[銀造]
2016年6月29日 12:00
銀座が大好きで、ブログのハンドルネームを銀造と名乗っています。
私のコレクションの一つが、コイン収集です。銀座をご案内する時に、身に付けているのが一分銀です。 銀座で鋳造されていたのが、こういう一部銀などですと説明しています。
ガイド仲間やお客様様から誉められたり、何処で買ったのなどの質問を受けるので、今日は、コインの専門店、㈱銀座コインさんをご紹介します。 銀座ファイブの一階にあります。
私所有の一分銀は、小学生時代に入手したものです。常是と刻まれていますので、おそらく蛎殻銀座で鋳造された物でしょう。
お店のショーケースに陳列されている一分銀にも年代によって、2,500円 3,000円 9,000円の違いがあります。
天保の物と安政の物とかの違いをどう見分けるのか?
店員さんが、親切に教えてくれました。
常是と刻んであるもの、そして是の一番下の人というのが交わっているのが、天保8年から安政元年に鋳造されたものだそうです。というと、私のが当てはまり、これは買うとなると、2,500円から3千円位のものでした。(残念、少しシュン) お手軽な価格で購入できますので、銀座土産に、お一つ如何でしょうか?
また、これからコイン収集を始めたい方には、収集用のホルダーなども販売されています。
お店は、中央区銀座5ー1 銀座ファイブ一階にあります。
HPは、http://www.ginzacoins.co.jp
[ジミニー☆クリケット]
2016年6月24日 14:00
[CAM]
2016年6月23日 18:00
歴史・由来を考える場合に、絶対に行ってはならないのは、「後知恵」で判断することであり、常に当初の時点に立って考えるという態度を失ってはならないのではないか。
池田弥三郎氏は、「大阪にも日本橋があり、京橋があるが・・・・大阪の場合、これをニッポンバシと言っていることは考えさせられることである。つまり、江戸で日本橋をニッポンバシと言わないで、ニホンバシと言ったのは、もともと(東京・日本橋の名の起原が)『日本』ではなく、『二本』だったということの傍証になると思う。」(56)と述べられている。
元和4年(1618)に架け替えられた東京・日本橋は、長さ約67.8m、幅7.8mの木造橋であった(『中央区ものしり百科』118頁)のに対して、大阪の日本橋はほぼ同時期の元和5年(1619)に江戸幕府によって道頓堀川に架けられた。長さ約40m、幅約7mの木造橋で、道頓堀川では唯一の公儀橋であった(Wikipedia)。 なお、池田氏も述べるとおり、『慶長見聞集』では、1618年の架け替えられた橋の大きさを記しながら、それ以前の橋の大きさについての記載がない(『日本橋私記』92頁)。このことによっても、以前のものはかなり粗末なものであったのではないか、という推測が成り立つ。
公儀橋というのは、幕府が管理し、かけかえや修理などを幕府の費用で行う橋であり、外見的な区別として、公儀橋の場合は青銅製の擬宝珠がつけられていた。 江戸の場合、公儀橋は江戸城の内外にかけたもの4、50のほか、市中に約120、あわせて160から170もあった。しかしながら、天明7年(1787)の調べでは、当時の大阪の公儀橋数は12に過ぎなかった。これは、"水の都大坂"の生成がいかに町人の力によるところが大きかったかを物語るものと言える(岡本良一『大阪の歴史』;60)。
このように、1619年(東京ニホン橋架け替えの1年後)という時点で幕府によって架けられた大阪では数少ない公儀橋が、当時から「ニッポンバシ」と称せられていたとするのならば、創架(1603年説が有力)前後からしばらくの間、東京のものは「二本橋」と称されていた可能性が高く、上記の池田弥三郎説はかなり説得的なものとなると思う。
なお、池田氏は自ら作詞した「雨の四季」という歌詞の中でも、「二本橋」という用語を用いて、「大阪はニッポンバシで、江戸がニホンバシなのは、日本橋は後の合理解で、古くは二本橋だったのではないか、という作者の学説(?)にもとづいて、わざとそうしてみた」と述べておられる。(184)
[CAM]
2016年6月23日 16:00
歴史・由来を考える場合に、絶対に行ってはならないのは、「後知恵」で判断することであり、常に当初の時点に立って考えるという態度を失ってはならないのではないか。
例えば、日本橋の橋名について、『ものしり百科』では、「橋名の由来には諸説あるが、幕府が編さんした地誌『御府内備考』には、『この橋、江戸の中央にして、諸国の行程もここより定められるゆえ、日本橋の名ありと云ふ』と記されている」と述べている(116頁)。この説明は、「橋名の由来には諸説あるが」と言っているし、もちろん誤りではない。しかしながら、『御府内備考』とは文政12年(1829)に幕府が編纂した地誌である。
日本橋は、慶長8年(1603)、徳川家康によって架けられたとされる(『ものしり百科』26頁)。この架設当時は、家康公入府の天正18年(1590)から、まだ10年程度しか経過しておらず、この周辺もまだ葦や薄の生い茂る荒涼たる地帯であったはずである(『ものしり百科』116頁)。それを、その後、230年近くも経過した後に、"お上"が編纂した地誌だけを橋名の由来根拠にしてしまうのは、あまりにも乱暴ではないだろうか。
池田弥三郎氏は、『日本橋私記』のなかで、「わたしの(日本)橋名起原説」として次のように述べられている。
(1) 日本橋は、もと日本橋川(当時その名はなかったが)に架けられていた、粗末な橋で、その橋の様子から「二本橋」と言われていた。
(2)それが、江戸の町の造成につれて、立派に改修されていき、その途上で、誰言うとなく、二本橋は日本橋だと言われるようになっていった。
(3)そして、誰言うとなく言い出した「日本橋」という名を、誰もが素直にうけいれられるように、日本橋はにぎわしくなり、付近は日本の代表の土地となり、さらに全国里程の中心となり、五街道発足点ともなっていったために、ますます「日本橋」の名がふさわしくなっていった。
――と、こういうような筋道が考えられるのではなかろうか。 (48)
最近の書物では、『ものしり百科』もそうであるが、(1)の部分は略して、はじめから(2)(3)の経緯を述べるものが多いように思われる。しかし、池田氏が言うように、橋の名に限らず、地名というものは、そもそも単純で端的、直観的な名づけられ方をされるものであること等を考え合わせれば、起原としては(1)の段階があったと考えるべきではないかと思う。
[CAM]
2016年6月23日 14:00
ある講座で、講師の先生が、京都に在る越後屋京本店についての絵図(「京本店絵図」三井文庫所蔵史料)の中に「室町通り」という表示があることについて、「京都 "にも" 室町があるのですね」と言われた。この表現はおかしい。京都の室町の存在が(はるかに)先で、東京日本橋の室町はその(かなり)後のネーミングであるはずだからである。
言葉尻をとらえるようだが、こうした(専門家でさえもが)無意識に?おかすミスというのは、大阪・京都が先進地帯であって、後進地域である江戸が関西に伍することができるようになったのは、江戸時代もかなり後期になってからであることをつい忘れてしまうからではないか。
ちなみに、「日本橋室町」の地名の由来については、中央区のHP「地名の由来」では、
「京都の室町にならったという説と商家が多く集まっており、その土蔵(室)が立ち並んでいたためという説があります」と説明されており、『ものしり百科』では、「昭和6年、中沢彦吉の発案により、めでたい名を選んでつけられた」としている(173頁)から、「京都の室町にならった」という断定はできないかもしれない。
しかし、少なくとも「京都"にも"室町がある」という表現はおかしいだろう。
[ジミニー☆クリケット]
2016年6月22日 12:00
小伝馬町牢屋敷展示館は、日本橋小伝馬町5丁目にある十思スクエア(旧十思小学校)の入り口ホールに設けられています
開館日は、月曜日から土曜日(祝日・年末年始等を除く)で、開館時間は、9時から18時までです。
江戸時代、「伝馬町牢屋敷」は、現在の日本橋小伝馬町3~5丁目にありました
周囲に土手を築いて堀を巡らし、土塀に囲まれていたそうで、その牢屋敷の内部の模型を展示しているのが、「小伝馬町牢屋敷展示館」です
当時の牢屋敷は、刑務所ではなく、未決囚の収容所(現在の拘置所)で一時的に留置しておくためのものでした。
模型を見ると、取り調べをする穿鑿(せんさく)所や拷問蔵()もあり、当時の建物の造りがよくわかります。
十思スクエア別館の奥では、牢屋敷の上水井戸と上水木樋(じょうすいもくひ)を床面のガラス越しに見ることができます
公園の東側には、安政の大獄で処刑された吉田松陰の辞世の句碑、吉田松陰終焉の地の碑が建っています
弟子宛
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
家族宛
「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」
(家族宛の句碑は山口県萩市の松陰神社境内にあります)
小伝馬町牢屋敷展示館のHPはこちら ⇒
http://chuoku-machikadotenjikan.jp/tenjikan/royashiki/