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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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「小田原町小沢太郎兵衛店」

[CAM] 2018年5月 2日 14:00

4月28日の日経新聞26面「詩歌教養」の頁に、松尾芭蕉が日本橋に居住したことについて述べられています。

 芭蕉は、1672年(寛文12年)に俳諧師を目指して伊賀上野から江戸に下ります。1680年(延宝8年)冬、まだ郊外であった深川に庵を結んで隠棲しましたが、この後世「芭蕉庵」と呼ばれる庵に移るまでの期間、日本橋周辺に居住したと考えられています。

 最近解読された古文書によると、芭蕉の当時の住所は「小田原町小沢太郎兵衛店」、小田原町は今の日本橋室町1丁目、当時は魚市場の近くで繁華な場所でした。

その後の研究で、芭蕉は1677年(延宝5年)ごろから小田原町にいたというのが定説となっているようです。

日本橋三越から中央通りを挟んだ対面近く、通称むろまち小路にある佃煮の老舗「日本橋鮒佐」の店先には、この頃に詠まれたと考えられる「発句也松尾桃青宿の春」の句碑があるというので、早速、確認してきました。

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人形町・富沢町の思い出 ~和菓子「三廼舎」その2~

[五月雨ジョージ] 2018年5月 2日 14:00

 前回に引き続き、和菓子の「三廼舎」さんの後編です。

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▲三廼舎さん 店内

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 今回は店主のお母さま(先代のご主人の奥様)に、人形町・富沢町界隈の歴史や思い出などについて伺いました。

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▲お店には明治神宮からの感謝状(1953年)が掛けられています。

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・三廼舎の創業は戦後復興もおぼつかない昭和22年、お母さまが7歳くらいの時だったそうです。当時はまだ浜町川が流れていたそうですが、三廼舎の横に架かっていた小川橋から北側は、昭和24年に戦災復興工事として埋め立てられました。

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▲小川橋より栄橋方面を望む(1949年)。左手手前が三廼舎さん。

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▲同上、埋め立て後(1949年)

※「区制施行70周年記念 中央区のあゆみ -戦後の発展とまちの変化-」(発行:中央区教育委員会)より


 南側は下に都営1号線(現・都営浅草線)が通ってからも(昭和38年)流れており、埋め立てられたのは昭和47年頃だということです(下の写真を見せてもらいました)。

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▲久松警察屋上より浜町川の南側(1956年)。手前から明治橋、蛎浜橋、中ノ橋、浜洲橋、川口橋。

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・私がずっと疑問に感じていた、浜町に残る「金座通り」という名前の由来もお聞きして納得しました。金座のあった場所(現日本銀行)までずっとつながっているので、両国橋の袂から浜町を通って金座までの道を金座通りと呼んだのだそうです。「金座通り」の愛称が、金座の場所からかなり離れた浜町に残っているというのも興味深いことです(現在の金座通りは、日本橋浜町1丁目12番~日本橋浜町2丁目11番)。

 また、狭い地域ですが「浜町二丁目金座町会」も残っています。(該当地区:日本橋浜町二丁目10から13番、32から41番、60から62番)

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・三廼舎の向かいに建つNTTビルは、かつて力道山の鉄筋5階建て「プロレスリング・センター」(昭和30年:当時、日本橋浪花町)があったところだそうです。ジャイアント馬場までは、ここに通っていたそうです。

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▲プロレスリング・センタービル(1955年)
※画像はhttp://wildman.seesaa.net/article/130989842.htmlより

(2018年05月02日 05:52 WILDMAN'S BLOG様より使用許諾済)


・その力道山が慕っていたのが日本プロレス協会設立に尽力した後援会長の新田新作氏(新田建設社長)。新田社長は終戦後明治座を復興させたメンバーの中心人物でもあります。現在、その娘さんが明治座のすぐ裏にあるカウンターバー「浜町 新田」をやっていらっしゃいます。

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・戦後、人形町通りは、深川の門前仲町通りと共に両側にアーケードが作られ、近代的な商店街として栄えていったそうです(アーケードは1985年に撤去)。

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・人形町に有った寄席「人形町末廣」も旦那さん(2代目ご主人)と良く観に行ったそうです。柳屋金五郎や5代目古今亭今助がお好きだったようです。人形町通り現読売新聞(「うぶけや」の隣)。昭和45年閉場。

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・隅田川の花火は昔は金座通りの正面から良く見えていたようです。現在のパンダスタジオ浜町(旧・浜町スタジオ)のあるところではお金を取って見せていたこともあったようです。また、久松警察署では、建物の屋上に上らせて見せてくれたそうです。

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・三廼舎があるのは日本橋富沢町ですが、富沢町の町名の由来まで聞かせていただきました。鳶沢町 ⇒ 富沢町:江戸時代にこの一帯に住んでいた古着屋の元締めである鳶沢甚内という人物がいたことから、「鳶沢町」と呼ばれるようになり、後に字を改めて「富沢町」と呼ばれるようになったということです。

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・三廼舎さんは明治座が近いということもあり、舞台があるたびに和菓子を買いに来る芸能人も多いようです、淡島千景さん大沢逸美さんなどのお名前をお聞きしました。また、近くにある和菓子屋「銀座あけぼの」の社長さんもよく来店するとのことでした。

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 そのほか、大川橋蔵(二代目)さんの出生の秘密など、いろいろびっくりするようなことをお聞かせいただきました。また、近々楽しいお話を聞かせていただきたいと思っています。

 さて、今日は柏餅を買って帰るとしますか‥‥。

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御菓子司 三廼舎(さんのや) :東京都中央区日本橋富沢町16-3

 

 

あつまれ、町神輿!

[湊っ子ちゃん] 2018年5月 2日 09:00

5月2日より斎行されます「御鎮座一千百七十八年 鉄砲洲稲荷神社例大祭」に向けて、各町会では、路地や公園等に設置されたお仮屋に、次々とお神輿が姿を見せ始めています。同時に、御神酒所も設けられ、3日・4日の渡御では、それぞれの順路の目印となります。


♪ 湊三丁目

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昭和31年 本所石原町十五代 宮信作

台輪寸法2尺5寸(約75㎝)



♪ 湊二丁目

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「江戸湊 江戸名所図会」模写 江戸時代末期頃の風景


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獅子頭 昭和初期


♪ 入船三丁目

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市川市行徳関ヶ島 後藤直光 作



♪ 新富町

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市川市本行徳 中台祐信 作


♪ 銀座一丁目東

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市川市行徳関ヶ島 後藤直光 作

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鹿威しと、鉢に蛙。


♪ 銀座二丁目東

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浅草聖天町 宮本重義 作

各町ごと、心意気を感じますね!楽しみです!!


中央区観光特派員 湊っ子ちゃん

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第3号 平成30年5月1日

 

 

東堀留川跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年5月 1日 14:00

皆さんも東堀留川を知っていると思いますが、もともと石神井川の河口部であったそうです。

「上流からの流れを失った旧石神井河口部は、あらためて伊勢町堀(西堀留川)と堀江町入堀(東堀留川)に整備されて日本橋川につながる河岸地として、舟運の中心的役割を果たすことになります。」『中央区立京橋図書館 郷土室だより 第156号より』

私はてっきり日本橋川から江戸の荷上場として堀り進められた堀だと思っていました。

今回はそんな東堀留川跡を歩いてみようという企画です。

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こちらの案内板は小舟町町1丁目にある西堀留川跡の案内板です。東堀留川は案内板の右の川となります。東堀留川には日本橋川から思案橋・親父橋・萬橋と三つの橋がありました。残念ながら昭和24年に埋め立てられ,今はこれらの橋を見ることはできません。思案橋と言えば江戸時代初期に遊郭に行くか劇場に行くか迷って思案したことから思案橋と呼ばれるようになったと言われています。下の写真は大正初期の思案橋の写真です。

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〈写真:中央区立京橋図書館 蔵〉

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日本橋川の接続地には現在でも水門が残っていました。この部分は小網町児童遊園になっていてこの公園の中に公衆便所があるのだが、この辺が思案橋のあった所となる。右の写真の路地の曲がり具合は上記の地図の東堀留川の屈曲具合にピッタリマッチします。

 

この路地に面した建物には、現代風にアレンジされた「倉庫建築」が今でも見受けられます。

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かつて東堀留川があったころ、この付近にはたくさんの倉庫群があったことでしょう。

私的には「江戸名所図会」の"堀留"の図会が頭に浮かんできました。

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そして、親父付近となります。東堀留川は写真手前から交差点の赤信号の方角に伸びていたことになります。そしてこちらの写真も大正初期の親父橋の写真となります。当たり前ですが2階建ての建物しか、確認できません。

「庄司甚右衛門 略 甚右衛門が町奉行所に召出された折々、本多佐渡守はじめ列席の面々皆親父・親父と呼んだので、人々もまた聞き伝えて親父と呼び、寛永五年十一月のころ、甚右衛門の発議で江戸方面から吉原へ渡る橋を架けた際、人これを呼んで親父橋と称した」『中央区史』より

思案橋、親父橋共に、橋に名称が元吉原に関係していたのですね。現在でも中央区日本橋として人の往来は見受けられますが、江戸初期はたくさんの人の往来があった橋だったことでしょう。

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〈写真:中央区立京橋図書館 蔵〉

そして、赤信号の交差点を直進すると堀留児童公園へと繋がります。

東堀留川の川幅はこの公園とほぼ一緒ぐらいあったと言われています。

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現在この公園の地下には災害対策用応急給水槽が埋められているようです。そして公園の先には日本橋保健センターがあります。日本橋保健センターは、東堀留川跡の上に建てられているのですが、建物の一部分がピロティになっていて、まるで川の流れを残したような構造となっていました。また、ピロティの壁面には3枚のタイル壁画がありました。

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これは、もしかして東堀留川にあった思案橋、親父橋、萬橋かなと思い、図書館で調べたり、日本橋保健センターに電話してお伺いしたりしたのですが結局はっきりしたことはわかりませんでした。(日本橋保健センターのスタッフの方にはお仕事中にいろいろ調べて頂きありがとうございました。)

恐らく、日本橋今昔の壁画だろうと思います。詳細をご存じ方はご教授頂ければ幸いです。

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そして、日本橋保健センターの隣にスーパーホテルというホテルが建っています。そのホテルのエントランスの植え込み部分にホテル建設中に見つかった東堀留川の船着石積の一部がありました。私の個人的な意見ですが、もうちょっと目立つところにもっと大きな案内板をつけてもらいたいと切に感じました。普通に歩いていたら、まず気付く人はいないでしょう。このホテルと日本橋保健センターの前あたりが萬橋のあったところとなります。そしてこの先の日本橋消防署堀留出張所前で"堀留め"となります。もちろん住所も中央区日本橋堀留町となります。

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小網児童遊園から日本橋消防署堀留出張所手前までが東堀留川跡になります。

あっという間の短い距離でしたが、旧東堀留川跡にはかつてそこに間違いなく川があったことを感じさせてくれる街歩きとなりました。

 

 

鉄砲洲稲荷神社例大祭がはじまります!

[湊っ子ちゃん] 2018年5月 1日 09:00

「御鎮座一千百七十八年 鉄砲洲稲荷神社例大祭」 三年に一度の本祭が、いよいよ5月2日より斎行されます。4月に入ってから建設のはじまったお仮屋には、ついにお神輿が姿を見せてくれました。

♪ 江戸湊に鉄砲洲あり

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こちらは、鉄砲洲児童公園に飾られた、湊一・二丁目町会「宮元大神輿」です。昭和11年、行徳浅子周慶により作られ、台輪寸法は三尺三寸(約1m強)、延屋根型、白木造りです。町神輿としては最大級、品格・伝統ともに日本一の町内神輿と称されます。紋所は通称「鉄砲角」。屋根の上では、鳳凰が胸を張り、翼を大きく広げています。


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こちらは湊町第二児童遊園に飾られた、湊三丁目町会の町神輿です。こちらも、屋根の上には堂々と鳳凰を掲げています。湊をはじめ、氏子である新富町、明石町、入船一丁目・二丁目・三丁目、新川二丁目越一・銀座一丁目東・二丁目東・三丁目東・四丁目東・五丁目東・六、七丁目東西・八丁目東 の各町会も、お神輿を担いで参拝します。

♪ 祭の本義は報恩感謝

鉄砲洲稲荷神社は、平安時代初期の創建。江戸古社十四社の一社にあげられ、「江戸湊に鉄砲洲あり」と、全国の津々浦々に知られたものです。土地の産土神であると共に、水夫達の信仰を集め、土地の繁栄と航海の安全をお守りいただいております。御鎮座の日は、今から1177年前の4月15日であり、永年その日に例大祭を挙行していましたが、明治初年、新暦に改め5月4日となり、今日に至っているそうです。

今年も、鉄砲洲稲荷神社例大祭から、中央区、そして東京の夏がはじまります!

中央区観光特派員 湊っ子ちゃん

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第2号 平成30年4月30日

 

 
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