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◆ 京橋物語4~震災から昭和へ

[隅田の花火] 2019年2月14日 09:00

京橋物語の4回目。前回からの続きです。

前回まで→ 京橋物語 【①】 【②】 【③】

 

大正時代、大きく変貌していった南伝馬町の街並みが写された絵葉書です(大正10(1921)年頃)。絵葉書には「京橋通り」と書かれています。現在は「中央通り」という名前ですが、昔の絵葉書にはその場所毎に「銀座通り」「京橋通り」「日本橋通り」と印刷されました。それぞれの通りの名前が全国各地に写真付で届けられ、東京の発展が視覚的に知れ渡ったのです。

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しかし東京は、大正12(1923)年9月1日の出来事に襲われてしまいます。

 

この日の学校は始業式で、土曜日だったこともあり、子ども達は家路について昼御飯を食べようとしていました。被害の原因は、11時58分の地震の揺れによる建物の倒壊というよりも、そのあとに各地で発生した火災でした。それは南伝馬町も例外ではなく、街が焼かれてしまいます。

 

京橋川の少し上流、紺屋橋辺りから見ています。京橋川の護岸の先に写る大根河岸は焼失しています。しかし、南伝馬町の大きなビルは倒壊していないように見えます。

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京橋に近づいて確認してみます。下の絵葉書は、銀座側から京橋川越しに、橋と南伝馬町を見たものです。京橋は崩落を免れ、中央の背の高い第一相互館、左の大同生命、三十四銀行、右の豊国銀行のビル達は倒壊していません。あのモコモコした「3つのドーム屋根」は残ったのです。

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この関東大震災では、多くの有名な建物が崩れ落ちました。一番背が高いとされていた浅草の凌雲閣(浅草十二階)も被害を受けてしまい、南伝馬町の第一相互館がこの辺りで一番背の高い建物に成り代わります。第一相互館はこの後、復興してゆく東京を、一番高い場所から眺めていくことになるのです。

 

第一相互館から、震災の被害の状況を確認してみます。まず銀座の反対側、日本橋方面です。真下の街は、現在の京橋2丁目、当時の南伝馬町2・3丁目になります。

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瓦礫の山と化していますが、震災の3ヶ月前に竣工した千代田館は倒壊しませんでした。この葉書を作成したのは、千代田生命保険。葉書を各地に送り、本社の建物が倒れていないことを伝えました。それは契約者に安心してもらう目的があったようです。当時はまだラジオが無い時代。各地で情報が錯綜するなか、絵葉書は震災の情報を視覚的に伝えるメディアとして大きく機能したのです。

 

一方の第一相互館。この葉書も第一生命保険が作った絵葉書です。千代田館辺りから撮られた、9月28日の京橋通りになります。

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道路脇には小屋やテントのようなものが建てられ、通りには多くの人が集まっています。混沌としている様子も伺えますが、復興に向けて立ち向かう人びとのパワーも伝わってきます。

 

第一相互館から銀座方面を確認してみます。右下の京橋の袂には瓦礫が積まれているものの、その奥の大根河岸の建物は、仮屋のようなものが建ち始めているのがわかります。

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橋上には、荷馬車、リヤカーのような物が見え、復旧の真っ最中です。通り沿いの右側に建つ大きなビルは、震災を乗り越えた大倉組本館。通りの左側には、のちに開店する松屋の鉄骨が、僅かながら見えています。

 

銀座通りは、明治時代の煉瓦街から発展してきた高級街でした。しかしここでその時代の終わりが告げられ、新たな街へのスタートが切られることになったのです。

 

他のビルの状況を確認してみます。奥に東京駅が見える方角です。家々が建てられて、復興してきている様子も伺えます。

s_hanabi_71-7.jpg左のビルは片倉館、右は真四角窓の星製薬です。片倉館はこの後増築を繰り返して大きくなっていきますが、星製薬のビルは被害を受けてしまったため、この後、建て替えられることになります。真ん中に走る鍛冶橋通りは、震災復興事業による道路の拡幅が行われていきます。

 

この大震災の影響で、11月に行われる予定だった東宮殿下(のちの昭和天皇)の婚儀が延期となっていました。翌年の1月26日にご成婚、6月5日に祝賀となり、京橋には奉祝塔が建てられます。

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南伝馬町から銀座方面を写したものですが、銀座の新しい街並みが、もう形作られてきていることが分かります。この祝賀は、復興してゆく銀座通りに新たな希望と勇気を与えたのではないでしょうか。この5ヶ月後、銀座通りの尾張町には百貨店の松坂屋が開店することになります。

 

一方の南伝馬町。この界隈の大きなビルは倒壊しなかったため、銀座側から見ると震災前からほとんど景色が変わっていないように見えてしまいます。実際に絵葉書を見て、震災前なのか後なのか、時代を特定するのにとても苦労しました。

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手掛かりとなったのは、絵葉書に書かれている文字と、一番左手前に写るバラック風の建物です。この建物が写っていれば、震災後の南伝馬町の風景になります。

 

乗り合いバスが多く写るようになってくるのもこの頃から。大正14(1926)年の風景です。この年は、ラジオ放送が開始された年でもあります。

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震災があったにもかかわらず、大正時代の香りを残した南伝馬町の街並みは、何も起こらなかったかのように『昭和』の時代を迎えます。生まれ変わる為に最善の道を探る銀座の街からすれば、この南伝馬町の街並みは、ノスタルジックでもあり、見守ってくれているようでもあり、異様にも見えたかもしれません。

 

しかしここで突然、南伝馬町の街並みに変化が起こりました。

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左側の大同生命ビルのドーム屋根が、なんと、グィ~ンと伸びたのです。

 

このトンガリ屋根はまるで、大正時代の京橋の親柱の意匠が乗り移ったかのよう。橋を架け替える時にまさか将来を予見して、親柱の意匠をトンガリ風にしたというわけではないでしょう。南伝馬町の街はどちらかと言うと、新しく生まれ変わるというよりも、昔へと回帰しているように感じられてしまいます。

 

いずれにしても、南伝馬町の街並みと京橋の意匠が一体化したのは事実のように思います。

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このように、関東大震災を乗り越えた南伝馬町の街並みは、大正時代の雰囲気をそのまま昭和時代へと継承し、復興してゆく銀座の街を見守り続けていくことになったのです。

つづく。

 

 

 

中央区ゆかりの文学者たち

[湊っ子ちゃん] 2019年2月13日 18:00

こんにちは、湊っ子ちゃんです。

明治維新後、私たちの中央区を舞台に、近代文学は育まれました。銀座煉瓦街には新聞社が次々に誕生し、情報産業が発達しました。また、多くの文化人が中央区を訪れ、小説や戯曲など、様々な作品のなかに、中央区の情景を描きました。

今日は、中央区にゆかりの深い、文学者たちについて調べてみました。


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北村透谷(きたむらとうこく)

明治元年-明治27年 (1868‐1894)

文芸評論家、詩人。小田原生まれ。明治13年(1880)、京橋区弥左衛門町(現・中央区銀座四丁目)に上京。泰明小学校に編入する。銀座を舞台とする自由民権運動に関与する。明治22年(1889)「楚囚之詩」「蓮菜曲」を発表。「文学界」の創設に参加し、「内部生命論」など数々の評論を発表する。


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島崎藤村(しまざきとうそん)

明治5年-昭和18年(1872‐1943)

詩人、小説家。長野県の庄屋の家に生まれる。明治14年(1881)、京橋区槍屋町(現・中央区銀座四丁目)に上京。泰明小学校に学び、明治学院を卒業。「文学界」の活動を通して北村透谷を知り、深い影響を受ける。明治40年(1907)から翌年まで、「春」を海水館(現・中央区佃三丁目)にて執筆し、代表作の「夜明け前」は築地小劇場で上演された。


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芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)

明治25年-昭和2年(1892‐1927)

小説家。京橋区入船町八丁目(現・中央区明石町)の牛乳牧場に生まれる。生後まもなく、本所区の母の実家へ移る。東京帝国大学英文科卒業。夏目漱石の門下に入り、第3次、4次「新思潮」の同人となる。代表作に、「羅生門」「鼻」「地獄の糸」「河童」など。



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郡虎彦(こおりとらひこ)

明治23年-大正13年(1890‐1924)

劇作家。京橋区南八丁堀三丁目(現・中央区湊一丁目)生まれ。学習院から東京帝国大学英文科に入学し中退。「白樺」同人。大正2年(1913)、「道成寺」が自由劇場で上演される。渡欧し、「鉄輪」「義朝記」を執筆。ロンドンで上演され好評を得る。


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川端茅舎(かわばたぼうしゃ)

明治30年-昭和16年(1897‐1941)

俳人。日本橋区蛎殻町二丁目(現・中央区日本橋人形町二丁目)生まれ。画家を志し、岸田劉生に師事する。病弱のため、俳句に専念し、高浜虚子に師事する。「ホトトギス」同人。句集に、「川端茅舎句集」「華厳」「白痴」がある。


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山岸荷葉(やまぎしかよう)

明治9年-昭和20年(1876‐1945)

小説家。日本橋区通り油町(現・日本橋大伝馬町)生まれ。東京専門学校(早稲田大学の前身)に進み、坪内逍遥に師事する。のちに尾崎紅葉の門に入る。「硯友社」同人。問屋街や芸者屋街など、生まれ育った町並みを題材にした「日本橋文学」を発表。「奉公始」「当世手代気質」など。のち、読売新聞社に劇評担当として勤務する。


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長谷川時雨(はせがわしぐれ)

明治12年-昭和16年(1879‐1941)

歌舞伎脚本家、評伝作家、小説家、随筆家。日本橋区通り油町(現・日本橋大伝馬町)生まれ。明治38年(1905)、「海潮音」でデビュー。女性の評伝において、その地位を築く。昭和8年(1933)、雑誌「輝ク」を発行し、多くの女性作家や評論家を世に送る。随筆では「旧聞日本橋」が代表作。


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長谷川かな女(はせがわかなじょ)

明治19年-昭和44年(1887‐1969)

俳人。日本橋区本石町(現・日本橋二丁目)生まれ。夫の富田諧三(長谷川零余子)の主宰誌「枯野」をサポートする。高浜虚子に師事。昭和5年(1930)に「水明」を創刊し、女性俳人の先達となる。句集に「雨月」「湖笛」、随筆に「小雪」「ゆきき」などがある。


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谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)

明治19年-昭和40年(1886‐1965)

日本橋区蛎殻町(現・中央区日本橋人形町一丁目)生まれ。坂本小学校に学ぶ。耽美派とされる「刺青」「痴人の愛」「春琴抄」などが代表作。また、自然主義文学や、「源氏物語」の現代語訳などを発表。戦後に発表した「細雪」は、谷崎文学の極致とされる。


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立原道造(たちはらみちぞう)

大正3年-昭和14年(1914‐1939)

詩人。建築家。日本橋区橘町三丁目(現・中央区日本橋久松町)生まれ。久松小学校に学び、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。10代の頃より短歌を好み、堀辰雄から影響を受ける。詩誌「四季」の創刊に参加。詩集「萱草に寄す」「暁と夕の詩」を発表。第1回中原中也賞を受賞する。


bun12m.jpg中央区で生まれ育った、時代を代表する文学者たち。

時代を切り開いてゆく文学活動が、ここ中央区を拠点に繰り広げられたことはもちろん、それぞれの文学者が、中央区のなかで繋がっていることも興味深く思いました。

また、中央区を舞台に多くの作品が誕生し、物語のなかには当時の町の姿が生きており、今にその情景を伝えてくれます。それは、小説や戯曲にかぎらず、映画作品などにも多く残っています。

(写真は、泰明小学校に建つ「北村透谷・島崎藤村記念碑」そして銀座の柳二世)


中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

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第34号 平成31年2月11日

 

 

夜も輝く中央区:「マイ夜景スポット」を見つけよう!

[Hanes] 2019年2月11日 18:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
「中央区の夜景」と言ったら、皆さんは何を思い浮かべますか?
中央区の夜景八選や晴海ふ頭からの景色等、代表的なものが挙げられるのではないでしょうか。

しかし、夜景としてはあまり有名ではなくても、中央区にはつい写真に収めたくなる
夜ならではの輝きで魅せるスポットがたくさんあるのです
その中から、今回は最近撮影した4スポットをご紹介します。

【建物編】
■PLUSTOKYO
昨年11月にキラリトギンザの12F/RFに華々しくオープンした「大人の社交場」
STEVE AOKIやR3HABといった世界的人気DJもパフォーマンスを行う等、
東京2020に向けたナイトタイムエコノミーの創出ともなる話題のスポットです。

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DJというとクラブのイメージが強いかもしれませんが、
PLUSTOKYOにはレストラン、バー、ギャラリーもあり、
少し贅沢なブランチも提供する等、昼夜問わず様々な用途で楽しむことができます

私はまだ行ったことがないのですが、中央通りで人目を引くこちらのフロアは、
写真の通り、間違いなく夜ならではの輝きを見せてくれています

■パークシティ中央湊 ザ タワー(2017年11月竣工、地上36階建て)
近年、湊の再開発が進み、タワーマンションが増えつつあります。
その中でもひときわ目を引くのが、こちらの特徴的な形の屋上
調べてみたところ、ここにはスカイガーデンがあり、
周りに高い建物がない分、非常に開放感のある空間になっているそうです

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ここから一度、中央区の夜景を眺めてみたいものです。

【橋編】
■高橋
亀島川に架かる橋の中にも、夜は素敵にライトアップされる橋があるんです

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ブルーにライトアップされた橋も見所ですが、川面に注目してみてください
周囲には、灯りがついていないビルが多いにもかかわらず、
川に映るのは、「地下帝国」を思わせるようなブルーとホワイトに輝く幻想的な風景...
ついつい想像が膨らみますね

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■南高橋
中央区内の橋の中で、デザインがお気に入りの橋の一つです。
橋の一部を被写体にすると、少しだけ海外で夜撮影したような写真に仕上がります

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中央区内には、キレイな夜景が見られる場所がたくさんあり、そのような場所は既によく知られていますが、
目線や見方を少し変えるだけで、それらとは別に、夜輝く素敵な場所が見つかるはず
退勤時や夜の観光時に、ガイドブックに載っていない「マイ夜景スポット」を探してみてはいかがでしょうか


 

 

◆ 京橋物語3~大正建築ロマン

[隅田の花火] 2019年2月10日 18:00

京橋物語の3回目。前回からの続きです。

前回まで→ 【京橋物語①】 【京橋物語②】

 

現在の中央通りと鍛冶橋通りが交わる京橋交差点に、大正時代の中期、円形ドームの塔屋のある建物が出現しました。今回はこの建物からお話を始めることに致します。

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これは、あの東京駅の駅舎や日本銀行本店で有名な、辰野金吾が設計した建築です。第一生命保険所有の建物で、名前は『第一相互館』。建設工事が始まったのは、東京駅が完成した翌年の、大正4(1915)年のことでした。

 

その当時、この辺りにあった高層のビルは、日本橋の三越本館、銀座の大倉組本館などの5階建てでした。第一相互館が完成すれば、それを上回る7階建て、屋上の塔屋まで45mの高さを誇る大建築となります。

 

当時は第一次世界大戦がもたらした好況時代であったものの、インフレによる建築材料不足が原因でなかなか工事が進まず、鉄骨が組みあがるのに2年もかかってしまいました。ご覧のように、異様な高さを誇る鉄骨状態の第一相互館がそびえていますが、度々工事が中断してしまったことで、お化け屋敷と呼ばれたこともあったようです。

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そんな中、辰野金吾が完成を待たずに急逝してしまいます。大正8(1919)年3月、今からちょうど100年前のことでした。その後の不況もあり、建設作業は困難を極めます。

 

第一相互館が建築中のさなか、その100年前の5月には京橋に奉祝塔が立っていました。三大祝典と称されたこの祝典。東宮殿下御成年式、市制三十年、奠都五十年の3つが重なったお祝いです。東宮殿下とは、後の昭和天皇のことで、この時に18歳を迎えられています。

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通りの右側には建築中の第一相互館が写っていますが、通りの左側では、大同生命ビルの向こうで何やらビルの工事が始まっています。元々4階建てだったビルを7階建てに改築している最中で、この年に完成したようです。

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このビルは、新興製薬会社の『星製薬』本社の建物で、創業者の星一(ほしはじめ)が建てました。星一は、アメリカに留学したあとこの会社を興し、特約店の方式を初めて取り入れるなどの経営手腕を発揮、この会社を東洋一とまで呼ばれる製薬会社に押し上げた人物です。

 

星一の息子は、SF作家として知られる星新一ですが、その後の星製薬の運命は、彼が書いた悲しい物語から伺い知ることができます。

s_hanabi_70-5.jpg建築中の第一相互館の斜め向かいに建てられたこの建物。銀座側から見ると正方形に近い窓の形が特徴で、この後も絵葉書の風景に度々登場してきます。屋上には「クスリはホシ」という看板が赤い文字で光っていました。

 

そんな星製薬のビルの完成を横目で見届けたあと、いよいよ辰野金吾の遺作・第一相互館は完成します。妥協を許さない施工を守り通し、予定より3年遅れ、工費は予算の倍、苦難の末の完成でした。大正10(1921)年3月のことです。

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辰野金吾建築の特徴でもある、古典的赤レンガスタイルが随所に生かされた建築でしたが、最大の特徴は何と言っても45mという建物の高さです。その塔屋からは、現在の中央区全域を見渡せていたはずです。

 

この写真は大正10(1921年)、第一相互館から見た銀座の方向です。

s_hanabi_70-7.jpg写真提供:中央区立京橋図書館

 

ご覧のように、銀座通りは京橋の所でカーブしているので、第一相互館の屋上は、銀座通りを真ん中から見下ろせる絶好のロケーションとなりました。この頃の銀座に見える背の高い建物は、通りの右側の大倉組本館だけであることがわかります。当時の銀座は、カフェーが隆盛を誇っていた時代でした。

 

一方の日本橋方面の眺め。同じく大正10(1921)年頃でしょう。こちらも大きなビルはあまり建っていないようです。

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左下には、田村の帽子店が見えています。以前に特派員のyazさんがレポートされた、レストランの鴻乃巣の場所はこの付近と思われます。当時の様子もよくわかりますので、是非こちらをご覧になってください。

★特派員yazさんの記事 → こちら

 

そして下の絵葉書、おそらく翌年大正11(1922)年の、銀座側から見た南伝馬町の風景です。

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南伝馬町が大都会の風景に変貌しています。その中でもモコモコモコッと短期間に現れた「3つのドーム屋根」は、銀座から見て、南伝馬町のシンボル的建物に見えたに違いありません。いつの間にか、大同生命ビル手前には『三十四銀行』の四角いビルが建ち、そして星製薬のビルの向こうにも新たなビルが建築中です。

 

手前をよく見ると、道路工事をしている様子も伺えます。南伝馬町は大正時代に入り、建築の分野で大変貌をとげましたが、それが土木の分野も呼応したのです。これはおそらく、京橋の架け替えに関わる工事と思われます。

 

京橋は、この大正11(1922)年に橋を拡幅、今までの江戸の伝統的な擬宝珠のついた親柱をやめることを決断します。そしてモダンなデザインの親柱を持つことにしました。南伝馬町の街並みにマッチした、近代的なデザインになりたかったのでしょう。この親柱は現在も1基、京橋跡の現地に残されていますので、ご存知の方もいらっしゃると思います。 

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こうやって見ると、この親柱のデザインは「3つのドーム屋根」が作り出す都市景観と調和し、銀座側から親柱越しに望む南伝馬町はまるで、上へ上へと伸びる、天に向かう街のように見えてしまいます。

 

周りにもビルが増えました。絵葉書の左上のビルは大正11(1922)年の竣工の『片倉館(片倉生命ビル)』。場所は現在の東京スクエアガーデンの鍛冶橋通り沿いで、数年前まで片倉工業ビルとしてこの地にありました。

一方、通り左側の一番奥に建てているのは、『千代田館(千代田生命ビル)』。翌年大正12(1923)年の竣工で、現在の京橋トラストタワーが建つ場所です。

 

このように大正時代は、第一次大戦による好景気の中で生命保険や金融会社が隆盛を誇り、南伝馬町には銀座に先んじて多くの高層のビルが建てられていきました。現在の我々から見れば、この頃に作られた南伝馬町の街並みは、大正ロマン全開といったところですが、当時の人々には、東京の代表的な都会の街並みとして知れ渡ったようです。

 

しかしこのあと、東京、そして南伝馬町は、あの日の出来事に襲われることになるのです。

つづく。

 

 

 

特派員のひとり反省会 その1~第11回中央区観光検定より~

[えだまめ] 2019年2月10日 12:00

子連れ特派員のえだまめです

去る2月3日(日)、第11回中央区観光検定が実施されました。

申し込んではいたものの、極端な準備不足だという自覚もありまして、

「もう受けるのやめた方がいいのでは?」

という悪魔のささやきが聞こえた気もしましたが

「参加することに意義がある!」と自分を奮い立たせ、前日に過去問を猛烈に解きなおしチャレンジしてきたのでした。

そして、終わった今。

「終わったから、まあいいか」で済ませてしまうとよくない気がして。

迷った問題、間違えた問題の中から気になったものを

いくつか重点的に確認しておきたいと思いました。

というわけで、「えだまめのひとり反省会」シリーズ、しばしお付き合いください。


まずは今年度のテーマ問題「平成の中央区」よりの出題です。

問5 中央区にある次の建造物のうち、国の重要文化財に指定されたのが

   平成ではないものは次のうちどれでしょう。

ア.勝鬨橋  イ.日本橋  ウ.三井本館  エ.日本銀行本店本館


・・・正直、そんな切り口もあったか・・・!と面食らった問題でした(大汗)。

確かに近代の建造物の歴史的価値が認められてきたのはここ最近の話のように思いますし

こうしてみると、どれもこれも平成に認定されたものっぽい印象です(滝のような汗)。

というわけで、本番ではまんまと外してしまったわけですが。

ちゃんと確かめてみます。


ア.勝鬨橋

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こちらの勝鬨橋、検定にもよく出てきますね。

「東洋一の可動橋」と呼ばれ、当初は1日5回跳開していましたが

船舶運航量の減少などの理由から現在は開閉を停止しています。

で。

「国内最大の可動支間を有する技術的完成度の高い構造物」などの評価により

国の重要文化財に指定されたのは・・・平成19(2007)年6月です!!

というわけで、こちらは答えではありません

イ.日本橋

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明治44(1911)年に現在の橋が架けられた日本橋も

トピックに事欠かない場所ですね。

4つの橋詰には広場があり、船着場があり、

観光案内所も出来て・・・と。

ですが、架橋100周年を超えた橋そのものも頻出問題ですし要チェックです。

写真に写っている獅子さんは「東京市の守護」を象徴するものですよね(頻出問題)。

で、日本橋が重要文化財に指定されたのは・・・平成11(1999)年5月!!

というわけで、こちらも答えではないのです

ウ.三井本館

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写真からも見える通り「コリント式(ここ頻出です)」オーダー列柱が

印象に残る三井本館。

昭和4(1929)年に三井の主要各社が入るオフィスビルとして竣工しました。

地下には50トンの重さの円形扉のある大金庫が設置されているそうですよ。

(これも過去出題されてます)

で、三井本館が重要文化財に指定されたのは・・・平成10(1998)年12月!!

なので、これも答えではありません

エ.日本銀行本店本館

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・・・「消去法で、エが答え!」といわずに、ちゃんと確認しましょう。

明治15年に日本銀行が我が国の中央銀行としての業務を始めた際には

永代橋のたもとにあった北海道開拓使東京出張所の建物を利用していました。

そちらの設計はジョサイア・コンドル。鹿鳴館の設計を担当したお雇い外国人です。

(こちらも以前から多く出題されているポイントですね)

しかし、施設が狭く、交通の便も悪かったので

明治29(1896)年、新たに建物を建造して移転することに。

それが江戸時代に「金座」のあった日本橋本石町にある、現在の日本銀行本店本館です。

設計を担当したのは辰野金吾。コンドルのお弟子さんです。

モデルとなったのはベルギーの中央銀行(これも過去出題されてます)。

デザイン様式はバロック様式とルネサンス様式を組み合わせている「ネオ・バロック建築」です。

関東大震災で館内の約半分を焼失しますが3年後に修理が行われ

昭和初期にも増築が行われて現在に至ります。

そして・・・重要文化財に指定されたのは・・・昭和49(1974)年!!!!

意外と他の3つより、だいぶ前の指定ですね。

というわけで、正解は「エ.日本銀行本店本館」でした!!


日本銀行本店本館の真向かいにある「貨幣博物館」もなかなか面白い展示が多いですし

検定の復習がてら、みなさまこのあたりの街歩きをしてみてはいかがでしょうか??

先日先輩特派員の「CAM」さんがかかれていた「江戸桜通り」も

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日本銀行本店本館前からコレド室町の方まで通り抜ける道ですが

こちらも日本橋三越本店の「デパ地下」なども含めて

美味しいものを探しながらのお散歩にも最適ですよ。

もう少ししたら名前の通りに桜並木が美しいので特におすすめです!!

 

 

シドモアが見た中央区(1)鰻は時代と国境を超える

[Hanes] 2019年2月 9日 18:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
あっという間に2019年の最初の月、そして節分が過ぎ、立春となりました。
北陸地方では随分と早い春一番が吹き、中央区にも春の足音が聞こえ始めてきたのではないでしょうか

時代を経るにつれ、先日先輩特派員ジミニ―☆クリケットさんがご紹介していた二十四節気を意識する方は減ってきているのではないかと思いますが、
立春の前の約18日間のことも、「土用」と呼ぶことをご存知でしたでしょうか?
「鰻を食べる土用の丑の日は夏だから、夏のことじゃないの?」と思いがちですが、
実は立春、立夏、立秋、立冬の前、つまり年に4度巡ってくる季節の変わり目ともいえる期間のことを指します
それらの期間には皆さんご存知の通り丑の日があり、鰻、うどん、梅干しのように、
「う」のつくものを食べて栄養を摂り、体調に気をつける風習がありますよね。

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それでもやはり夏のイメージが強い土用、丑の日、「う」のつく食べ物ですが、
今ちょうどインフルエンザが流行しているということで、
体調を崩されている方に少しでも元気になっていただければという意味も込めて、
今回は現代日本人とは異なる視点から見たをテーマにしたいと思います

時は 1885年...銀座に日本初の電気灯が点灯して3年後のこと...
後にワシントンの桜並木を実現した人として知られるアメリカ人女性、エリザ・R・シドモアが日本の土を踏みました。
(名前をクリックすると、ナショナルジオグラフィックのサイトに移動します。)
中央区を訪れた際の見聞を含む『シドモア日本紀行』には鰻料理に関する記述(pp. 129-130)があり、こう書かれています

「見栄っ張りには向かない肩の凝らぬ午餐会といえば鰻料理のパーティーです。日本のホストは、仲間の午餐会同様、外国の友達も楽しませてくれます。エドウィン・アーノルド卿〔英国の詩人〕も、料亭"ゴールデン・コイ"での鰻重のおいしさを褒め称えています。このようなおいしい鰻料理は、ほかの茶屋でも楽しませてくれます。料理屋に入ると、客は全員水槽へ案内され、綺麗な水の中で鰻がのたくるのを確認し、真剣に好みの獲物を指示します。まるで籤引きのように不確定にも見えますが、長い包丁を手にたずさえて見守る板前は客の選定を素早く了解し、のたうつ生け贄をぐっとつかまえ、台所にある首切り台[俎板]へと、かどわかします。」

ここからは、鰻は100年程前もごちそうでしたが、今よりもカジュアルな料理だった様子が見て取れます
そもそもうな丼の前身である「うなぎめし」は、文化期(1804~1818年)頃に中村座の金主大久保今助の工夫により生まれ、
葺屋町大野屋が売り出すと、瞬く間に江戸の人気料理になったと言われています

「鰻料理の午餐会は鰻スープ[肝吸い]から始まり、黒鰻白鰻が交互に出され、要望に従いいくらでも新しく注文ができます。鰻は平らに裂かれ短い断片に切られて、炭火で焼かれます。黒鰻と呼ばれる代物は本来こげちゃ色ですが、焼かれる前に醤油に浸すので、そういう色具合になり、白鰻の方は醤油なしで焼かれたものです。雪のような御飯と食べる鰻丼は、人前に供される最高においしい食べ物です。大勢の外国人、とりわけ真価を認めるかの英国詩人は、この卓越した美味に賛辞を惜しみません。河岸にある茶屋[京橋(中央)区霊岸島の大黒屋]では、鰻料理コースを待つ間、手品師や舞妓による楽しい演出で日本の歓待を最高に盛り上げます。」

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ここからは、当時から肝吸いが提供されていたことや、鰻は海外の方にも人気の料理だったことが分かります。
また、先輩特派員CAMさんが以前ご紹介した霊岸島大黒屋にも言及されています。
(霊岸島は俗称「蒟蒻島」と言うそうです。美味しそうな響きですが、由来が気になる方はCAMさんの記事をご覧ください
残念ながら、この鰻屋さんは今は残っていませんが、当時は海外の方へのおもてなしも素晴らしかったようですね

19世紀初めには土用の丑の日に鰻を食べる習慣が広まったとされていますが、
鰻は日本人のみならず、海外の方も美味しいと思えるものだったようです。
そして時代を経た今、21世紀を生きる私たちにとって、鰻はちょっと贅沢な食べ物として愛されています。
よってタイトルにある通り、「鰻は時代と国境を超える」と言えるのではないでしょうか

中央区内には五代目 野田岩さんのように、江戸時代から続く老舗の鰻屋があります。
夏の土用にはまだまだ早いですが、今のうちからこだわりの鰻屋さんを探してみるのもありではないでしょうか

【参考文献】
エリザ R. シドモア(著)/外崎克久(訳)『シドモア日本紀行』(講談社、2002年).

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