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東京メトロ茅場町駅のほど近く、兜町に隣接する場所に本橋日枝神社はあります。境内は都心にも関わらず広く、思いのほか静かです。
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江戸時代から山王祭の御旅所(お神輿などが休憩する場所)として知られ、今も「神幸祭」では際の祭礼行列の休息所となっています。
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この神社の狛犬は珍しく、上を向いています。
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これは関東大震災の復興と運気上昇を願って奉献されたためだそうです。
「上向き」と運気などが上向くことがかけられているのですね。
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運気上昇!日本橋日枝神社の上向きの狛犬
/ 東京メトロ茅場町駅のほど近く、兜町に隣接する場所に本橋日枝神社はあります。境内は都心にも関わらず広く、思いのほか静かです。 / 江戸時代から山王祭の御旅所(お神輿などが休憩する場所)として知られ、今も「神幸祭」では際の祭礼行列の休息所となっています。 / / この神社の狛犬は珍しく、上を向いています。 / これは関東大震災の復興と運気上昇を願って奉献されたためだそうです。 ・ 春意 浮世絵に見る富士
2月23日、富士山の日。 日本橋の町屋では、できるだけ江戸城と富士山が する賀てふ、駿河町は、通りの真正面に駿河の 富士山と対をなす末広がりの構図を描いた 現在は、日本橋三越本店本館や三井本館など石造り ビルに隠れて富士山は見えませんが、 春には桜の名所としても知られていますね。 ◆錦絵でたのしむ江戸の名所 ◆江戸桜通り サイクリング好き特派員イチオシ!旬のウォーターフロントコース
鐘が奏でる現役時代の物語
◆ 京橋物語5~南伝馬町から京橋へ
京橋物語の5回目。前回からの続きです。
関東大震災の後も大正時代の面影が残った南伝馬町。近代的なビルが立ち並ぶこの街は、銀座の復興していく様子を高い場所から眺め続けていくことになりました。椅子に座れば、とても気持ちが良さそうな眺望です。昭和の時代に入り、銀座通りの街並みも明らかに変わってきています。 通りの左には、松屋の百貨店が既に開業しています。その奥にはうっすらと松坂屋も見え、銀座の街の復興は、この2つの百貨店の先導もあって急ピッチに進んでいるようです。
一方の昭和3(1928)年頃の南伝馬町の風景。通りには、路面電車・乗り合いバスが写り、活況を呈していることが分かります。星製薬のビルは改築が始まり、一番左の片倉館は増築によって大きくなりました。
昭和3年の秋には、昭和天皇の御大典(御大礼)が行われ、京橋に奉祝塔が立てられます。御大典というのは、即位の礼・大嘗祭といった一連の儀式のことです。大正天皇の時には、大正4(1915)年に行われたことは『京橋物語2』でご紹介致しました。 今年2019年はその記念すべき年で、即位の礼が10月22日に行われるのはご存知の通りです。今年の即位の礼は、平成の時と同じように東京で行われますが、この昭和と大正の時には京都御所で行われたそうです。
そして、震災から7年が経過した昭和5(1930)年。震災復興事業に一つの区切りがつけられます。 震災で被害を負っていた星製薬のビルも装いが新しくなり、南伝馬町の街の復興も、これでひとまず終わりとなりました。とはいえ、大正時代の面影を残す南伝馬町の街並み。銀座通りを歩く人たちは一種の懐かしさを感じたのかもしれません。 そして昭和5(1930)年3月下旬、帝都復興祭が開催されます。銀座通りには多くの市民が押し寄せ、復興した喜びを皆で分かち合います。
天を向く京橋の親柱と南伝馬町のビルの塔屋。記念の奉祝塔に、路面電車のダブルポール。その前に立つ群衆が見つめる先は、復興を終えた銀座の街です。 今まで銀座を見守ってきた南伝馬町の街全体が、まるで銀座通りに向って「万歳!」と両手を上げ、復興した銀座の街を祝福しているようです。
もし中央区内で一度だけ、過去にタイムスリップすることができるならば、いつの時代のどこに行ってみたいですか?。私はこの素晴らしい写真の中のどこかを指定して、銀座通りを眺めてみたいです。左上の大同生命ビルのトンガリ屋根が良さそう。
でもやっぱり、右上に写る第一相互館の塔屋から、銀座通りを見下ろすのがいいかもしれないですね。 4丁目交差点に銀座三越も開業したこの年。銀座の街に町名変更がありました。4丁目までだった銀座は8丁目まで拡大、松坂屋銀座店が建つ尾張町の場所は銀座6丁目に変わりました。
そして翌年の昭和6(1931)年。南伝馬町にも同じことが起こります。 橋が江戸以来の擬宝珠をやめたように、南伝馬町と周辺の街も江戸以来の町名をやめることを固く決心します。新たな時代へ向かおうとする意識のあらわれでしょう。選んだ新しい町名は『京橋』。それは、大正時代に形作られたモダンな街とモダンな橋が、名実ともに一体化した瞬間でした。
その翌年の昭和7(1932)年には、銀座4丁目交差点に服部時計店の時計台が建ちました。一方の京橋通りには、左手前に福徳生命ビルが竣工、京橋の街の顔が変わります。 そして、京橋の街であの有名な建物を忘れてはいけません。京橋2丁目の星製薬と千代田館の間、千代田館の隣に建つことになるビルです。昭和初期の段階では、切妻屋根風なバラック、フランス料理店「鴻乃巣」が建っていました。
昭和7(1932)年頃でしょうか。第一相互館から京橋2丁目を見ると、この時点で更地になったことが分かります。
その建物はご存知、明治屋のビルです。昭和8(1933)年、千代田館の隣に竣工しました。下の絵葉書、僅かながら明治屋が写っています。 こうしてみると明治屋のビルは、京橋の街に建てられたビルとしては、後発組だったことが分かります。因みに、この絵葉書に写っている建物で現在も残っているのは、この明治屋のビル、そして同じ年に竣工した、通り右奥に見える日本橋髙島屋だけかと思います。尚、銀座では同じ年に教文館ビルが建ち、現在も残っています。
またこの明治屋のビルは、地階と地下鉄駅を連結させて作られた建物で、建設中には、京橋駅まで地下鉄が走っていました。地下鉄銀座線は、始めから全通したわけではなく、浅草上野間が昭和2年に開通後、少しずつ開通区間を伸ばし、京橋駅までは昭和7年12月、銀座駅までは昭和9年3月に開通しています。 写真提供:中央区立京橋図書館
銀座を中心に百貨店が進出し、地下鉄も開通したこの通りは、新しい客層を呼び寄せ、繁栄を極めます。しかしこの銀座通りの繁栄は、「銀座の復興を見守る」という、これまでの京橋の街の役割が終わったことを意味しました。 この後、戦時色が濃くなり、統制がかかったのか、これ以降の京橋の絵葉書を見つけることができていません。ほぼこの形で太平洋戦争に突入し、終戦となりました。
そして次回が最終回。これまで1~5回目までの長い物語となりましたが、画像のいくつかをクリックすると拡大画像や解説画像が現れるよう施してあります。もう一度振り返った上で、次回の最終回をご覧になっていただければ幸いです。 つづく。
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