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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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「うな丼」の発祥

[CAM] 2016年7月 8日 16:00

 今年も土用丑の日が近づいてきたが(今年は一の丑が7月30日のよう)、『ものしり百科』では、「うな丼」の発祥地を江戸三座の一つ中村座としている(156頁)。 

 

 こうした食べ物の元祖だの発祥だのは、商標登録の制度もなかった時代のことであれば、必ずしも定説を決めることは容易ではない。上記『ものしり百科』では、その説明をうな丼発祥の「通説」としているが、竜ケ崎市のサイトを見ると、大久保今助が関わっていることには違いがないが、次のように説明している。

http://www.city.ryugasaki.ibaraki.jp/article/2013081500954/

 

>江戸時代後期に江戸日本橋堺町に芝居の金方(資金を出す人)で、鰻の大好きな大久保今助という人物がいた。その今助が故郷である現在の茨城県常陸太田市に帰る途中、水戸街道を牛久沼まで来て、茶店で渡し船を待っているときに鰻が食べたくなり、蒲焼きとドンブリ飯を頼んだ。

ところが、注文した品が出てきたとき「船が出るよー」の声。今助はドンブリと皿を借り、ドンブリ飯の上に蒲焼きののった皿をポンと逆さにかぶせて船に乗り込み、対岸に着いてから土手に腰をおろして食べたところ、蒲焼きが飯の温度で蒸されていて、より柔らかくなり、飯にはタレがほどよくしみこんで、これまでに食べたどこの鰻よりもうまかった。

その後、どのように「うな丼」が広まったのかは、いくつかの説があります。一つは、今助が帰りに茶屋に食器を返しながら、その話をし、茶屋が出すようになったところ、水戸街道の名物になったというもの。もう一つは、今助が自分の芝居小屋でうな丼を売り出して江戸から広まったという説。さらに、うな丼が牛久沼の茶屋で出されるようになった一方、今助は、自分の芝居小屋で芝居に付きものの重詰めの代わりにご飯に蒲焼を載せさせて重箱を取り寄せ、それが江戸でうな重としてとして広まっていき、庶民にも、うな丼の形で提供するようになったという説もあります。

 

 

 

湊二丁目(第5次)遺跡見学会

[サム] 2016年7月 5日 16:00

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DSC02176SQRLS.jpg7月1日・2日の両日、湊二丁目10・11番の発掘調査現場にて、「中央区湊二丁目(第5次)遺跡見学会 ー鉄砲洲に営まれた武家地と町人地ー」が実施されました。

(10:00~16:00)

まず郷土天文館の学芸員より、遺跡の紹介や調査状況の説明を拝聴。

『当該遺跡は1590年に徳川家康が江戸に入府した後に埋め立てられた土地で、鉄砲洲と呼ばれたところ。名の由来は、埋立地の形が鉄砲に似ていたからとも、埋立直後に幕府鉄砲方の射撃場が在った為とも云われる。

調査された土地の北側は町人地、南側は武家地と考えられる。

武家屋敷(徳島藩蜂須賀家など)エリアでは、上水道や井戸、町人地との境にあった石組みの下水、ゴミ穴、庭園の一部の池などが発掘。町屋エリアでも、石組の下水や木組みの下水、建物址や土蔵址などの遺構が発掘。

中でも鉄砲洲を形づくっていた石垣は、江戸時代初期の土地の造成が解る遺跡の可能性があり、大変貴重な発見。

明治時代になると、築地外国人居留地の "雑居地" となり、西洋産の食器や、肉食を窺わせる、牛の骨が出土』

との由。 

石垣の石材、出土遺物の展示も行われています。

 

出土遺物。左から食器類、蜂須賀家の家紋瓦、土瓶・急須、玩具

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とと姉ちゃん

[オールドローズ] 2016年7月 1日 16:00

"とと姉ちゃん"こと 大橋鎭子さん。

テレビドラマでは、これから『暮らしの手帖』 の創刊になるところです。

  

彼女と花森安治さんが始めた出版社のビル が銀座西八丁目にありました。

花森さんが、どうしても銀座に出版社を持ちたいという強い意志があったそうです、

 

『スタイルブック』から始まり、現在の『暮らしの手帖』です。

 

今は有名な商品テストというのはなくなりましたが、

私にとっては、花森さんの『一銭五厘の旗』、

石井好子さんの『パリの空の下オムレツのにおいは流れる』

その他『アラバマ物語』、『すてきなあなたに』、『おそうざい十二ヵ月』など若いころ読んだ感動、今も鮮明です

 

大橋さんが好きだった靴店は「ワシントン靴店」 でした。

創業者が、オレゴン州ポートランドのワシントンストリートで食料品店を営んでいた由来で「ワシントン靴店」と名付けたそうです。

 

昔は、銀座の中央通り沿いには「ワシントン靴店」、「かねまつ」、「ダイアナ」と大きな靴屋さんがたくさんありました。

大橋さんも、お気に入りの靴で、銀ブラしたでしょうね。

 

 

ゆかた博物館見学

[O'age] 2016年7月 1日 14:00

ゆかた[浴衣]は広辞苑によると"「ゆかたびら」の略。おもに白地に藍色で 柄を染めた、夏季に着る木綿の単衣(ひとえ)。夏の季語。"とあります。

 

「ゆかた博物館」は人形町駅の近くにあります。見学を通じて、 あらためて昔の人々(着る人、創る人、売る人)のゆかたに対する思いが 伝わってくるように感じました。

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「ゆかたや三勝」向かい側「ZOME・2階」の博物館内の展示を説明をして 下さったのはゆかた博物館館長の清水敬三郎さんで、人間国宝・清水幸太郎 さんの三男の方です。清水さんが入社されたころは「三勝染」といえば 高級ゆかたの代名詞で、手の込んだ精緻な柄を出せば、お客さんは価値を 認めて対価を支払ってくれたものだと伺いました。清水幸太郎さんは 長板本染の職人でその熟練の技は重要無形文化財に指定されたそうです。

 

社名の三勝は創業の志を社名にしたとのことですが、創業者初代・天野半七の 名前と関連して、歌舞伎「艶容女舞衣」(はですがた おんな まいぎぬ)の 主人公の「半七と三勝」の話も伺いました。

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社屋のあるあたりは、江戸時代の堺町・葺屋町で、中村座、市村座が天保の改革で浅草猿若町へ移転させられるまで200年ほど存在した地域でもあります。人形町通りの西側には堺町・葺屋町の芝居町跡の説明板、東側には歌舞伎「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)のモデルになった玄冶店(げんやだな)の碑、説明版がある。春日八郎の「お富さん」でも有名。

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毎年7月7日は「ゆかたの日」です。
「中央区まちかど展示館一覧」の"概要欄"に人間国宝清水幸太郎の作品、ゆかたの染工程、染色道具類、相撲のゆかたなどと記載があります。見学には、電話で予約が必要です。