[朱房の十手]
2018年3月13日 12:00
写真(桂川屋敷)は、区教育委員会設置 史跡案内板(築地7丁目十番地)
桂川家は享保年間(1716-1736)ごろから築地に居を構えていました。
和欄外科医の奥医者として名を馳せ、登城のさいは11名の供を従え、旗本も道を譲るほどでした。
明治維新の前(1863)に築地で大火があり桂川家の向いから出火、類焼は免れたものの火災の直後に「柳生対馬守」の屋敷を譲り受け転居しました。
面積は1200坪余りあり、広い庭がありました.。明石堀(あかつき公園)を挟んで、中津藩 奥平家の屋敷があり、福沢諭吉が蘭学を教えていました。
(「名残りのゆめ」 甫周 長女 みね追憶談 より)
[えだまめ]
2018年3月12日 09:00
子連れ特派員のえだまめです
今日、3月10日。
いたって普通の土曜日なので、娘あずきを連れて隅田川テラス方面へお散歩に向かいました。
その途中。
浜町区民館(児童館も入っているのであずき共々よくお世話になっています)の前にたくさんの人。
そして、いつもと違いお花も供えられていて、みんなで手を合わせていて。
ああ、そうか。
今日は、東京大空襲のあった日です。
1945年(昭和20年)のきょう、深夜0時8分にアメリカ空軍のB29爆撃機が
東京上空に飛来して大空襲が行われ、最大級の被害がもたらされました。
現在東京都としては、この日を「東京都平和の日」とし、様々な行事を行っているようです。
そして、浜町区民館になぜ多くの人が集まるのか。
理由はこちらのレリーフを。
当時、ここには「浜町小学校」がありました。
そして東京大空襲の夜、お二人の先生と用務員さんがここで殉職され、
小学校も灰塵に帰すこととなったのです。
また、関東大震災を経て火災に強いように再建された学校が多かったので
多くの方が小学校に避難されていたようなのですが
アメリカ軍の空襲の威力は予想をはるかに超えるもので
避難された方も多く犠牲になってしまったようなのです。
レリーフは平成2年に浜町小学校の同窓生の皆様が作られたものですが
「天国からあなたの子供達に話しかけ子供達をお守り下さい
私たちの脳裏に刻み込まれた おやさしかった皆様の
生前のお姿をしのび霊安かれとご冥福をお祈り申し上げます」
ということばは胸にしみるものがありました。
どうしても翌日・3月11日の東日本大震災の記憶の方が新しく、
かつ自分自身が体験したことの方が思い出されやすいものだから
(実際、あの日私も帰宅難民になり、結局勤務先で一夜を過ごしましたし。)
東京大空襲のことが思い出されにくくなっている現状もあるように思えます。
それでも。
平和の尊さを考える日のことを、決して忘れてはならないと思うのです。
レリーフの文章の後半
「再び此の様な災禍のなからんことを誓う」
この言葉をかみしめたいと思います。
浜町区民館(浜町小学校跡)
中央区日本橋浜町3-37-1
http://mappage.jp/cml/SMAP.php?X=139.7945767088&Y=35.6822381386&L=12#S04
※レリーフは入り口の左手の外壁にあります
[yaz]
2018年3月11日 14:00
昨年日本橋本石町の長崎屋(阿蘭陀館)についてシリーズで報告しましたが、今回番外編として鉄砲洲船松町へ移転した以降~御家没落までの過程を記述します。
安政5年7月1日(1858年)、日蘭修好条約が締結され、長崎出島のオランダ商館長の江戸参府の行事も廃止さましれた。10月になって、長崎奉行所は長崎で購入した蘭書を江戸へ廻漕し、江戸本石町の長崎屋を「蕃書取扱所」として、すべての蘭書に押印しました。この印章の写しは、町年寄「舘市右衛門」(日本橋本町)を通して、通二丁目の書物問屋「佐兵衛」他1名に伝達されました。
長崎屋11代目当主 長崎屋(江原)源右衛門は思案して、長崎奉行所に願書を提出しました。『これまでオランダ宿その他長崎表御用商を務めてきましたが、たびたびの火事に類焼し、難渋しておりますので、今までの住居の本石町3丁目の場所を人に貸して収入を得て、深川でも本所でもどこか河岸付の便利な場所を得て転宅したいと思いますので、どうかお許しを得たい』
長崎役所はこの願書を受理し、かけあってみようということとなりました。武家地なのでいろいろと問題が発生するかもしれないが、築地河岸の船着き便利な場所である船松町を候補に検討してみようということとなりました。従来の人参座(薬用人参の販売)・新規の御用"藩書取捌"を行う役所向け建物を建設するということで可否を伺えることになったのです。
長崎屋は町人ではあるが、「御用達町人同様の取り扱い」にすることが出来るなら許可しようということで、付箋付きで許可が得られました。
現在の地図で場所を示すと、以下のように聖路加病院裏になります。
明治初年に東京運上所(水炊き 治作脇)が使用していたと思われる洋書が発見されました。
明治元年(1868)7月、鉄砲洲に置かれていた外国事務局が「長崎会所」に残されていた品々の引き渡しを受けます。その中に西洋書籍1万7千冊余が含まれていました。この長崎会所とは「江戸長崎会所」のことで、万延元年(1860)に、江戸の船松町二丁目(現中央区明石町 6~7 番地隅田川沿)で「蕃書」(=洋書)や西洋銃の売り捌きそのほか長崎会所の御用達を務めていた長崎屋(江原)源右衛門宅を指しています。
源右衛門宅は鉄砲洲船松町2丁目はずれ、細川若狭守屋敷北隣の河岸添地でした。長崎屋は新たに輸入小銃の売り捌きにも当ることになり、商売が繁盛して景気が良く新しい事業にも乗り出しました。新材木町の丁字屋仁平と手を組んで生糸貿易に一役買いました。船松町から南飯田町続きの埋め立て地に引っ越しましたが、安政条約締結の結果、東京を開市せざるを得ず、築地に居留地を作ることなりました。そのため源右衛門の土地は引き払わざるを得なくなりました。その後、本所小梅の裏長屋に引っ越し、明治8年8月5日5人の子女を残して没しました。鎖国を継続した江戸時代海外との門戸を開くことに大いに貢献した長崎屋でしたが、最後は思いがけない結果となりました。今は江原姓を名乗る人はいません。
参考文献:
切絵図考証(21) 安藤菊二著 郷土室だより(中央区立 京橋図書館) 1982.01.15
[朱房の十手]
2018年3月 9日 12:00
明治天皇皇后両陛下は、
明治8年4月4日 水戸藩下屋敷(現在 向島 隅田公園)でのお花見の際に、お茶うけとしてアンパンを召し上がりました。
大変お気に召されたそうです。
段取りをつけたのが、
剣・書の達人 侍従の 山岡鉄舟です。
左の写真の書き文字 店名を書かれました。
残念ながらオリジナルは関東大震災の際 焼失したそうです。
銀ブラの際によくよくご覧になっては如何ですか。素晴らしく見事な文字です
[ジミニー☆クリケット]
2018年3月 9日 09:00
入船3丁目、入船橋交差点に面して、植栽に囲まれて「靴業発祥の地」碑が建っています
碑文には、このように記されています
明治3年(1870)3月15日西村勝三が伊勢勝・造靴場を創建したのは旧築地入船町5丁目1番のこの地であった。勝三は佐倉藩の開明進取の風土に育ち、時の兵部大輔大村益次郎の勧めと、藩主堀田正倫並びに渋澤栄一の支援を得て靴工業を創成しこれを大成した。斯くてこの地は日本に於ける製靴産業の原点であるのでこゝに建碑事蹟を記す
昭和60年(1985)3月15日
日本靴連盟
題字は、堀田正久氏書となっています
堀田正久氏は旧佐倉藩主堀田家直系の子孫であり、4期16年にわたり佐倉市長を務められたそうです
碑文によれば、明治3年の3月15日に、この地に佐倉藩士だった西村勝三氏が革靴を製造する工場を開業されたとのこと
陸軍の創始者であった大村益次郎の「勧め」とは、日本人に合った軍靴(革靴)に対するニーズにもとづくものだったのでしょうし、当時、この築地の明石町一帯が、外国人居留地に指定されていて、多くの外国人による靴の需要も多かったのでしょう
3月15日は、「靴の記念日」です
昨年1月、製靴業発祥と佐倉藩の関係について紹介したブログ記事はこちら ⇒
/archive/2017/01/post-3950.html