[ひまわりウサギ]
2016年6月22日 09:00
毎日暑いですね
「避暑に出かけたい!」「高原にでも行きたい!」と思うのですが、なかなかそうもいかず、、、
涼しさと癒しを探し求めた結果、中央区明石町にプラネタリウムがあることを思い出しました!
それは『タイムドーム明石(中央区立郷土天文館)』です。初めて行ってきました!
現在、投影されているのは合計3本。
1つはキッズ向け、『名探偵コナン 星影の魔術師』
あとの2つは
声優の田丸篤志さん、斉藤壮馬さんがそれぞれナレーションをされている番組。
私はアニメは全く詳しくないのですが、とても人気がある声優さんたちだということです。
「それならばどちらも見て(聴いて?)おかなければっ!」
という野次馬心理でその2つを見ることに決めました。
土日は特に混み合う、とのこと。
チケット販売開始時刻の10時前に行きましたが、既に並んでいる方がいらっしゃいました!
14:30、いよいよはじまります。
まず生解説で、本日の中央区の夜空を知ることができました。
美しい夜景が魅力的な中央区ではありますが、
"もしその明かりがなかったら..."
現実では絶対に見ることができないであろう夜空です。
東京でも満天の星空!夏の星座!
"普段は見えないだけ"とわかっていても「東京の空にも実は星がたくさんあるんだ!!」と感動
江戸に住んだ人々は「こんな星空を見ていたのかな...」と思いを馳せました。
特集は、火星について。
先日(5/31)地球に最接近した際に「スーパーマーズ」と呼んで話題になっていましたが、この言葉、最近急に出てきた言葉だそうです。
専門家の方は使わないようです。
いよいよ声優さんのナレーション
「Seasons~星の広がる高原~」(第2回目の投影)
「Seasons~星降る水面~」(第3回目の投影)
さすが人気声優さんたち。包まれるような優しい声です。。。
星空の下でついウトウトしてしまいました
日々の疲れも癒され、すっかり良い気分
翌日(6/20)は満月とのこと
空を見上げてみようと思いました。
■タイムドーム明石(中央区立郷土天文館)
場所の詳細、投影情報などはこちら↓↓
http://www.city.chuo.lg.jp/bunka/timedomeakashi/topics/pra.html
[あすなろ]
2016年6月17日 09:00
日本で初めて喫茶店が生まれた街、中央区。
サードウェーブコーヒーもいいですが、やっぱり
落ち着くのは昔ながらの喫茶店ですね。
さらにエピソードがあるのが一興で、その空間に
居るだけで私は悦に入ります。
「Flor de café 銀座 樹の花」
1979年に銀座にオープン。ジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻
が訪れたお店として有名です。
二人が「樹の花」にいることをお子さんのために
待たせてあったハイヤー運転手へ書いたメモ(直筆)。
入口脇の壁にさりげなくかかっています。
「カフェーパウリスタ」
1911年に銀座にオープン。創業105年の老舗中の老舗。
歴史を誇るお店には、文学者、詩人、画家、音楽家、実業家
など錚々たる顔ぶれが通い詰めたとか。
「銀座で"ブラジルコーヒー"を飲む」ことが「銀ブラ」の
語源という説もあり、こんな銀ブラ証明書が貰えます。
銀座の街を歩けば、今なお変わらぬ味を提供し続ける喫茶店
がたくさんあります。
こだわりの一杯と雰囲気をぜひ味わってみませんか。
◆Flor de café 銀座 樹の花
http://www.cafe-kinohana.net/index.html
◆カフェーパウリスタ
http://www.paulista.co.jp/shop.html
[CAM]
2016年6月11日 16:00
三島由紀夫氏が、瑤子夫人と見合いしたのは「銀座浜作」であったようですね。
猪瀬直樹の『ペルソナ』では、次のように述べられています。
>杉山瑤子との見合いは(昭和33年)4月13日である。(湯浅)あつ子が同席して銀座の浜作で食事をした。それからナイトクラブへ誘った。ダンスをしながら、ステップがするりと流れないので「ほとんど遊びズレがしていないな」と判定した。三島はあつ子に礼を述べ、瑤子を自宅まで送った。自宅まで送る、と言いだしたとき、決まりそうだな、とあつ子は思った。翌日、三島からあつ子へ電話がかかった。「なかなかよろしいではないか」とあっさりと言った。
その直後、倭文重は東大病院に入院した。入院前夜、三島は倭文重と浜作で"最後の晩餐"をすませた。」(289)
(ここで、母との"最後の晩餐"と言っているのは、母の寿命はあと4ヶ月と診断されていたからである。しかし、手術の結果、腫瘍は悪性でないと判明した。)
この見合いについては、Wikipedia「平岡瑤子」では、次のように述べられています。
>4月13日、湯浅は瑤子を連れて銀座のドイツ料理店「ケテル」で三島と引き合わせ、その後3人で「浜作」で夕食を取った後、青山のナイトクラブに踊りに行った。三島は瑤子と踊っている時、瑤子が遊びずれしていないことが判り、翌日14日、「なかなかよろしいではないか」と気に入った旨を湯浅に報告した。瑤子の感想の方も、「どうにかなってしまいそうでした」と嬉しそうな声であったという。
以前に述べたように、三島は、その後も頻繁に「銀座浜作」を利用しています。
徳岡孝夫著『五衰の人』(文春文庫)によると、徳岡氏が最後に三島氏に会ったのは「浜作」でした。昭和45年、三島さんが亡くなる直前の9月、徳岡氏は三島氏に「浜作」へ呼び出され、その時、徳岡氏は約束の時間に40分も遅れるという失敗を犯したようです。
「いまでもそのときの失敗が恥ずかしく、記憶の戻るのが怖さに、その店を再訪したことがない。息せき切って引いた表戸の横に『関西割烹』と出ていたのを覚えているから、銀座の浜作だったと思う。階下はカウンターで、二階が座敷になっていた。階段を駆け上がって部屋に入ると、三島さんは畳の上に寝そべっていた。」と書かれている(164)。
また、ジョン・ネイスンは「私は三島と銀座の「浜作」で待ち合わせ、白木のカウンターでかなりの酒を飲んだ。三島は上機嫌だった。もちろん私もそうだった。三島は私に翻訳の礼をいい、私は彼の期待に応えられてほっとしたといった。」と書いています。(ジョン・ネイスン『三島由紀夫―ある評伝―』野口武彦訳 新潮社)
I met him at Hamasaku, a Japanese-style restaurant on the Ginza patronized by the literary establishment. We ate at the wooden counter and drank a lot of sake. Mishima was in high spirits and naturally so was I. He thanked me for the translation; I expressed my relief at having lived up to his expectations. (JOHN NATHAN "MISHIMA A BIOGRAPHY; 204 )
[CAM]
2016年6月 8日 16:00
築地橋
「第三の橋は築地橋である。ここに来て気づいたのだが、都心の殺風景なこういう橋にも、袂には忠実に柳が植えてある。・・・・・・・・・・・
築地橋は風情のない橋である。橋詰の四本の石柱も風情のない形をしている。しかしここを渡るとき、はじめて汐の匂いに似たものが嗅がれ、汐風に似た風が吹き、南の川下に見える生命保険会社の赤いネオンも、おいおい近づく海の予告の標識のように眺められた。」(190-191)
入船橋
「第四の橋は入船橋である。それを、さっき築地橋を渡ったのと逆の方向へ渡るのである。・・・・・
入船橋の名は、橋詰の低い石柱の、緑か黒か夜目にわからぬ横長の鉄板に白字で読まれた。橋が明るく浮き上がってみえるのは、向う岸のカルテックスのガソリン・スタンドが抑揚のない明るい燈火を、ひろいコンクリートいっぱいにぶちまけている反映のためであるらしい。」(193)
暁橋
「川は入船橋の先でほとんど直角に右折している。第五の橋までは大分道のりがある。広いがらんとした川ぞいの道を、暁橋まで歩かなければならない。
右側は多く料亭である。・・・・・・やがて左方に、川むこうの聖路加病院の壮大な建築が見えてくる。
それは半透明の月かげに照らされて、鬱然と見えた。頂きの巨きな金の十字架があかあかと照らし出され、これに侍するように、航空標識の赤い燈が、点々と屋上と空とを劃して明滅しているのである。・・・・・・・・
第五の暁橋の、毒々しいほど白い柱がゆくてに見えた。奇抜な形にコンクリートで築いた柱に、白い塗料が塗ってあるのである。その袂で手を合わせるときに、満佐子は橋の上だけ裸かになって渡してある鉄管の、道から露わに抜き出た個所につまずいて危うくころびそうになった。・・・・・・・・その橋は長くない。」
堺橋
「第六の橋はすぐ前にある。緑に塗った鉄板を張っただけの小さな堺橋である。 満佐子は橋詰でする礼式もそこそこに、ほとんど駆けるようにして、堺橋を渡ってほっとした。 ・・・・・・・・・・
この道をまっすぐ行けば、いずれ暁橋に並行した橋のあることがわかっている。それを渡っていよいよ願が叶うのである。」(197)
一部の親柱のみが現存しているようであるが、工事のためフェンスが設置されており、今は見ることができない。
備前橋
「橋詰の小公園の砂場を、点々と黒く雨滴の穿っているのを、さきほどから遠く望んでいた街燈のあかりが直下に照らしている。果たして橋である。
三味線の箱みたいな形のコンクリートの柱に、備前橋と誌され、その柱の頂きに乏しい灯がついている。見ると、川向こうの左側は築地本願寺で、青い円屋根が夜空に聳えている。同じ道を戻らぬためには、この最後の橋を渡ってから、築地へ出て、東劇から演舞場の前を通って、家へかへればよいのである。」(199)
[CAM]
2016年6月 7日 16:00
平成28年6月4日(土)、三島由紀夫研究会が開催した「橋づくしツアー」に参加しました。 新橋の「末げん」で昼食をとった後、銀座板甚道、銀座、昭和通りを経て、小説のとおりに7つの橋をめぐり、無事にゴールとした築地本願寺に到着しました。以下、小説を引用しながら(小説は、昭和31年に雑誌文藝春秋に掲載され、単行本は昭和33年に刊行された。引用は新潮文庫『花ざかりの森・憂国』による)、当日のコースを紹介します。
新橋末げん
明治42年創業の鳥割烹店。三島由紀夫と盾の会メンバーが、決起前夜、最後の晩餐を行った。平成9年に現店舗に建て替えられている。
銀座板甚道
「陰暦八月十五日の夜、十一時にお座敷が引けると、小弓とかな子は、銀座板甚道の分桂家へかえって、いそいで浴衣に着かへた。」(177)
岡半本店
「たとえば夕刻髪結へ行くと、同じ土地の妓が、順を待つあいだを、岡半の焼肉丼なんぞを誂へて、旨そうに食べているのを見ることがある。」(178)
伊勢由
「厨口の三和土に満佐子の下駄が揃えてある。伊勢由の黑塗りの下駄である。」(184)
昭和通り
「小弓が先達となって、都合四人は月下の昭和通りへ出た。自動車屋の駐車場に、今日一日の用が済んだ多くのハイヤーが、黒塗りの車体に月光を流している。それらの車体の下から虫の音がきこえている。
昭和通りにはまだ車の往来が多い。しかし街がもう寝静まったので、オート三輪のけたたましい響きなどが、街の騒音とまじらない、遊離した、孤独な躁音というふうにきこえる。」(185)
三吉橋(第一・第二の橋)
「程なく四人の渡るべき最初の橋、三吉橋がゆくてに高まって見えた。それは三又の川筋に架せられた珍らしい三叉の橋で、向う岸の角には中央区役所の陰気なビルがうずくまり、・・・・」(187)
説明標示標には「橋づくし」が引用されています。
[銀造]
2016年6月 6日 09:00
築地本願寺は、毎朝、前を通るたびに手を合わせてご挨拶していきます、
ご本堂には少しお参りしていませんでしたので、今日はお参りしてきました。
先に来ていた方は、本願寺のご案内の何枚ものリーフレットに幾つもスタンプを押していました。お参りに来れない方々のために、お土産にするのでしょうか?
ちなみに、本願寺では御朱印はありません。
さて、今日は「参拝記念カード」を入手しました。ご案内のリーフレットによれば、
「毎月デザインが変わります。 12種類集めた方には記念品を差上げます。」と書いてあります。これは、少なくとも毎月1回はお参りしないといけません。12種類集めるのが、楽しみになりました。
ちなみに、5月が築地本願寺のあゆみ①、6月が②となっており、5月のも一緒に並べてあったので、早めに行った方は、5月分も入手できるのでは?
* ご本堂にてお参りするのを忘れないで下さいね。 *
写真右の①には、「浅草御堂」について:1617年(元和3)年、浅草横山町に本願寺の別院が建立され、通称「浅草御堂」として親しまれていました。
写真左の②には、「佃門徒による土地の埋め立て」:
1657(明暦3)年、浅草御堂は明暦の大火によって焼失。幕府からは同じ土地への再建が許されず、移転先として譲渡されたのは海の上でした。 そこで、佃島の門徒によって新たに海が埋め立てられ、築地の土地が出来上がりました。
との説明があります。 12枚揃ったら、貴方は築地の通になれますね。
あなたにも、御仏のご加護がありますように! 合掌!