味が染みた豆腐をご飯にのせた汁かけ飯「とうめし」。
いかにも江戸っ子発想な、ちゃちゃっと食べられる
ファストフードといったところでしょうか。
豆腐は、人形町 双葉から仕入れ、
この他、おでんのはんぺんやすじ(魚)などは
日本橋神茂の品。どれも秀逸な種がうれしいですね。
ランチの「とうめし定食」「おでん定食」お値打ちです。
◆日本橋 お多幸本店
東京都中央区日本橋2-2-3 お多幸ビル
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名飯 粋なファストフード
味が染みた豆腐をご飯にのせた汁かけ飯「とうめし」。
いかにも江戸っ子発想な、ちゃちゃっと食べられる ファストフードといったところでしょうか。 豆腐は、人形町 双葉から仕入れ、 この他、おでんのはんぺんやすじ(魚)などは 日本橋神茂の品。どれも秀逸な種がうれしいですね。 ランチの「とうめし定食」「おでん定食」お値打ちです。
◆日本橋 お多幸本店
神茂さんの歴史について語ります ② ~ 神茂 ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をトレンドとして取材します、 rosemary sea です。
日本橋神茂(かんも)さん、329年の歴史はまだまだご紹介しきれません。 有限会社 神茂 井上卓(たかし)社長にインタビューさせていただきました。
「いわゆる通行手形。昭和初期に御用商人が宮内省出入りの際に、この通行証を提示するという制度がありました。」 ※ 門鑑にある「日本橋区本小田原町」とは・・・ 日本橋区・・・明治11年(1878年)-昭和22年(1947年) 京橋区と合併して中央区となる 本小田原町・・・江戸期ー昭和7年(1932年) 日本橋本町1丁目と日本橋室町1丁目に分割・名称変更
「明治天皇、大正天皇、昭和天皇はそれぞれ即位の際の蒲鉾はうち(神茂さん)でした。 宮内省には新年にも出入りして納めていました。」 「明治の頃の『地代金請取帳(じだいきんうけとりちょう)』、いわゆる大福帳です。 日本橋魚市場だった頃は地所をを4番目に広く持っていまして、場所を貸していたんですね。」 「板舟権(いたぶねけん 後述)で板1枚いくら、というふうに貸していた頃の、今月いただきました、と書き込んだ帳簿です。」 (板舟権・・・日本橋魚河岸で江戸時代以降認められていた権利。 ここで魚類を販売するのに幅1尺・長さ5、6尺の平板(=板舟)を並べられる。 いわゆる営業権として売買・譲渡・賃貸できた、価値の高い権利。)
「あとは日露戦争の時の毛布とか陸軍傷病兵見舞いとか書いてあります。」
「熈代勝覧(きだいしょうらん 後述)にもそれらしきお店があるようですが、確たる証拠があるわけではありません。」 (凞代勝覧・・・文化2年【1805年】頃の日本橋から今川橋までの、現在の中央通りを俯瞰し、当時の江戸時代の町人文化を描いた絵巻物。 東京メトロ三越前駅コンコース内に約17mのレプリカがあります。)
蒲鉾屋のまな板っていうのは分厚くて、ここの上で包丁の背中を使って鮫の肉をたたきます。 それで真ん中だけへこんでしまうとかんなをかけて平らにして、使いにくくなると最後は普通のまな板として日本料理店などが買っていかれたそうです。 先程の地代金請取帳にも"どこどこの料理店にまな板を売った"などと書いてあります。」 「この看板は、今はこのように応接室に掛けてありますが、もとの看板としては雨ざらしでしたので"綺麗にしてください"と依頼したら、綺麗になり過ぎて新しくなってしまいました。」
「左の写真は戦前の店頭を写したものですね。 上の方に『神茂』って看板も写っていますが、真っ暗で見えなくなっていますね。」 「これは『くらしの手帖』昭和29年2月の号です。 僕のひいひいおばあちゃんにあたる井上はまさんの口述が書かれています。 半ぺんの材料、製造工程や神茂の歴史、半ぺんの食べ方などを語っています。 先程のまな板のお話も載っています。」
「幕末のペリー来航のときのメニューです。これを造ったのは百川(ももかわ)さんという浮世小路(うきよしょうじ)の福徳神社前の、今のYUITOのビルあたりにあった料亭さん。この料亭さんがペリー来航の際、料理を任されたのです。 そしておみやげに蒲鉾が出てくるんですね。ここにも大蒲鉾と書いてあります。」
「江戸時代は蒲鉾と半ぺんと白竹輪の3種類しか造っていなかったんですね。 その頃は上物師(じょうものし)と駄物師(だものし)、駄物屋さんですね。この2つに分かれていました。 駄物師は茹でたり油で揚げる、油で揚げるのは江戸の末期ですね。菜種油がたくさんとれるようになって、それで油を食品に使うようになって、ここの日本橋の魚市場の中で、余った魚をつぶしてさつま揚げみたいなものを造る駄物屋さん。 で、上物師っていうのは白いものしか造らなくて、半ぺんや蒲鉾、白竹輪。 落語の『時そば』に出てきて、竹輪が入ってるんですけど、"最近はまがいものが多くて"っていって、"あれは『麩(ふ)』なんだよな"っていうくだりがあるんですけど、それはちくわぶなんですね。ちくわぶが今でも残っているんですけど、本物の白竹輪っていうのはなくなっちゃったんです。造るところがなくて。僕の子供の頃までは造っていました。」
「昔のうちのお品書きが残っているんですけど、蒲鉾と白竹輪と半ぺんしか載っていないですね。すじはあとになって造られたんですけど、これは捨てちゃもったいないっていうんで、結構無駄にしなかったみたいですね。」
「(日本橋で生まれた)谷崎潤一郎さんの「幼少時代」という随筆の中にこの神茂のことがちょっとだけ出てきます。 "神茂のすじが八百屋のよりましだ"って。あまりほめられてないけど。」
平成24年8月放送のTBSの番組「ぴったんこカン・カン」で日本橋を俳優の勝村政信さんが回ったとき、うちの母もお店とともに出ました。 勝村さんのお父さん、佃煮の鮒佐さんの職人でした。お父さんには僕も会ったことがあります。それでうちのお店の収録が終わったあとも、"勝村さんが鮒佐さんのお店を出たところで驚いたことは?"という問題で母が再登場したことが答えとなっていました。」
「宮内省御用達(ごようたし)だった関係で、皇族からもご注文がありました。 あるデパートを通して連絡が来るんですよ。 で、何々を納めてくれと。間違いがあったら困る、とも。何月何日の開店前に商品を持ってきてくれ、みたいな。 昭和天皇のお名前で蒲鉾の注文もありました。・・・ 御用達っていうのは先方からの注文がないとだめ。献上とは違います。」
・・・井上社長、貴重なお話の数々、ありがとうございました。
日本橋室町1-11-8 東京メトロ銀座線 三越前駅が至近 日本橋三越前 中央通りの大和屋さんとブリッジにいがたの間のむろまち小路を150m、右手前角 03-3241-3988 営業時間 平日 10:00~18:00 土曜 10:00~17:00 定休日 日曜・祝日 神茂さんのホームページはこちら ⇒ https://www.hanpen.co.jp/
桜月 一足先に春の訪れ
三寒四温を繰り返し、桜の季節が近づいてきましたね。
この吉宗公の時代から続く和菓子屋さん「長門」が
東京駅八重洲北口から茅場町方面にかけての桜並木。
このさくら通りにお店があります。
有名な久寿もちといっしょに季節の上生菓子「はな筏」
◆江戸風御菓子司 日本橋 長門 宝童稲荷神社 お猿さんが守っています 宝童稲荷参道が開通
銀座4丁目の、晴海通りからなら天賞堂さんの角を入り、鰻の名店「新橋 登亭」の路地を入って右折すると「宝童稲荷神社」は鎮座されています。 江戸時代、この辺りは弥左衛門町と呼ばれていました。 新しいビルが林立する銀座にあっても、地元の方々の崇拝により、また10月末の「銀座八丁神社めぐり」でも、沢山の方々が御朱印(スタンプ)を頂きに、お参りに訪れます。 歴史を伝えるご案内は、お参りして右側に掲示されています。 最近、こちらの宝童稲荷神社にお参りに来たとき、新しい発見がありました。参道が完成していたのです。通り抜けできます。お猿さんの参道の奥に宝童稲荷神社が鎮座されています。 昨年、平成28年は申年でした。 元来、「猿は神の使い」として、日枝神社などでは御本殿の前に、狛犬の様に座っていますね。 こちらでは、参道にお猿さんが座ってお迎えしてくれるのです。 正式な名称は、「宝童稲荷参道」ですが、 芸術的なこの通りの名前は、「猿結参道(えん むすび さんどう)」と言います。 通り抜けしたところで、ペアのお猿さんが出迎えてくれます。 猿(えん)から、縁につながるということです。 デザインを担当されたのは、渡辺元佳さんと言う方です。 銀座を訪れる方々がご縁で結ばれ、お幸せになって頂き、宝童が授かる様、祈念しております。 銀造 *追伸:猿結参道は通り抜け出来ます。 ◆ 隅田川 わたしの記憶めぐり <渡し編>
2月最後の土曜日の朝、築地でご飯を食べました。 ここは波除稲荷神社の隣、築地場内市場の「海幸橋門」。場外市場に新しくできた「築地魚河岸・海幸橋棟」の建物があるところです。 築地は隅田川の河口近くにありますが、この近辺にはかつて、かちどき・月島・佃の3つの渡し舟がありました。今日は風もなく良い天気。時間もあるので渡し舟の面影を探しながら散策してみることにしました。まずは近くの勝鬨橋へ。
歩いて4分くらい、勝鬨橋のたもとには大きな「かちどきの渡し碑」があります。説明板をみると先程の「波除稲荷神社」の辺りに渡船場があったと書いてあります。 神社の隣の「海幸橋門」の名前は、もちろん「海幸橋」に由来します。そこは隅田川から離れた内陸の場所になるのですが、昔は隅田川に繋がる川が流れていて海幸橋のあたりに渡船場があり隅田川に舟が出ていたようです。
近年に川が埋め立てられ、橋も無くなり、わずかに橋の親柱と築地場内市場の「海幸橋門」という名前だけが残りました。豊洲への市場の移転が予定されている今、「海幸橋門」の名前は無くなってしまうと思うのですが、川の跡地に建てられた「築地魚河岸・海幸橋棟」の名前が川と海幸橋のわずかな記憶をつないでいくことになりました。
勝鬨橋を渡りました。対岸の「勝どき」から見た隅田川、築地方面の風景です。 勝どきという町名と勝鬨橋という名前は「かちどきの渡し」に由来します。渡し場の名前はその土地の名前から付けられることが多いですが、ここは渡しの名前の方が先でした。 1905年正月、日露戦争で旅順の要塞を攻略したことを記念して京橋区民の有志が渡船場を設置し「かちどきの渡し」と名付けました。築地はかつて海軍関連の施設が多くあったという歴史があるのですが、それも関係しているのでしょうか。
勝鬨橋ができた1940年に渡し舟はその役目を終えました。
勝どき側のかつての渡船場は、今工事中の隅田川テラス、ここのちょっと左側辺りです。渡し舟の名残は今は見つけられませんでした。 ここ勝どきから月島にある「月島の渡し跡」に向かいます。
月島で一番隅田川に近い道沿いを歩くと「わたし児童遊園」という公園があり、ここに「月島の渡し跡」という説明板があります。渡し舟の名残はこの説明板と公園の名前ぐらいでしょうか。 月島や勝どきは埋立地です。この辺りが埋め立てられた後、程なくして渡し舟が作られました。渡し舟は月島の土地のはじまりと共に時を重ねてきたことになりますが、ここも近くに勝鬨橋ができたことにより廃止となりました。
ここに隅田川河畔によくある案内板がありましたので、今日歩いたところを説明してみます。赤い線が歩いたところ。月島から川をさかのぼって佃まで行き、最終的には佃大橋を渡って鉄砲洲の湊公園までのルートです。
「わたし児童遊園」からは隅田川テラスに出ることができるのですが、今は工事中で出られず対岸を見ることができません。 そこで少し上流にある「月島3丁目児童遊園」から、対岸の渡船場があった方向を写しました。老舗料亭「治作」が見えるあたりに渡船場があったようです。その奥の白い建物はポンプ所です。 この対岸にも「月島の渡し」の説明板があります。説明板には、おおまかにこのようなことが書かれています。
・月島の渡しは明治25(1892)年、土木請負業の鈴木由三郎が明石橋橋詰の南飯田町(現在の築地7丁目18番)から月島(現在の月島3丁目24番)へ手漕ぎの船で私設の有料渡船を開始したことに始まる。 ・明治34(1901)年に月島への交通の重要性を考慮した東京市が渡船の市営化を決め、翌35年に明石町(現在の明石町14番)に渡船場を移設し無料汽船曳舟2隻で交互運転を開始した。
後日写真を撮りました。説明板のある一角は築地七丁目、左の奥にある建物が明石町の「治作」でそのうしろに隅田川が流れています。不思議なのはこの説明板は隅田川岸際から結構離れた場所にあることです。 渡船場は「明石橋橋詰の南飯田町」と説明板に書いてありますが、何処だかわかりません。 ここで、中央区観光協会のスマホアプリ「中央区まち歩きマップ」を開きます。このアプリの特筆すべきところは、江戸・明治・昭和の各時代の中央区の古地図が見られるところで、今自分がいる場所もGPS連動で古地図上に示されます。
なんとこのあたりには昔、隅田川に斜めにつながる水辺があったところで、ポンプ所は水辺の跡地、治作の前の道は「明石橋」が架かっていた所でした。明石橋の橋詰は、現在説明板のある場所でまさしくここに渡船場がありました。治作のあたりは明石町14番なのでのちに渡船場が移った近辺と思われます。 ちょっと強引に昔の水辺を水色で塗ってみました。今の「あかつき公園」はかつて「明石堀」と呼ばれた広い水辺空間でした。ここから「鉄砲洲川」が今日のゴール地点の近くまで流れていました。 古地図を見て歩く楽しいところは、「宝の地図」を見てお宝を探すような気分を味わえるようなところでしょうか。
「佃島渡船の碑」がある佃まで来ました。江戸の初期からあった佃島の歴史ですが、この佃の渡し舟の歴史も同じ頃から始まります。渡し舟にはいろいろな変遷があったようですが、オリンピックのあった1964年に佃大橋が開通したことで長い歴史に終止符が打たれました。 この碑の写真をバシバシと撮っていたら、老夫婦が近づいて来ました。月島から歩いてきてこれから住吉神社にお参りに行く、とのこと。90歳のおじいさん。ゆっくりといろいろな話をしてくださいました。
3つの渡し船が動いていた頃のことをすべてご存知でした。勝鬨の渡しの船が一番小さかっただとか、橋ができて舟が無くなったとか、豊海の埋め立て地はまだ無かったとか。
まさにお宝の時間でした。どうもありがとうございます。
佃大橋を渡り上流を眺めます。佃大橋のたもとに桜の木があるのですが、その下にもうひとつの佃島渡船の碑があります。ここが渡船場だったところです。桜が咲いてテラスを歩けるようになるのも、あとちょっとです。
かつての鉄砲洲川の河口があった辺りにある「湊町第1児童遊園と汐見地蔵尊」。川は関東大震災の頃に埋め立てられたとのことですが、佃の渡しの渡船場はこの河口付近にあった時代もありました。 ここに川が流れていたということは今は全く想像ができないのですが、風景が変わってしまっても水辺の記憶というものは探してみると意外なところに息づいているもので、もしかしたら何かを見つけられるのかもしれません。
ゴール地点の「湊公園」。隅田川テラスの工事が終われば直接テラスに出られるようになる公園です。 上流には「中央大橋」が見えるなかなか景色の良いところ。江戸時代、このあたりは遠方からやって来た大きな帆船がたくさん停留し、小さい船に荷を移して江戸市中に運んでいったところといいます。そういう景色を想像し、思いを馳せるのにも気持ちが良い公園になりそうです。
神茂さんの歴史について語ります ① ~ 神茂 ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をコアとして取材します、 rosemary sea です。 日本橋神茂(かんも)さんの創業は元禄元年(1688年)、というのは前回述べさせていただきました。 今回はその歴史について詳しくご紹介させていただきます。 今回も有限会社 神茂 井上卓(たかし)社長直々にお伺いしました。 始祖とされる神崎屋長次郎さんは大坂の神崎というところの出身。ここから江戸へ出て漁業に従事しました。 それで江戸時代には「神崎屋(かんざきや)」という屋号を用いていました。 代々、「神崎屋茂三郎(もさぶろう)」を襲名するようになり、市場では縮めて「神茂」と符丁で呼ばれるようになりました。 それに伴い明治になって屋号も「神茂」と改めました。 昔から、半ぺんや蒲鉾ひとすじに精進されてきた伝統の味わいはとても評判でした。 明治29年発刊の東京自慢名物会の錦絵(木版画)にも「魚市場神茂」となって詠われています。 「名物と世にめでられて 昔より 変わらぬ味の 月の蒲鉾」 江戸でも明治でも、そして現在も、神茂さんの半ぺん・蒲鉾は"名物"です。 神茂さんには先人の言葉として以下のような意味の教えが遺され、受け継がれています。 「商売はあまり大きくしてはいけない。大きくするとどうしても目が行き届かなくなる。 食べ物は一度まずいものを売って評判を落としたら、二番が続かない。 また買いに来ていただけるように、ていねいにいい品を造ることがいちばん大事。」 珠玉の名言、ですね。勉強になります。 神茂さん、丁寧に心を込めて製品を造り続けております。 多くの方にごひいきにされている所以です。 後に半ぺん製造も手掛けることに。 ここから半ぺんのお話です。 江戸時代、鮫のヒレ(ふかひれ)は、中国などへの幕府の重要な輸出品のひとつでした。 品川沖や浦安沖には鮫場と云われる漁場がありました。 幕府への献上品となるふかひれとなるヒレを取った残りの鮫の身が、日本橋の魚河岸で取引されていました。 今、市場に出回る「はんぺん」のほとんどは鱈(たら)のすり身を混ぜています。 しかし神茂さんの半ぺんは今も鮫だけを使って造っています。 大隈重信さん、家では節句には必ず神茂さんの半ぺんが供されたそうです。 有名人のファンは他にもいっぱいいらっしゃったようです。 歌舞伎の世界では【若手でちょっと筋のいい役者】が出てくるとこう言うのだそうです。 歌舞伎に造詣の深い、尊敬する先輩特派員の滅紫さん、ご存知・・・ですよね。失礼しました。 そうです、かんも=神茂さん。ここからのおでん種の"すじ"=素質があるという意味の"筋"。なかなか粋な隠語です。 このようなところにも登場する神茂さん、昔から名の通ったお店、という証ですね。 神茂さんでは半ぺん、蒲鉾の他に"すじ"も商品としてあります。 決して主力商品ではありませんが、なかなか美味しいと評判です。 半ぺんはサメを主原料としています。 製造工程で大量に出るのが、軟骨や身のついた"すじ"。 これをミンチにし、少量の食塩とつなぎのでんぷんを加え、すり、すだれで巻いて茹でて出来上がります。 おでん種としてこれはこれで立派な役者さん。 日本橋室町1-11-8 東京メトロ銀座線 三越前駅が至近 日本橋三越前 中央通りの大和屋さんとブリッジにいがたの間のむろまち小路を150m、右手前角 03-3241-3988 営業時間 平日 10:00~18:00 土曜 10:00~17:00 定休日 日曜・祝日 神茂さんのホームページはこちら ⇒ https:www.hanpen.co.jp/ |
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