今回の企画も昔中央区に実在した河川跡を歩いてみようというものです。
楓川は徳川家康が江戸入りした天正18(1590)年当時の海岸線であったと言われています。
その後、江戸城築城のための建設残土等を楓川の沖合に埋め立て八丁堀地区を造成したのです。楓川は昭和35年に埋め立てられ現在では首都高速道路に生まれ変わっています。
楓川には日本橋川から兜橋 海運橋 千代田橋 新場橋 久安橋 宝橋 松幡橋 弾正橋が架かっていました。残念ながら兜橋と開運橋は廃止となりましたが、他の橋は現存しているので比較的に馴染みやすい河川跡と言えるのではないでしょうか?
日本橋川の分流点(兜橋跡)付近からスタートして桜川・京橋川合流地点前の弾正橋を目指します。
楓川右岸には兜神社があります。社の上には江戸橋ジャンクションとなってました。
有名な兜岩も写真に収めておきました。かつてこの兜神社の右隣には渋沢栄一邸がありました。この付近には、東京証券取引所、郵便発祥の地(日本橋郵便局)などがあり見所ころ満載の地区でした。
そろそろ下流方面へ、江戸・もみじ通りを進もうかと思い何気なく道路標識を写真に撮った時にその背景に入ってきたビルに見覚えがあることに気付き、ビル名をチェックしてみると「日本橋ダイヤビルディング」となっているのにびっくりした。東京都歴史的建造物に指定されている「日本橋ダイヤビルディング」(旧三菱倉庫江戸橋倉庫ビル)だった。考えてみれば江戸橋は目と鼻の先であり当たり前と言えば当たり前なのですが、私的には位置関係がはっきりしたよい発見でありました。
それでは、江戸・もみじ通りを海運橋方面へ進みましょう。
海運橋には親柱2本と説明板が立ってました。
「紀元二千五百三十五年六月造」文字が確認できます。
また、海運橋の先には、銀行発祥の地(みずほ銀行兜町支店)があります。
みずほ銀行の壁面には「兜町歴史地図」なるものがあり、近隣ガイドになっていました。
そして、永代通りと交差するのは千代田橋です。昭和3年に新たに仮設された千代田橋は側面から見ると橋台、桁が現存しているのが確認できます。親柱、袖柱、袖高欄が残っています。
"ぷぉーん ぷぉーん ぷぉーん"
楓川左岸を下流に進もうした時、雅楽の独特の音色が耳に入ってきたのです。
なんだー?今日は2月22日初午祭か?いや今年の初午は2月2日だし・・・
大原稲荷神社では初午祭が執り行われていました。旧暦で二午が2月22日となりますが、どうして2月22日なのかは、よくわかりませんでしたが神官による祝詞の奏上などをみて、江戸時代よりこの楓川近隣の町内の安全、家業隆盛などを祈願してきたんだなと思いました。こんな古き良き慣習、しきたりを次世代に、いや未来永劫、大切に伝えていきたいものだなと感じました。
中央警察署を左手に楓川跡を下流に進みます。この中央警察署の片隅に「東京都立紅葉川高等学校 跡地」説明石碑があります。日本橋消防署、坂本町公園、坂本小学校を左手に楓川跡を下流に進みます。
次の新場橋は工事中で車両通行止めとなってましたが、人は歩道部分を自由に往来できます。この河岸に新しい魚市場が設立され、新肴場から新場となったそうです。
そして、八重洲通りと交差するのは、久安橋です。もともと松平越中守邸宅の前に位置していたため、それにちなんで越中橋とも呼ばれいたそうです。明治維新後、東京府によって久安橋と改められました。橋詰広場は楓川久安橋公園として整備されています。近隣サラリーマンらしき人達が休憩したり、喫煙スペースにて一服している光景が目に入ってきます。
次の橋は宝橋です。宝橋上流右岸には、宝地蔵尊があります。この地蔵尊は戦後楓川に落ちて亡くなった児童の供養のために立てられたとのことです。橋名の由来は「京橋区宝町」からきています。
そして松幡橋です。宝橋、松幡橋、弾正橋は上も下も高速道路が走ってます。
松幡橋は、なんか圧迫感がありますよね。それから橋名の由来ですが、高代町(八丁堀側)と本木材町(京橋川)へ架かる橋でしたが隣町の松屋町(八丁堀側)と隣町の因幡町(京橋川)から一文字ずつ取って松幡橋としたそうです。古くは松屋橋とも言われてました。
そして、この街歩き終点弾正橋を目指します。左の写真は松幡橋から弾正橋を撮った写真です。鍜治橋通りと交差するのが弾正橋です。弾正橋の橋詰広場も楓川弾正橋公園として整備されていました。
現在の弾正橋は元の弾正橋より、やや上流に大正15年に架橋されました。そのため、暫くの間弾正橋が2つ実在し、この橋に対して下流の橋を元弾正橋と呼びました。
なんと、そこに元弾正橋のミニチュアのレプリカが展示してありました。
弾正橋は過去に何回も来てましたが、お恥ずかしことにこのレプリカの存在を今日まで知りませんでした。菊の御紋までも忠実に再現されていました。
こんなことでは、いけない・・・
それでは、やはり本物を見に行こうと思い江東区まで遠征することにしました。
江東区の富岡八幡宮の裏手にあり、公園として整備されていました。
元弾正橋は日本最古の鉄を主材料とした鉄橋であり、国の重要文化財にも、指定されています。現在の橋名を八幡橋と言います。
天気も良かったのですが、見学しているのは私一人だけでした。
今回の街歩きを一言で言うと江戸時代、楓川は日本橋川と桜川・京橋川を結ぶ物流の要として発達し、河川の周りには人々が住み町ができて、商家、神社ができ発展し、明治時代になっても、銀行、郵便局などがいち早く建ち、経済の中心地区であったが、戦後の自動車の発達によりやがて水路も高速道路建設のため姿を消してしまったということであろうか。そんな現代でも、古き良き慣習を再発見できたのはとてもよかった。
それでは、最後に新場橋から撮った写真でこの街歩きを終了することにします。
左:楓川の護岸跡らしき石積
右:新場橋から見た日本橋ダイヤビルディング