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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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信州感動健康料理 提案発表会

[サム] 2019年2月11日 09:00

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 「健康長寿県 長野」の「食」にスポットをあて、信州らしい新たなメニュー提案やお客様に感動していただけるような演出方法等を学ぶ「信州感動健康料理」アカデミー。

2月8日、アンジェロコート東京(八重洲1)にて、このアカデミーの受講者と、郷土料理家横山タカ子さん、職人館館主北沢正和さん、さらに長野県調理師会会長の湯本忠仁さん(何れも、長野県おいしい信州ふーど公使)が提案するメニューを試食するイベント「信州感動料理提案発表会」が開かれました。

18:30~20:30

長野県農産物や伝統食材・料理を用いながらも新たな長野県の名物となるように考案された新メニュー。

長野県産ワイン、日本酒と共に味わう、発酵食品や保存食などを含む「定番」と「多様性」を組み合わせ、美味しさ、心地よさ、驚きを追求した信州の「食」です。

 

 

◆ 京橋物語3~大正建築ロマン

[隅田の花火] 2019年2月10日 18:00

京橋物語の3回目。前回からの続きです。

前回まで→ 【京橋物語①】 【京橋物語②】

 

現在の中央通りと鍛冶橋通りが交わる京橋交差点に、大正時代の中期、円形ドームの塔屋のある建物が出現しました。今回はこの建物からお話を始めることに致します。

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これは、あの東京駅の駅舎や日本銀行本店で有名な、辰野金吾が設計した建築です。第一生命保険所有の建物で、名前は『第一相互館』。建設工事が始まったのは、東京駅が完成した翌年の、大正4(1915)年のことでした。

 

その当時、この辺りにあった高層のビルは、日本橋の三越本館、銀座の大倉組本館などの5階建てでした。第一相互館が完成すれば、それを上回る7階建て、屋上の塔屋まで45mの高さを誇る大建築となります。

 

当時は第一次世界大戦がもたらした好況時代であったものの、インフレによる建築材料不足が原因でなかなか工事が進まず、鉄骨が組みあがるのに2年もかかってしまいました。ご覧のように、異様な高さを誇る鉄骨状態の第一相互館がそびえていますが、度々工事が中断してしまったことで、お化け屋敷と呼ばれたこともあったようです。

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そんな中、辰野金吾が完成を待たずに急逝してしまいます。大正8(1919)年3月、今からちょうど100年前のことでした。その後の不況もあり、建設作業は困難を極めます。

 

第一相互館が建築中のさなか、その100年前の5月には京橋に奉祝塔が立っていました。三大祝典と称されたこの祝典。東宮殿下御成年式、市制三十年、奠都五十年の3つが重なったお祝いです。東宮殿下とは、後の昭和天皇のことで、この時に18歳を迎えられています。

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通りの右側には建築中の第一相互館が写っていますが、通りの左側では、大同生命ビルの向こうで何やらビルの工事が始まっています。元々4階建てだったビルを7階建てに改築している最中で、この年に完成したようです。

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このビルは、新興製薬会社の『星製薬』本社の建物で、創業者の星一(ほしはじめ)が建てました。星一は、アメリカに留学したあとこの会社を興し、特約店の方式を初めて取り入れるなどの経営手腕を発揮、この会社を東洋一とまで呼ばれる製薬会社に押し上げた人物です。

 

星一の息子は、SF作家として知られる星新一ですが、その後の星製薬の運命は、彼が書いた悲しい物語から伺い知ることができます。

s_hanabi_70-5.jpg建築中の第一相互館の斜め向かいに建てられたこの建物。銀座側から見ると正方形に近い窓の形が特徴で、この後も絵葉書の風景に度々登場してきます。屋上には「クスリはホシ」という看板が赤い文字で光っていました。

 

そんな星製薬のビルの完成を横目で見届けたあと、いよいよ辰野金吾の遺作・第一相互館は完成します。妥協を許さない施工を守り通し、予定より3年遅れ、工費は予算の倍、苦難の末の完成でした。大正10(1921)年3月のことです。

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辰野金吾建築の特徴でもある、古典的赤レンガスタイルが随所に生かされた建築でしたが、最大の特徴は何と言っても45mという建物の高さです。その塔屋からは、現在の中央区全域を見渡せていたはずです。

 

この写真は大正10(1921年)、第一相互館から見た銀座の方向です。

s_hanabi_70-7.jpg写真提供:中央区立京橋図書館

 

ご覧のように、銀座通りは京橋の所でカーブしているので、第一相互館の屋上は、銀座通りを真ん中から見下ろせる絶好のロケーションとなりました。この頃の銀座に見える背の高い建物は、通りの右側の大倉組本館だけであることがわかります。当時の銀座は、カフェーが隆盛を誇っていた時代でした。

 

一方の日本橋方面の眺め。同じく大正10(1921)年頃でしょう。こちらも大きなビルはあまり建っていないようです。

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左下には、田村の帽子店が見えています。以前に特派員のyazさんがレポートされた、レストランの鴻乃巣の場所はこの付近と思われます。当時の様子もよくわかりますので、是非こちらをご覧になってください。

★特派員yazさんの記事 → こちら

 

そして下の絵葉書、おそらく翌年大正11(1922)年の、銀座側から見た南伝馬町の風景です。

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南伝馬町が大都会の風景に変貌しています。その中でもモコモコモコッと短期間に現れた「3つのドーム屋根」は、銀座から見て、南伝馬町のシンボル的建物に見えたに違いありません。いつの間にか、大同生命ビル手前には『三十四銀行』の四角いビルが建ち、そして星製薬のビルの向こうにも新たなビルが建築中です。

 

手前をよく見ると、道路工事をしている様子も伺えます。南伝馬町は大正時代に入り、建築の分野で大変貌をとげましたが、それが土木の分野も呼応したのです。これはおそらく、京橋の架け替えに関わる工事と思われます。

 

京橋は、この大正11(1922)年に橋を拡幅、今までの江戸の伝統的な擬宝珠のついた親柱をやめることを決断します。そしてモダンなデザインの親柱を持つことにしました。南伝馬町の街並みにマッチした、近代的なデザインになりたかったのでしょう。この親柱は現在も1基、京橋跡の現地に残されていますので、ご存知の方もいらっしゃると思います。 

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こうやって見ると、この親柱のデザインは「3つのドーム屋根」が作り出す都市景観と調和し、銀座側から親柱越しに望む南伝馬町はまるで、上へ上へと伸びる、天に向かう街のように見えてしまいます。

 

周りにもビルが増えました。絵葉書の左上のビルは大正11(1922)年の竣工の『片倉館(片倉生命ビル)』。場所は現在の東京スクエアガーデンの鍛冶橋通り沿いで、数年前まで片倉工業ビルとしてこの地にありました。

一方、通り左側の一番奥に建てているのは、『千代田館(千代田生命ビル)』。翌年大正12(1923)年の竣工で、現在の京橋トラストタワーが建つ場所です。

 

このように大正時代は、第一次大戦による好景気の中で生命保険や金融会社が隆盛を誇り、南伝馬町には銀座に先んじて多くの高層のビルが建てられていきました。現在の我々から見れば、この頃に作られた南伝馬町の街並みは、大正ロマン全開といったところですが、当時の人々には、東京の代表的な都会の街並みとして知れ渡ったようです。

 

しかしこのあと、東京、そして南伝馬町は、あの日の出来事に襲われることになるのです。

つづく。

 

 

 

特派員のひとり反省会 その1~第11回中央区観光検定より~

[えだまめ] 2019年2月10日 12:00

子連れ特派員のえだまめです

去る2月3日(日)、第11回中央区観光検定が実施されました。

申し込んではいたものの、極端な準備不足だという自覚もありまして、

「もう受けるのやめた方がいいのでは?」

という悪魔のささやきが聞こえた気もしましたが

「参加することに意義がある!」と自分を奮い立たせ、前日に過去問を猛烈に解きなおしチャレンジしてきたのでした。

そして、終わった今。

「終わったから、まあいいか」で済ませてしまうとよくない気がして。

迷った問題、間違えた問題の中から気になったものを

いくつか重点的に確認しておきたいと思いました。

というわけで、「えだまめのひとり反省会」シリーズ、しばしお付き合いください。


まずは今年度のテーマ問題「平成の中央区」よりの出題です。

問5 中央区にある次の建造物のうち、国の重要文化財に指定されたのが

   平成ではないものは次のうちどれでしょう。

ア.勝鬨橋  イ.日本橋  ウ.三井本館  エ.日本銀行本店本館


・・・正直、そんな切り口もあったか・・・!と面食らった問題でした(大汗)。

確かに近代の建造物の歴史的価値が認められてきたのはここ最近の話のように思いますし

こうしてみると、どれもこれも平成に認定されたものっぽい印象です(滝のような汗)。

というわけで、本番ではまんまと外してしまったわけですが。

ちゃんと確かめてみます。


ア.勝鬨橋

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こちらの勝鬨橋、検定にもよく出てきますね。

「東洋一の可動橋」と呼ばれ、当初は1日5回跳開していましたが

船舶運航量の減少などの理由から現在は開閉を停止しています。

で。

「国内最大の可動支間を有する技術的完成度の高い構造物」などの評価により

国の重要文化財に指定されたのは・・・平成19(2007)年6月です!!

というわけで、こちらは答えではありません

イ.日本橋

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明治44(1911)年に現在の橋が架けられた日本橋も

トピックに事欠かない場所ですね。

4つの橋詰には広場があり、船着場があり、

観光案内所も出来て・・・と。

ですが、架橋100周年を超えた橋そのものも頻出問題ですし要チェックです。

写真に写っている獅子さんは「東京市の守護」を象徴するものですよね(頻出問題)。

で、日本橋が重要文化財に指定されたのは・・・平成11(1999)年5月!!

というわけで、こちらも答えではないのです

ウ.三井本館

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写真からも見える通り「コリント式(ここ頻出です)」オーダー列柱が

印象に残る三井本館。

昭和4(1929)年に三井の主要各社が入るオフィスビルとして竣工しました。

地下には50トンの重さの円形扉のある大金庫が設置されているそうですよ。

(これも過去出題されてます)

で、三井本館が重要文化財に指定されたのは・・・平成10(1998)年12月!!

なので、これも答えではありません

エ.日本銀行本店本館

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・・・「消去法で、エが答え!」といわずに、ちゃんと確認しましょう。

明治15年に日本銀行が我が国の中央銀行としての業務を始めた際には

永代橋のたもとにあった北海道開拓使東京出張所の建物を利用していました。

そちらの設計はジョサイア・コンドル。鹿鳴館の設計を担当したお雇い外国人です。

(こちらも以前から多く出題されているポイントですね)

しかし、施設が狭く、交通の便も悪かったので

明治29(1896)年、新たに建物を建造して移転することに。

それが江戸時代に「金座」のあった日本橋本石町にある、現在の日本銀行本店本館です。

設計を担当したのは辰野金吾。コンドルのお弟子さんです。

モデルとなったのはベルギーの中央銀行(これも過去出題されてます)。

デザイン様式はバロック様式とルネサンス様式を組み合わせている「ネオ・バロック建築」です。

関東大震災で館内の約半分を焼失しますが3年後に修理が行われ

昭和初期にも増築が行われて現在に至ります。

そして・・・重要文化財に指定されたのは・・・昭和49(1974)年!!!!

意外と他の3つより、だいぶ前の指定ですね。

というわけで、正解は「エ.日本銀行本店本館」でした!!


日本銀行本店本館の真向かいにある「貨幣博物館」もなかなか面白い展示が多いですし

検定の復習がてら、みなさまこのあたりの街歩きをしてみてはいかがでしょうか??

先日先輩特派員の「CAM」さんがかかれていた「江戸桜通り」も

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日本銀行本店本館前からコレド室町の方まで通り抜ける道ですが

こちらも日本橋三越本店の「デパ地下」なども含めて

美味しいものを探しながらのお散歩にも最適ですよ。

もう少ししたら名前の通りに桜並木が美しいので特におすすめです!!

 

 

「KINOKUNIYA entree(紀ノ国屋アントレ)日本橋髙島屋店S.C.

[銀造] 2019年2月 8日 18:00

紀ノ国屋は2018年9月25日、日本橋高島屋S.C.新館1階に「KINOKUNIYA entree(紀ノ国屋アントレ)日本橋髙島屋店S.C.」をオープンしています。

店名の「entree (アントレ)」はフランス語で入り口という意味で、紀ノ国屋のこだわりやクオリティを気軽に味わえるよう、たくさんの顧客を迎える「入り口」という気持を込めて名付けられました。

1月、2月と連続して、同店でお買い物、イートインスペースで軽食を頂きました。

1月は独りで訪れ、2月は友人に紹介しました。

1月は、ポンデケージョを購入して、コーヒーを

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ポンデケージョを購入して、コーヒーを

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2月は、

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 お気軽に、お一人で、さあっと軽食を楽しむ時に、お勧めします。

席の数に限りがありますので、混んでいる時には、別のカフェもお楽しみ下さい。

 

 

◆ 京橋物語2~明治の凱旋門

[隅田の花火] 2019年2月 6日 18:00

京橋物語。前回からの続きです(前回はこちら→【京橋物語①】)。

  

銀座から見た京橋の街です。この2つの街の境にはかつて京橋川が流れ、その上に京橋が架かっていました。明治・大正時代に架けられた橋の親柱が史跡として残されていますが、現在の街並みからその時代を想像するのは、もはや難しい状況となっています。

s_hanabi_69-1.jpgですが、銀座から望む京橋の街は、かつては絵になる風景として知れ渡っていました。どんな街だったのか。どのように街並みが作られていったのか。絵葉書を使い、何回かに分けてご紹介していきたいと思います。

 

一枚の写真からお話を始めることに致します。

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写真提供:中央区立京橋図書館

京橋川に架かる『京橋』を銀座側から見ています。時は明治28(1895)年、京橋の街通りは『南伝馬町』という町名で、橋の南伝馬町側には一時的に巨大な門が立っていました。これは日清戦争の時に建てられた凱旋門。出征した兵士を出迎えるため、全国各地にいろいろな形をした凱旋門が建てられたのだそうです。

一方の『京橋』。創架は江戸時代初期と言われますが、この時代の橋は明治8(1875)年、九州肥後の名石工・橋本勘五郎によって、木製から石造りに架け替えられたものです。見事なアーチを描くこの橋の親柱は、京橋の伝統的な擬宝珠の意匠を持っていました。

 

京橋はその後、明治34(1901)年に鉄橋に架け替わります。親柱や欄干は先代の石橋のものが転用されたと言われ、アーチの側面には中の構造が見えないように覆いが被さり、模様が施されていました。

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左の和風の門は明治38(1905)年頃、日露戦争の時に建てられた京橋凱旋門。凱旋門のある方が銀座側です。橋の上には路面電車が走り、京橋川には米俵を運ぶ小舟が浮かんでいます。

 

これは絵葉書です。絵葉書は明治33(1900)年に私製のものが許可されると、その後の日露戦争の戦勝ムードに乗って、大流行しました。この頃はまだラジオが無い時代で、各地に情報を伝える手段として絵葉書は重要な役割を果たしたのです。そしてその情報は、20世紀初期の貴重な史料という形で、時を隔てた現在にも届けられているというわけです。

 

銀座通りの絵葉書には、よく路面電車が写っています。京橋を鉄製に架け替えた後に、路面電車が通り始めたのが明治36(1903)年ですので、絵葉書は鉄製の京橋、そして銀座通りの路面電車の歴史と同じような時期に始まりました。

 

こちらは、南伝馬町から凱旋門の中の銀座通りを眺めたもの。万国旗がたなびく中、花電車が走り、橋の上には民衆が押し寄せています。歴史の教科書では学べない、当時の空気感が味わえるのも絵葉書の魅力です。

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絵葉書の魅力はまだあります。たまに、面白い物が写っていることです。こちらは、銀座から南伝馬町を眺めた絵葉書。右端にガス灯のようなものが写り、左下には電話ボックスが写っています。

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電話ボックスについては、以前に特派員のHanesさんがレポートされた記事で初めて知りました。是非こちらをご覧になってください。

    京橋にあった!日本初の街頭公衆電話 →こちら

 

因みにこの絵葉書は「手彩色絵葉書」と呼ばれるもので、一枚一枚に彩色師が色をつけたもの。その人の好みの色で塗られていることがあるので、本当の色であったかどうかはわかりません。

 

電話ボックスの右上の遠くに目を凝らすと、時計台が写っているのがわかります。これは南伝馬町の小林時計店。小林時計店は、八官町(今の銀座八丁目)に建てた大時計台が有名で、この南伝馬町の支店にも時計台を建てていました。あの服部時計店の創業者・服部金太郎は、この小林時計店の繁盛ぶりを見て、時計商になろうと決意したのだそうです。

 

下の絵葉書はおそらく明治末期の南伝馬町の風景。橋の向こう側には南伝馬町のビアホールがあり、一番右には「きやうはし」と書かれた京橋の親柱、そしてガス灯のようなものが写っています。

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現在の京橋跡には、「きやうはし」と「京橋」と彫られた2基の親柱が残されていますが、当時、実際に設置されていた場所はご覧のように、「きやうはし」は銀座側から見て手前右側、「京橋」は南伝馬町側から見て手前右側でした。

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因みに、もう2つあるはずの親柱について、過去の写真を調べてみたところ、1つは明治34年の架橋年月、もう1つは何か文字が彫られているようですが、解読できませんでした。

 

このあと、『大正』の時代に入っていきます。大正2・3(1913・4)年の頃と思われるこの写真。南伝馬町から銀座方面を写したものです。右側の建物は日就社。現在の読売新聞社がここにありました。

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日就社は、明治末期に時計台を立てていたものの、数年で取り外してしまいました。銀座の街は明治時代、新聞社が多数集まっていた場所で、情報の集積地でもあったのです。

 

一方の南伝馬町側には大正3(1914)年、日就社の橋の対角線上に『豊国銀行京橋支店』のビルが出来上がります。現在のLIXILの入るビルが建っている辺りです。

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絵葉書のデザインは、おそらく円形ドームの塔屋から見えた景色でしょう。大正時代に入ってこのビルができて以降、南伝馬町の街は急激なスピードで花開くことになるのです。

 

翌年の大正4(1915)年の京橋ですが、南伝馬町側に奉祝門、銀座側には奉祝塔が立っています。京橋をはじめとする主要な橋には、何か大きなお祝い事があると、こういうものが建てられました。

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これは11月に大正天皇の御大典(即位の礼と大嘗祭)が行われた時の絵葉書。スタンプに描かれているのは、皇位継承時の即位の礼で用いられる、八角形の高御座(たかみくら)です。現在の高御座はこの大正天皇の時に再現されたものだそうで、今年もこれが使われます。

 

違う角度から南伝馬町を見てみると、通りの右側に豊国銀行が写り、その向かいには新たな建物の建設が始まっています。

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これは、翌年の大正5(1916)年に竣工した大同生命保険東京支店の建物。『大同生命ビル』と呼ばれ、豊国銀行と同じような円形のドーム屋根を持っていました。このあと大正ロマンの雰囲気を醸し出す、南伝馬町の顔となる建物になっていきます。現在の場所で言うと、東京スクエアガーデンの地階にある、中央エフエムの上辺りです。

s_hanabi_69-12.jpg写真提供:中央区立京橋図書館

大正5(1916)年頃でしょうか。この大同生命ビルから眺めた橋、そして銀座の街並みです。

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背の高いビルが建ち始めた南伝馬町。銀座の街を高い場所から俯瞰できるようになり、これからこういう写真が現れるようになってきます。大正時代の南伝馬町はこうやって開幕したのでした。

つづく。

 

 

 

春近し!サークル発表会〔区立社会教育会館〕

[ジミニー☆クリケット] 2019年2月 6日 11:00

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立春もすぎ、区の掲示板に、恒例の「サークル発表会」の掲示が見られる季節になりました

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この発表会は、各社会教育会館を利用して活動されているサークルの皆さんが、日頃の成果を披露する場です

築地社会教育会館で言えば、バンド演奏コーラス社交ダンス太極拳ウクレレ詩吟日本舞踊琉球三線等、極めて多彩で、盛りだくさんの内容です

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日本橋社会教育会館サークル発表会は、2月9日)、10日)。

築地社会教育会館サークル発表会は、2月23日)。

会場は、いずれも日本橋社会教育会館8階ホール(中央区日本橋人形町1-1-17)です。

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月島社会教育会館サークル発表会は、3月16日)、17日)。

会場は、月島社会教育会館4階ホール(中央区月島4-1-1)です。

開催時間等の詳細は、下のHPをご参照ください

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すべて入場無料です

サークルに所属する皆さんの日頃の活動の成果を見て楽しんでいただくのもいいでしょうし、今年のから何か始めようと考えておられる方が、その活動を始めるきっかけにしていただくのもよいかと思います

是非、ご来館ください

3月下旬には、各社会教育会館で、「サークル体験ウィーク」もありますよ

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なお、築地社会教育会館内での写真撮影については、ご了解をいただきました。

区立社会教育会館のHPはこちら ⇒

https://chuo-shakyo.shopro.co.jp/news/2019-01-14/post_4164.php

昨年1月、サークル発表会を紹介したブログ記事はこちら ⇒

/archive/2018/01/post-4909.html