[ukiuki]
2011年5月27日 14:30
5月20(金)~22日(日)に晴海トリトンスクエアで開催された
晴っ呼(はるっこ)まつりに行ってきました。
第10回を数えるこのおまつり、
内容は縁日・屋台、キャラクターショーと区民によるステージ、
リサイクルマーケット、ワークショップと盛りだくさんです。
「うまいもんブース」には能登の焼きカキ、北海さざえ煮、
広島焼き、中華点心等など。
11時の開催直後ですが、沖縄オムソバには行列が。
山田牧場 肉の串焼き(特大!)を食べつつ
一杯飲んでるお父さんも見かけました。
縁日のコーナーでは、百円を握り締めた子ども達の姿が。
みんな目がキラキラと輝いています。
いつの時代も子ども心をわしづかみにしますね。
特設ステージではこの日スイートプリキュアのショーということで
可愛らしく着飾った女の子の姿を多くみかけました。
風の強い一日でしたが、
家族向けの出し物が数多く、とても楽しめた催しでした。
[坂の上のねこ]
2011年5月26日 16:30
今年の2月末~3月初に、月島図書館で、佃・月島に縁のある文化人たちの資料を展示した「月島図書館所蔵資料展」が開催されました。現在もその一部が図書館内に展示されていますので、本展を見逃した方はぜひいらしてみてください。
銀座を始め、東京の風景スケッチで有名な小川幸治さん(湊生まれ・学生時代に月島の長屋に下宿)の色紙
(左)昭和世代には特になつかしい佃公彦さん(昨年、木挽町病院にて永眠)の色紙
(右)中央区の子供用図書館バッグは佃さんのイラスト入り(大人の私も欲しい!)
(左)南伸坊さんは、著書「ご町内の皆様」に、結婚後月島に住み、その後晴海に移ったことを綴っています
(右)木村荘八さんは日本橋生まれ。海水館に滞在していたこともあるそうです
(左)私は佃に越してきて間もない頃、四方田犬彦さん('88~'94年に月島の長屋に在住)の「月島物語ふたたび」を月島図書館で借りてきて、夢中になって読みました。ちなみにこの色紙には描かれているねずみ男の生みの親、水木しげるさんもかつて月島(現・勝どき5丁目)に住んでいたそうです
(右)月島に住んでいたことがある石田衣良さんの「4TEEN」には、月島に住む14才の少年たちの姿が描かれています(月島図書館でこの作品を読んだときの私は、登場する少年たちの年齢を合計したくらいの年でしたが・・)。
月島の古書店・文雅堂で住み込みで働いていた出久根達郎さんの「佃島ふたり書房」も、私は月島図書館で借りて読みました。
このミニ展示は6月に入ってからもしばらく見られるそうです。正確な展示期間は月島図書館(03-3532-4391)にお問い合わせ下さい。それにしても、私は月島図書館のおかげでこれまでいろいろな佃・月島関係の本を読んできました。いつもお世話になり、ありがとうございます!
[下町トム]
2011年5月24日 08:30
〔晴海〕は今また新たに発展しつつある地域です。
この画像は豊海方面から晴海を望んだところですが、〔晴海トリトンスクエア〕の高層ビル群がよく見えます。これ以外にも、高層マンションなどが新しく増えつつあります。
晴海埠頭へ延びる広い道路は、街路樹が海への憧憬を表現しているかのようです。この奥にはかつて〝国際見本市会場〟があり、時代の最先端を表す実験空間として全国から注目されていたものです。
そもそも、晴海地区では、戦前「国際博覧会」(万国博)の開催が計画されていました。具体的なプランも完成し、一部チケットも売り出されたそうです。さらには、東京市役所(当時)の新庁舎建設計画もあったとのことです。
1940(昭和15)年に予定されていた万博開催計画は、結局戦火が近づく中、中止となりました。
万博会場のメインゲートあたりだったと思われる〔晴海三丁目交差点〕に立って、当時のことを想像してみます。おそらく今〔晴海大橋〕に続く道路のあたりに、中心的なパビリオンが建設予定だったはずです。もし博覧会が開催されていたら、この町はどのように発展したのでしょうか。
〝万博〟は夢に終わりましたが、その時に移動経路として計画された〔勝鬨橋〕は完成し、中央区の名物風景の一つとして親しまれています。中央区がこれからも時代の夢を語る土地であってほしいと願うばかりです。
[滅紫]
2011年5月17日 09:30
雨の午後リバーシティの一角にある当資料館を訪れた。
ここは石川島播磨重工業(IHI)が創業の地であるリバーシティ21内に「造船所の創業から現在までとそれと深い関りを持つ石川島・佃島の歴史や文化を紹介した」資料館である。
展示資料の中に「寄場起立」(神宮文庫所蔵のコピー)があった。ご存知の通り長谷川平蔵が作成した「人足寄場設立の建議書」である。長谷川平蔵は池波正太郎の「鬼平犯科帳」で実在の江戸期の人物としては現代の日本人に最もよく知られている人気キャラクターであるが、彼は資料によれば御先手弓頭として1500石の家督を相続していた天明7年(1787)に火付盗賊改長官を加役される。「鬼平」誕生である。その職務の遂行の過程で軽犯罪人の更生の場の必要性を認識し寛政2年(1790)に上記建議書を提出し、寛政の改革に着手していた老中松平定信が採り上げ改革の目玉となった。建議書採用ー即実行!! で石川島と佃島の間の浅瀬を埋め立て人足寄場を建設。1792年には「人足寄場奉行」まで加役されている。寄場は16,030坪あり、ここに炭団製造場、紙漉き小屋、鍛冶屋小屋などがあり収容者は手に技術をつけて社会復帰した。他の資料によると「犯罪者の更生」という考え方自体が当時としては国際的に見てもとても新しいものであったらしい。平蔵は50歳で病没する(過労死?)直前の1795年まで長官を務めた。死後借金ばかりが残り、売りに出した屋敷は後に町奉行の遠山の金さんが住んだ!! とか。因みに1238坪あった平蔵の屋敷跡は都営新宿線の菊川駅の傍に碑があるそうです。
石川島の歴史は寛永3年(1626)に幕府船手頭石川八左衛門が隅田川河口の無人島を拝領して造成し屋敷地としたことに由来する。古くは鎧島、森島などと呼ばれていたが以後石川島と呼ばれるようになったとのこと。1792年には移転したので石川島全体が人足寄場の敷地となった。(IHI資料)
今、1866年に寄場奉行の清水純畸がつくった石川島灯台を模したモニュメントが跡に立っており、そばに人足寄場跡と記した説明板が立っている。
石川島資料館:中央区佃1-11-8ピアウェストスクエア1F
開館日:水曜・土曜10:00-12:00、13:00^17:00
TEL:5548-2571
[下町トム]
2011年5月11日 23:59
月島駅1番出口を出て晴海運河のほうに少し歩くと、晴海運河の堤防脇に〔海水館〕の記念碑が建っています。
説明版によると、1896(明治29)年に、新佃島が造成された後、明治末から大正にかけてこのあたりに〔海水館〕が建っており、風光明媚なビュースポットとして多くの文人墨客に愛されたということです。島崎藤村や小山内薫、竹久夢路などの有名な文化人も訪れたり創作活動をしたようです。
[ww]
2011年5月10日 09:00
リバーシティの桜の下で、紫ラン(シラン)が静かに春の終りを告げています。
すっかり夏姿の桜の下で、シランは今が花の盛りです。
佃や月島の軒先でも時々見かけますが、ここは群生状態で、赤紫の絨毯のようです。
もうすぐ終ってしまう春を惜しんで、花見にお出かけ下さい。
花越しにスカイツリーも望めます。 (ww)