日本史の教科書では、「18世紀後半の天明の飢饉などの影響で、農村を捨てて江戸に流入する無宿者が増える中、幕府がこれらの無宿者を石川島の人足寄場に収容して治安の向上を図った」などと書かれていて、このような説明からはなんとなく「牢獄」のようなものではないかと思ってしまいますが、もう少し穏やかなものだったようです。『海嘯(つなみ)』でも「一定の期間が来て成績のよいものは労務の賃金を与えて釈放する」ともあり、また一律に極端な労役を課すでもなく、それぞれ大工、左官、鍛冶屋、百姓などと手に職ある者については石川島でもそれらに関連のある仕事を与えられたようです。
ある秋の日、漁師の倅で気象に詳しい新太は雲を見て、津波が来ることを予言する。石川島、佃島、築地一体はあっという間に津波に襲われ、寄場奉行の「逃げよ、そして高波が収まれば、永代橋際に集まれ」との許しを得て波を潜りながら泳いで深川に逃げる。新太が最終的に永代橋に戻ったかどうかまでは小説では語っていませんが、この小説で我々は当時の人足寄場の様子を知ることができます。
さらには、「無宿人別帳」のその他の9つのお話では、伝馬町の牢屋敷の話、八丈島への島流し、この世の地獄の佐渡島からの脱走話など、当時の『無宿人』たちの中でも、『石川島人足寄場』のような比較的人道的な場所とは大違いの場所での様々な世界を知ることができます。
梅雨のひと時、小説を通して江戸へタイムスリップしてみるのもオツなものです。
次回は、もう一冊本屋さんで買った山本周五郎の「さぶ」をご紹介したいと思います。
(右上写真は、桜の季節の4月7日付ブログ『新川公園から中央大橋、佃公園へのお花見散歩』でご紹介した石川島灯台:/archive/2014/04/post-1956.html)
[お江戸太郎]
2014年6月24日 18:00
銀座の街をぶらぶら歩いていると、
銀座松坂屋の工事現場の壁に
銀座の風景が錦絵で紹介されてました。
その中の1枚をご紹介します。
江戸名所尾張町之図
歌川 芳宗 画
文久3年(1863年)
尾張町の呉服店の前を通る14代将軍家茂の上洛の様子が描かれています。
尾張町は現在の銀座5~6丁目のあたりです。
出展 :中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)
[銀造]
2014年6月20日 14:00
皆さん、「銀座には、なぜ超高層ビルがないのか」、ご存知ですか?
「それは、区役所が高さ制限の規制をしているからだろ」、「うん、"銀座ルール" というのがあるからだろ。」という返答が返ってきます。
私は、10年ほど前なら、それについて何ら疑問を持ちませんでした。
銀座が好きで、銀座通りだけでなく、並木通りとか、マロニエ通りなどを歩くのが好きでも、「何で銀座を歩くのが好きなんだろう?」とも考えませんでした。
歩道が整備されているからだけではありません。 目に優しい空間、落ち着いた建物の色、ウインドウの中の洒落たジャケットなど。
そして、銀座通りの歩行者天国。人々は、決して、急ぎ足では歩いていません。
こういうことが重なって、ゆったりと銀ブラを楽しめるのだなあ、と感じ、考えることが出来るようになりました。
最近、「銀座には、なぜ超高層ビルがないのか 」ということを、追及してみようという気になりました。 そんな時に、この本を教文館で見つけました。
著者は、銀座街づくり会議・銀座デザイン協議会事務局長の 竹沢えり子 様です。
この方の講演は、築地社会教育会館での「銀座学」、紙パルプ会館での「環境まちづくりフォーラム」でお話を拝聴したことがありました。
しかし、限られた時間内での、「銀座フィルター」とか、「銀座ルール」などについて理解を深めることはできませんでした。
その後、宅地建物取引主任者試験に合格し、地区計画などの開発に関する制限などの新しい知識も出来て、違った興味も湧いてきて、この本の事を知りました。
この本の構成は、次の様になっています。
第1章 銀座とはどんな街か
第2章 大規模開発前夜、90年代の銀座
第一次地区計画「銀座ルール」の策定
第3章 200メートルの超高層ビルが銀座に?
2004年から「銀座街づくり会議」が始動
第4章 銀座の声を行政に
第5章 新建築は銀座との事前協議が必要に
銀座デザイン協議会の船出
エピローグ
あとがき
(読後感想とお勧め)
銀座の歴史、江戸町人地の土地と建物との関係がつくりだした空間サイズを基本としている事、
銀座の街並みは財産だと大事にされてきたこと、だから銀座の街歩きは楽しいのだとか、気づかされます。
この本の中には、「共有」という言葉が何回も出てきます。大規模開発に対して、住民、店主の方々の現状認識と将来に対するビジョンの共有、価値観の共有とか。
銀座三越の増床計画については、空中回廊の設置はどうして可能になったのかという疑問が晴れました。
歌舞伎座の建て替え計画については、なぜ、従来の高さ制限をクリアできたのかも分かりました。
そして、銀座6丁目計画についても、詳細に記述されています。
著者の方が凄い、偉いと思ったことは、豊富な語彙だけでなく、形容詞、副詞を使用した、しっかりとした文章の記述です。これが、「銀座らしさ」の文章かと感嘆しました。
そして、建築基準法とか、都市計画に関する知識が凄く豊富だなっと思っていたら、あとがきのところで、 大学の門をくぐり、ご自分がかかわってきたことについて改めて勉強したとの事。本当に敬服しました。
中央区在住在勤の方々に限らず、建築、宅建業、デザイナーさん、いろんなジャンルの方々に購読をお勧めします。
銀造
[巻渕彰/写楽さい]
2014年6月19日 14:00
中央区郷土天文館(タイムドーム明石)で企画展「京橋・日本橋・月島 魅力再発見!~中央区にやってきた外国文化~」が同館区民ギャラリーで開かれている。会期は7月6日まで、入館無料。詳しくは、こちら>>
江戸期は朝鮮通信使やオランダ商館長の江戸参府、明治期には外国人居留地の開設、戦前は幻となった万博計画など、中央区の歴史の中で外国とのつながりを絵画、写真パネルを中心に展示している。
明治37年(1904)、築地の海軍操練所で打ち上げられた気球から撮影した写真は注目される。高度約200m上空からの眺めは品川から浜離宮、皇居、銀座、日本橋付近まで撮影された「東京パノラマ写真」である。セピア色の俯瞰風景からは往時の町並みがよみがえってくる。@巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2014年6月18日 09:00
日枝神社「山王祭」は日本三大祭(祇園祭、天神祭)や江戸三大祭(神田祭、深川八幡祭)の一つに数えられている。江戸期には天下祭として知られ、現在は神田祭と隔年で執り行われるが、今年は日枝神社が例大祭にあたる。
13日(金)の神幸祭は中央区中心部の八重洲、八丁堀、茅場町、兜町、摂社(御旅所)、日本橋、京橋、銀座の順路を約300mにわたる祭礼行列が練り歩いた。(写真下:中央通りの日本橋三丁目交差点付近を練り歩く鳳輦と干支山車)
15日(日)には下町連合神輿渡御が行われ、氏子町内の山車と神輿12基が京橋北詰から日本橋南詰までの中央通りに繰り出した。(写真下:日本橋橋上中央で折り返し、日本橋高島屋への神輿表敬訪問(日本橋丸善3階から見る))
@巻渕彰
[滅紫]
2014年6月17日 09:00
最近「新劇」をご覧になりましたか?かくいう私ももうウン十年も見ていません。若い人に「新劇」といっても「?」という顔をされて「劇団の名前」とTVに出ている俳優さんの所属先と言ってはじめてわかってもらうのが当たり前になってきました。現在も活動中の「文学座」「俳優座」「民芸」等の「戦後の新劇のすべての源」となった築地小劇場は90年前の本日6月13日に開場しました。
今、中央区民カレッジで「築地小劇場創設90周年から近代演劇を考える」という講座が開かれています。2回目の本日が丁度90年前の開場日に当たるという偶然。既に著名であった小山内薫が若い土方与志の熱に巻き込まれるように「演劇の実験室演劇の常設館、民衆の芝居小屋、」を目指して開場したのは皆様よくご存じのことと思います。第一回目の演目は「白鳥の歌」(チェーホフ)「海戦」(ゲーリング)「休みの日」(マゾオ)の3作です。プログラムには田村秋子や千田是也の名前が見えます。演出は小山内薫と土方与志です。近代演劇の実験場として新劇活動の拠点となりましたが、1928年の12月に小山内薫が急逝するとその3か月後には築地小劇場は分裂。築地小劇場としての活動はわずか5年で終わり、その後は離合集散を繰り返して劇場の建物も1945年の終戦で焼失してしまいます。しかしながら演劇界で活躍する多くの人材を輩出し、現存の劇団のルーツとなり「戦後の新劇のすべての源」がこの築地小劇場にあったのは言うまでもありません。早稲田の児玉先生も仰っていましたが日本の演劇の特徴は「ジャンルが積み重なっていく―積層性」にあるそうです。新しい演劇が誕生した時にそれ以前の演劇がなくなってしまうわけではなく、それぞれが生き続けていく―世界の中でも稀な現象とのこと。私たちが現在様々なジャンルの演劇を楽しめるのはこのためです。「断捨離」ができないのもこのためでしょうか?久しぶりに「築地小劇場跡の碑」を見に来て馬鹿なことを考えています。90周年に熱い情熱を劇団創設、演劇活動に捧げた演劇人たちに思いをはせてみるのは如何でしょう?
「築地小劇場跡の碑」築地2-11-17 NTTデータ築地ビルの壁面