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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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歌舞伎座開場 「GINZA花道」世紀のお練り

[kimitaku] 2013年3月28日 15:44

新歌舞伎座開場を記念して、27日午前、中央区銀座中央通りで、中村時蔵さん、市川海老蔵さんら若手の歌舞伎役者60人による、パレード「銀座花道」が行われました。


P1000018-1.jpg「世紀のお練り」と、銘打たれたイベントは、風の吹く小雨のなか、3万2千人の歌舞伎ファンが、集まり声援を送りました。

 銀座一丁目から松屋手前まで、晴天であれば、10時開始11時終了のパレードは、風が舞い、小雨のなか、出発が大幅に遅れ、10時半過ぎのスタートとなりました。警備する警察官のみなさんは、先陣を切り、観客に、傘をたたむように、お願い。みなさんは、一人残らず、傘をたたみ、みなさん、ぬれねずみになり、スタートを固唾を呑んで見守りました。 アナウンサーは徳光さんでした。


 「ドーン」 

 と言う、花火の合図とともに、行列はスタートしました。その瞬間雨は小降りになり、歓声が、スタート地点から、次第に私の待つ、みずほ銀行に押し寄せてきます。

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役者のみなさんは、初めのうちは、下を向き、天を仰ぎ、黙々と歩いていましたが、歓声の高まりとともに、笑顔、、破顔になり、それを見た、観客は、ある女性は涙を流し、老夫婦は、両手を上げ、贔屓の役者に大声をかけていました。

P1000029-1.jpg 行進の速度はすこぶる早く、一丁目からの観客は、それを追いかけようと、二丁目へ押し寄せ、二丁目は一丁目と重なり、三丁目は一、二丁目と重なるありようで、次第に歩道は熱気であふれ、足の踏み場も、ないほどでした。

 P1000030-1.jpg行進の時間は10数分、アット終わりましたが、このパレードを応援したみなさんは、世紀の「お練り」を見られて、応援できて、本当に満足そうでした。


P1000045-1.jpg 新しい歌舞伎座は外観も、漆喰を基調にした当時の風情を保ちつつ、銀座の風情によく溶け込んでいます。

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また、東銀座駅からは、雨の日も傘をささずに入場することができ、お客さんにやさしい作りになっています。

 歌舞伎公演は、いよいよ 4月2日からです。

 

 

 

髙島屋 日本橋店の新しいモノ発見  ①

[shikichan] 2013年3月25日 14:00

1933年(昭和8年)3月20日に日本橋高島屋は竣工し、百貨店初の全館冷暖房換気装置を導入したそうです。

 

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それから80年経ちました。その間、昭和27年、29年、38年、40年と増築を重ね、2009年(平成21年)に百貨店初の国の重要文化財に指定されました。

 

 開店当時の建物をジオラマ作家の山本高樹氏が制作したジオラマです。重厚な西欧の歴史様式に東洋的な要素を 加味した、高橋貞太郎氏の設計した建物です。当時は市電が走っており、今のような赤いテントはありませんでした。

 

 当時は8階建てのこの建物は遠くからもよく見えたのでTAKASHIMAYAの電飾看板は必要なかったのでしょう。

 

歌人の与謝野晶子さんが「 髙島屋  光る都の面積を 加えたるかな 楼を重ねて 」と詠みました。

 

苦労の「労」と楼閣の「楼」をかけて謳ったようです。

 

 

 

 

 

久助、人の名前ではありません!?

[銀造] 2013年3月22日 14:00

「中央区和生菓子組合のご案内図」を持って、それぞれのお店の代表商品を買い求めています。 runそんな時、あるお店で"割れた煎餅」を販売していて、その袋に「久助」と書かれていました。

 へえェ、「割れた煎餅を久助と呼ぶ」のだと知りました。sign03そう言えば、杏葉牡丹さんに、そんな事を教わった事を思い出しました。 辞典で調べると、久は同じ発音のQ → nine を意味し、完璧な10に対して一つ足りないことから、こう呼ぶこととなり、主にお煎餅の業界で使われる業界言葉だそうです。 洒落ていますね!flair 

いつも出かける時に持参している「中央区和生菓子組合のご案内図」、とても役に立ちます。加盟店は38店あり、今のところ、20店を訪問し、そのレシートを地図に貼り、スタンプ・カード代わりにしています。 とても楽しいです。 happy01 皆さんも、ご一緒に如何でしょうか?なお、中央区和生菓子組合のご案内図は、加盟各店の店頭で頂けます。 詳しくは、「NPO法人中央ネット」さんの、こちらのご案内をご参考にして下さい。 http://www.tokyochuo.net/sightseeing/wagashi/index.html

 

 

中央区で八幡宮を祀る唯一の神社→銀杏稲荷神社

[古参人] 2013年3月22日 09:00

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私の事務所のすぐ近くに6本の銀杏の木に囲まれた、

中央区では唯一の八幡宮を祀る銀杏稲荷神社がある。

 

興味があり、ちょっと調べたところ以下のようなことを知ることができた。


歴史:創建は不祥、大正12年(1923年)の関東大震災で社殿が消失した。
    御祭神を社殿にお祀りしたのは、安政4年(1775年)で、当時境内には、天空を覆う、

    うっそうとそびえたつ大銀杏があり、その樹齢は3~400年と見られていたことから、

    神社の創建はそれ以前と考えられます。

    八幡宮を祀る神社は、中央区ではこの銀杏稲荷神社が唯一の存在である。

    明治になって、文豪谷崎潤一郎は銀杏八幡神社のお神楽が月に一度の楽しみだった

    と「幼少の時代」で書いている。

 

御利益:銀杏稲荷神社は商売繁盛の神様として、近くの兜町の証券会社より

     感謝されてきました。

     また他県の会社より、寄付の申込みもあるとにことです。

     また住民氏子からは、家系繁盛と長寿の神様として信仰されています。

     近くに住む女性が若い時から百歳まで毎日お参りをしたので、健康で百三歳で

     長寿を全うした実話があります。

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<銀杏稲荷神社>


中央区蛎殻町1丁目7-7


地下鉄半蔵門線 水天宮前 出口8番より徒歩3分


 

 

80th Anniversary を迎えた「高島屋東京店」 

[滅紫] 2013年3月21日 14:00

昨年末にナガーいスキンケアを終えた高島屋日本橋店が3月20日、80歳の誕生日を迎えました。念の入ったお手入れの効果抜群で、80歳にしてこのお肌!ちょっと羨ましい限りです。

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京都創業の高島屋さんが東京に現在の店舗を新築したのは昭和8年(1933)。地下2階、地上8階建てで全館冷暖房完備。当時のコピー「東京で暑いところ、高島屋を出たところ」というのは有名ですね。その後、村野藤吾氏による増築も行われ平成21年(2009)百貨店建築としては初めて重文指定となりました。


開店80周年企画として3月20日から4月2日まで様々なイベントが予定されています。オープニングを飾る今日の「中央区城東小学校児童によるミニコンサート」は見逃してしまいましたが、22日には市川染五郎さんのトークショー、各フロアではアニバーサリーパックの名で800円、8000円均一のお買い得商品PAKが目白押し。

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上記左は開店当時のお店を再現したミニチュア。隣は開店以来のお店の歴史をパネルにしたものです。

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高島屋さん名物のマスコット、「ローズちゃん」人形がフロアのそこここでそれぞれ違った着物姿でちょっと恥ずかしげにしているのも見ることができます。

今年のさくらは気が早いのか日本橋さくら通りも花はもう3分咲き。

お花見を兼ねて日本橋にお出かけになりませんか?


 

 

文豪と丸善(その二)  夏目漱石と万年筆

[与太朗] 2013年3月14日 09:00

IMG_0685.JPG 「丸善 世界の万年筆展 展示即売会」 先日、日本橋の丸善に通りかかるとこんな案内が目に留まりました。丸善は維新の日本に洋書だけでなく、西欧の文具を招き入れたパイオニアだったのですね。万年筆については百科事典にも「日本では1895年(明治28年)に東京の丸善(株)が少量だがウォーターマンのものを店頭で発売したのが最初で、本格的な輸入は1902年(明治35年)以降のことである。」(日本大百科全書(小学館))とあります。


 その後、万年筆は急速に普及し、丸善が1912年(明治45年)に発行した「萬年筆の印象と図解カタログ」という小冊子には、著名人多数が文章、スケッチ(万年筆で描いたもの)などを寄せています。その巻頭を飾るのが夏目漱石(1867-1916)の『余と萬年筆』です。


 この文章で漱石は、万年筆を使い出して間が無く、親しみが薄いと言っています。十二年前の英国留学の際、親戚(鏡子夫人の妹時子さんのこと)から餞別としてもらった万年筆は、船中で「器械体操のまね」(鉄棒)をして壊してしまいました。三、四年前、丸善で「ペリカン」を二本買いますが、「不幸にして余のペリカンに対する感想は甚だ宜しくなかった」ようで元のペン書きに戻りますが、インク壷にペンを浸す煩わしさから「離別した妻君を後から懐かしく思う」ような感がしたと言っています。そして「この原稿は魯庵君(当時丸善の顧問をしていた内田魯庵(1868-1929)のこと)が使って見ろといってわざわざ贈って呉れたオノトで書いたのであるが、大変心持よくすらすら書けて愉快であった」と書いています。この冊子には漱石が「オノトG」で書いたこの文章の原稿の写真も掲載されています。


 万年筆のPR冊子に載せるにしてはいささか宣伝臭が無さ過ぎる文章ですが、魯庵の書いたものを読むと、「夏目さんは頼まれごとをよく快諾する人だった。私は万年筆のことを書いて下さいと頼んだが、別に嫌な顔はされなかったが、「僕は困る」といわれた。そこで、いえ、悪くさえ言わねばいいから、重宝なものだくらいに書いて下さいと頼んだ」とあります。また、のちに新聞に掲載された漱石の談話には「今用いているのは二代目のでオノトである。別にこれがいいと思って使っているのでも何でも無い、丸善の内田魯庵君に貰ったから、使っているまでである」と正直?な感想を述べています。便利さは買っても、それほどの思い入れはなかったのでしょう。なお、魯庵によれば、漱石は硝子のインキスタンドが大嫌い、またインキはブルーブラックが大嫌いで、セピア色を好んだそうです。 


 漱石入社当時の朝日新聞社は、石川啄木(1886-1912)の歌で知られるように京橋区瀧山町(現銀座六丁目)にありました。漱石同様、主筆の池辺三山(1864-1912)の招きで朝日に入った杉村楚人冠(1872-1945)によると、漱石は出社することは少なかったが、水曜日に開かれる編集会議に出てくると、口数少なく、にこにこ笑いながら人の言うことを聞いていたが、口を開けば思いがけない警句をすまして言うのでその度毎に皆は笑い、賑やかになったそうです。こんなときの漱石の手にはオノトの万年筆があったのでしょうか。


 漱石も愛用?したオノトは高級万年筆として一世を風靡しますが、戦後、製造元の英国デ・ラ・ルー社は万年筆の製造を止めてしまいます。現在は丸善がオノトの名を冠した「復刻版」の高級万年筆を販売しているそうです。日本橋丸善では万年筆売り場は地下一階。超高級品から普及品まで見事に並べられた売り場を見て回るうちに、もう長い間万年筆に縁が無くなっていた自分に気づくと同時に、五十数年前のこどもの頃、今は亡き両親に初めて万年筆を買ってもらったときの感激がよみがえってきました。