[shikichan]
2009年9月30日 17:00
(写真上) 1673年 現在の「三越」の開祖 三井八郎右衛門高利「越後屋呉服店」を開く。
1905年(明治38年) デパートメントストア宣言
1914年(大正3年) 本館の正面玄関を守るライオン像を設置
1972年(昭和47年) 正面入口には商業の神マーキュリー像が設置されているが
大正13年に設置された銅像を再現したもの。
(写真中) 1914年(大正3年) 屋上に三圍(みめぐり)神社を遷座。1352~1356年頃、近江
三井寺の僧源慶が東国を巡錫中、隅田川牛島のほとりの弘法大師建立になる
荒れ果てた小堂に立ち寄った際、その床下より現れた壺をあけると、その中より
忽然と白狐が現れ、壺の中の神像の周りを、三度めぐっていずこともなく消え去
ったので、その後この社を「みめぐり」と呼ばれるようになったと伝えられている。
爾来何でも願い事の叶う縁起のよい神として広く庶民より崇められている。
(写真下) 今年でもう13年になる「癒しの園」チェルシーガーデン。
本格的なガーデンスタイルの提案から、初心者でも楽しめる幅ひろい品揃えが魅力。
季節の花々がいつも楽しめる時間を忘れる空間がすばらしい。
[三日月]
2009年9月30日 17:00
日本橋に住むようになってから毎年楽しみにしているイベントは、8月のせともの市・10月のべったら市・11月の人形市です。
べったら市がくると秋を感じ、秋といえば食欲の秋ですよね
べったら市は、毎年 曜日に関係なく10月19日と20日に三越前駅の日本橋室町のあたりから小伝馬町方面の宝田恵比寿神社一体の路地という路地一体に露天が約400もでて、べったら漬はもちろん、ありとあらゆる食べ物やアルコール類もあるので会社帰りの方たちが大勢で盛り上がっている。
そばでは、金魚すくいや射的など子供達が真剣な表情をしていたり、満員電車のように込み合っている路地にお神輿が威勢よくかつがれてきたりでとても活気にみちています
私がお勧めするのは、食べ物のお店が多い中で毎年必ずでている、新鮮できれいな花がかなり安く手に入ることと、まわりのお店がべったら市にあわせセールをするため、かばんや日常用品を本当に安い値段で売っているので、掘り出し物を探すことです。
12時~21時半までなので、会社帰りにでもぜひ秋の風物詩のべったら市に、お越しいただいてはいかがでしょうか。
[明日からのダイエット]
2009年9月30日 12:31
カツ丼といえば、梅林(銀座7-8-1)やとん亭(中目黒)を思い出されますが、
私のおすすめは、ずばりかつ銀さん(銀座2-14-5 B1F)です。
(正確にいえばかつ煮ですが)
ホンジャマカの石塚さんもおすすめのお店ですが、あつあつでしかもジューシー。
「体格のいい人、全員集まれ!」といった感じです。
ぜひ、だまされたと思って、一度ご賞味ください。
[巻渕彰/写楽さい]
2009年9月29日 11:41
明石町に「電信創業之地」碑がある(写真上)。わが国で最初に電気通信が行われたのは、明治2年12月25日(1870年1月26日)で、この近くにあった東京築地運上所(跡地に碑石あり)と横浜裁判所(写真中央は、横浜地方検察庁前の記念碑)に設けられた「伝信機役所」間を結んだものであった。
明治2年9月19日(1869年10月23日)から工事が始まり、わずか3カ月ほどで、東京・横浜間の約32kmに電信柱593本を建てたという。およそ50m間隔に1本の割合で電信柱が建てられたのだから林立の感であっただろう。さらに、当時の記録写真を見ると、架線の本数がやたらに多いのが印象的だ。人々は、文字が電線を伝わって行き来するのが見えるのだろうか、と大騒ぎだったという、笑い話がある。
今でも電信柱と呼んでいるのは、これが事始めだったのだろう。当時は「電信」ではなく「伝信」といわれたようだ。「以心伝心」からか、「信(=まこと、真実)を伝える」ことからか、やがて「電気通信」の略として「電信」へと代わっていった。
このとき使われた通信機とはどんなものであったのか、明石町の碑石には何の記載もない。
それは、大手町の「逓信総合博物館」に展示されている。1837年にイギリス人のホイートストンによって開発され、フランス人のブレゲが考案した「ブレゲ指字電信機」である。実物は平成14年(2002)に国重要文化財に指定されたことで、現在展示されているのはレプリカである。
写真下が最初に使われた、その「ブレゲ指字電信機」である。左が送信機、右は受信機。双方に文字盤があり、イロハなど1文字1文字が刻まれている。送信機の文字盤の針を、送りたい文字に合わせて発信すると、受信機の針が時計のように回転して、送られてきた文字を文字盤に指す、という仕組みだそうだ。当時としては、モールス信号機のように符号を覚える必要がないので、画期的な通信機であった、という。
しかし、操作は簡単だったが、送信スピードが1分間に5、6文字程度と遅く、遠距離通信には適さなかったという。よって使用されたのは明治8年(1875)ごろまでの短期間であったそうだ。
運上所は現在の税関。この脇に通信役所が設置された。横浜には現在の横浜地方検察庁に隣接して
神奈川県庁舎がある。ここが今から150年前の安政6年(1859)、横浜開港にともなって「神奈川運上所」が開設されたところで、史跡になっている。築地、横浜ともに外国人居留地に近いし、入出港する積荷の情報交換などに通信が使われた模様である。いずれにしても、この文明の利器は近代化の象徴であったといえよう。
[ゆりかもめ]
2009年9月25日 09:00
八代将軍吉宗は常々 象を見たいと言っていたので享保13年(1728)6月13日長崎港に象が上陸した。 中国人の商人が現在のヴェトナムから雄雌2頭の象を連れてきたのである。
雌象は病がもとで死んだが雄象は享保14年(1729)3月13日 江戸に向かって長崎を出発した。
京都では中御門天皇と霊元上皇に朝見している。
この時、無位無官では宮中に出入り出来ないので急遽 象に従四位という位を与え「従四位広南白象」と命名された。
天皇 上皇 公家衆は象を見た驚きを詩にあらわした。「詠象詩」として「視聴草」に収められている。
長崎から江戸まで約350里(約1400キロメートル) 74日間の旅だった。
江戸では吉宗だけでなく諸大名が見物したが、その後13年間を浜離宮で過ごしたのち、最後は中野村(中野区)の源助と弥兵衛にお金をつけて下げ渡された。
寛保2年(1742)12月に病にかかり治療の甲斐なく死す。
象が京都で中御門天皇と霊元上皇に朝見している。
浜離宮の彼岸花の赤と白だが桜の花の様に外気に左右されて早く咲いたり遅く咲いたりせずに秋の彼岸には必ず土の中から突然のように出て来て咲く花
[銀造]
2009年9月24日 17:00
9月18日、第二回リヴァーサイド・オータムフェスタに行ってきました。
場所は勝鬨橋の下から佃大橋に向かう隅田川テラスの、およそ500mに亘る区間で、沢山の人々が、夏の過ぎ行くのを惜しむかのように、おしゃべり、屋台の食べ物を楽しんでおられました。
私は、朝から何度も何度も時計を見ながら、17:30になると直ぐに事務所を飛び出して、お友達と合流し、東京都公園協会が運営している水上バスに乗船しました。
沢山の乗船客(17:10、17:50の2回乗船、各回200人定員)で混雑していたので、まずは
船内でおしゃべりと船外の景色を楽しみました。
晴海ふ頭沖で折り返ししたので、浜離宮沖からの夜景をお届けします。
東京タワーと周辺のビルが輝いています。
浜離宮に近づくと、コンラッド、電通ビルがひときわ大きく輝いています。
水上バスは、勝鬨橋に近づいています。
グリーンのイルミネーションが鮮やかですね。
治作さんと聖路加ビルの裏手の間に船着場はあります。
短いツアーを惜しんで、航路のフィナーレに「パシッ!」
いよいよ、オータム・フェスタは宴たけなわ。
私の友人も何人かテーブルを囲んで、夜景とお祭りを楽しんでいました。
夜は尽きません。 皆さんが元気一杯の「オータムフェスタ」でした。