[銀造]
2018年5月17日 09:00
十思スクエア(旧十思小学校)に隣接する「十思スクエア別館」内にある『小伝馬町牢屋敷展示館』に半年ぶりに行ってきました。
昨年の10月に行ったきりで、暫く行っておりませんでした。
いつものように、十思スクエアの受付の所から入ったら、牢屋敷の模型は展示されていませんでした。親切な職員の方に質問すると、「十思湯」に入る入口から入った所に移設されたと教えて頂きました。
とても精巧な作りの小伝馬町牢屋敷のミニチュア版です。 親切な説明も完璧です。
幕末を揺るがせた安政の大獄で被害にあった吉田松陰先生を始めとした偉人がこちらに投獄され、処刑されました。
歴史に想いを馳せ、幕末から明治維新を駆け抜けた偉人の業績について考えたひと時でした。
小伝馬町から人形町通りを歩き、「西郷どん」が住んだことのある日本橋小学校、魚久本店、蛎殻銀座あたりの散策をお勧めします。 そして、人情味あふれる人形町でお食事、お買い物をお楽しみ下さい。
『小伝馬町牢屋敷展示館』と中央区の展示館についてのHPは、こちらを御覧下さいhttp://chuoku-machikadotenjikan.jp/tenjikan/royashiki/
[銀造]
2018年5月12日 12:00
小冊子「銀座の柳」を頂戴しました。
それには、明治以降の「銀座の柳の歴史」について書かれており、
(次の写真は、銀座柳まつりのパネルを撮影させて頂きました)
『明治時代となり、新両替町が「銀座」に変更される。 銀座の大火により一帯が焼ける。明治政府による東京の不燃化都市計画において、銀座煉瓦街建設の方針が決定。車馬道と人道を赤レンガで舗装した銀座通りが完成する。 銀座通りの四辻に松・楓・桜を植樹。埋立地で水分の多い土質のため、松・桜が枯れる。 湿地に生息する柳に植えかえられる。 これが、初代柳誕生の歴史です。 そして、大正10年ごろには、銀座の街路樹がほとんど柳になる。』というお話から第二代目、第三代目誕生のお話、昭和40年に、柳200本のうち20本を植え替え。明治100年記念事業として銀座通り大改修。 銀座の柳208本は、銀座通り改修工事及び著しい衰弱のため、京橋のテアトル東京前の5本を除いた203本を撤去。 この後、「銀座御門通り会長・椎葉一二氏と銀座金春通り会長・勝又康雄氏により、「銀座の柳」復活活動始まる」という記事が紹介されています。 記事の一部を割愛させて頂きますが、これから、
「植えて嬉しい」銀座の柳、全国へ。 「銀座の柳は安曇野産だった」という朝日新聞の報道により、銀座の柳が長野へ里帰りというお話になったことも書かれてあります。
この小冊子は、第十二回銀座柳まつりの会場で、実行委員会の係の方から頂戴しました。
また、会場では、「やなぎの木」に関するクイズがありました。
第一問:柳の葉っぱはどれかな?
第二問:柳の木はどんな場所に生えているのかな?
第三問:柳の木はどれくらい大きくなるのかな?
第四問:柳の花はどれかな?
柳を知ろう! 育てよう! という記述では、
正式名称は、シダレヤナギ。 植物の分類、科目は「ヤナギ科ヤナギ属」などと書かれており、勉強になりました。
[yaz]
2018年5月 9日 18:00
先日月島地区のガイドをするために、興味のありそうなことを調査をしました。そこで紹介した面白そうなテーマをいくつかシリーズで紹介します。1回目は"「勝どき・晴海」は月島だった"という信じられないテーマです。
明治22年(1889年)に東京府の行政区画として、市制・町村制が施行され、東京市が成立しました。現在の中央区に相当する地域は、日本橋区と京橋区に2分されました。昭和18年(1943年)に東京府と東京市が廃止されて、新たに東京都が置かれ、これら2区は他の33区と共に東京都直轄区となりましたが、昭和22年(1947年)これら2区が合併して中央区となりました。
昭和22年(1947年)に京橋区は廃止され、「月島・勝どき・晴海」地区は月島1丁目から12丁目までの横長の地区でした。例えば、月島通一〜十二丁目は、
一〜六丁目が1892年(明治25年)に、七〜十一丁目は1894年(明治27年)に、十二丁目は1913年(大正2年)に「月島」追加されました。
月島西仲道・月島西河岸通・月島東仲道・月島西河岸通も同様の丁番指定の過程を経ました。現在の町名との対応を見ると以下のようになっています。
勝鬨1丁目~勝鬨6丁目・晴海の区域は昭和40年(1965年)以前はすべて月島でした。そのためこの時期以前に作られた施設には、現在勝鬨・晴海にあっても依然として「月島」名が残っています。例えば、月島第二小学校・月島第三小学校・月島警察署・月島消防署など。また私的企業でも支店名として「月島」名が見られます。
月島名が残る公的機関例を以下の地図に示します。
次回からは、昭和の初頭からあった「水上生活者」の話・水上小学校・月島の海水浴場そして「時によると都庁舎は晴海地区にあったかも」という話を続けます。他の地区にはないユニークな特徴を持つ月島の一面を紹介します。
[あすなろ]
2018年5月 9日 14:00
千利休が愛したとされる七種の花木、
「利休七選花」の1つ山法師は、
落ち着いた印象のある白い花をつけます。
中央の丸い花の部分を「僧侶の頭」に、
4枚の白い総苞片を「頭巾」に
見立てたのが花名の由来です。
何気ない日常の中で見かける、
そして控え目な花を
千利休は茶花として価値をもたらしました。
この時期、中央区の街路樹として
触れ合うことができます。
◆京橋大根河岸おもてなしの庭()
東京都中央区京橋3丁目4番地先、京橋北西橋詰
◆中央区:水とみどりのふれあいマップ
[あすなろ]
2018年5月 7日 18:00
立夏、気持ちいい五月晴れとともに
夏祭りの季節がやってきましたね。
御鎮座1178年を迎えた鐵砲洲稲荷神社の本祭りです。
神楽殿では日々の感謝を伝える「神楽」を
奉納します。雅楽や巫女さんが笛や太鼓、鈴の音
に合わせて舞を踊るなど、神社ごとにさまざまな
「神楽」が奏されます。
5日午前、鐵砲洲稲荷神社の神楽殿では、
居合道・杖道の演武奉納が執り行われました。
足や体の捌き、鞘放れの一瞬の緊張感、
静と動の微妙なバランス、研ぎ澄まされた技が
拝見できました。
◆鐵砲洲稲荷神社
東京都中央区湊1-6-7
[湊っ子ちゃん]
2018年5月 7日 14:00
♪ 御鎮座一千百七十八年 鉄砲洲稲荷神社例大祭
5月3日(木)午前8時。前日夜から降り出した雨は、朝になるとポツポツと弱まり、空は次第に明るくなってきました。天気予報では、28度まで上がる予報。依然曇ってはいるものの、湿気が多く、上着がいらないほどです。鉄砲洲公園に足を運ぶと、御仮屋から出てきた鳳輦が、たくさんの氏子衆に囲まれていました。子供の頃から一緒にお神輿を担いできた仲間なのでしょうか、中には親しく声を掛け合う方々もあります。みな、その時が来るのを、まだか、まだかと待ち構えている様子です。
午前8時30分頃。鉄砲洲稲荷神社のほうから太鼓の音が聴こえ、慌てて足を向けました。宮出しの儀式が始まるのです。神社の外には、ブラスバンド、神幸祭渡御に参加する人力車が待機しています。境内の拝殿前には、本社神輿が鎮座しており、神楽殿では鉄砲洲東囃子が奏でます。氏子衆や見物客が見守るなか、宮出しの儀式が始まりました。本社神輿は、現在も八丁堀に商店を構える、秋山三五郎先代による大正15年の作品。台輪4尺1寸5分(約1m30㎝)という堂々たるものです。そしてついに、本社神輿の宮出しです。この頃には雨もすっかりあがり、日が差してきました。
午後には、各町会のお神輿が、それぞれの町の路地をくまなく回り、それから神社へ向かい参拝しました。途中の休憩所では、町会の方々が、お神輿が近づくのを見計らいながら、担ぎ手や見物客のためにと、お茶や飴などを忙しく用意されていました。大人数分ですので、とても大変です。
この日は、一日を通して、あちらこちらから掛け声や、賑やかな声が響いてきました。氏子町会が一斉に、お神輿を出すのですから、町全体が熱気に包まれます。お隣の町会のお神輿も近くの路地を通りますし、あちらに見えたと思ったら、こちらにもお神輿が来て、といった具合に、とにかく特別な一日なのです。わが町のお神輿が路地を行くさまは、やはり感動しますね。湊っ子は、遠くから見守るだけでしたが、とても誇らしい気持ちになりました。おかげさまで、翌日4日・5日も天候に恵まれました。皆さま、おつかれさまでした。
中央区観光特派員 湊っ子ちゃん
第5号 平成30年5月6日