つめたい小雨の降る中、中央通りと銀座マロニエ通りの交差点にあるブランドビルをすっぽり包む赤いリボンのイルミネーションが灯りました
今年は、どこもLED照明などを使い、省エネでエコな電飾を心がけるようです
下の写真は、外堀通りとマロニエ通りの交差点にあるマロニエゲートのクリスマスイルミネーションです
今週以降、次々とクリスマスイルミネーションが、街をにぎやかにしていくことでしょう
執筆者一覧最近のブログ記事 |
中央区民文化祭・作品展
小春日和の週末、月島社会教育会館にて、第63回中央区民文化祭・作品展が開催されました。
会場では、押絵づくり、組紐で作る携帯ストラップなどの体験も行われており、
人形町でお買い物 お参り、明治座、グルメとセットでどうぞ
今日は、長男夫婦と水天宮様に安産祈願のお参りをした後、マタニティ・ウエアの準備のお買い物にやってきました。重盛の人形焼、江戸菓子匠 水天宮つくしのお隣にある、mon terre。 赤ちゃんを前で抱きかかえるようなウインターウエア、暖簾の様な授乳が容易なブラウス、胸の両横が開く様な仕様のウエア。 凄く進化しています。 勿論、外で待っていましたよ。
重盛さんの方へ戻って、次に向かったのは、マタニテイでは定評の、「美樹村」。 住所は、日本橋人形町2-2-1 TEL:03-3668-0038 店員さんの親切な説明に、耳を傾けていました。
そして、甘酒横丁の入り口にある、Jolie。今日は、ワンピースを購入していました。
最後は、銀造のお気に入りの店、 平成日本橋洋品店since 2007。 こちらで、初めての買い物はアロハシャツ。 今日は、金曜日のカジュアル・デイ用のジャケット、シャツなどを拝見し、素敵なシャツを親子で3着購入しました。 お値段が庶民に優しい、お店です。 人情と歴史が残る 庶民的な町です。 水天宮、明治座観劇、グルメとセットでお楽しみ下さい。 つばめグリル since 1930
銀座コアビル地下1階にて営業中の「つばめグリル」さんは、1930年創業です。 有名な「つばめ風ハンブルグステーキ」は、未だ体験がなく、今日は昼食にやってきました。
午前11時というのに、早くもご夫婦、お友達とのグループで混み始めました。皆さん、お目当ては「つばめ風ハンブルグステーキ」のようです。 お隣の女性客が美味しそうな、ふわふわの自家製パンを注文したので、ライスに加えて注文しました。 焼きたての熱々のジュージューという音と香りが食欲をそそります。ハンブルグステーキの上には、牛脂を含んだバラ肉を乗せ、肉の旨みを加えています。ほっこりと焼いたジャガイモ、白飯にぴったり合う肉汁。 肉汁をパンに含ませ、余すところなく美味しく頂きました。 食後のコーヒーは、こくのあるエスプレッソ。 すっかり活力を取り戻し、Discover Ginza の意欲に燃え、再び銀座の街に繰り出した銀造です。 おりしも、銀座レストランウイークの期間中でした。 こちらは、中央区ハッピー食事券が使えるのですね。とっても美味しく頂き、割引の恩恵にあずかり、本当にご馳走様でした。 「つばめグリル」さんの詳細、こだわりについては、http://www.tsubame-grill.co.jp/
中央区の魅力 ~ 『隅田川とセーヌ川』 ・・・・・ ≪結び≫
中央区の〝顔〟の一つである〔隅田川〕の魅力について、友好河川であるパリの〔セーヌ川〕と比較しながら想いを述べてきました。このシリーズも今回をひとまず最終回とします。
いつだったか、隅田川に沿って小さな子どもの手を引きながら軽やかに歩いていた若いお父さんの姿を見ました。家族愛というと大げさですが、隅田川の輝きとともに想い出がつながっていくことが微笑ましく思われました。 セーヌ川では老夫婦がベンチに腰掛けて川行く船を眺めながらゆったりとした時間を味わっている姿を見ました。過ぎた時代を懐かしむとともに、変わらぬ水の流れに心の拠りどころを確かめているようにも思えました。
隅田川セーヌ川も、町の文化と歴史と愛惜を包みながら、雨の日も晴れの日も動じることなく流れています。そ知らぬ顔のように見えることがあっても、そこにあることが安心な存在です。
ぼくもこのシリーズを書きながら、中央区の〝顔〟である〔隅田川〕の魅力を改めて感じ取ることができました。皆さんもそれぞれに、この川を愛し、この町を愛して下さい。 最後に一句。「舟往けば月影割れて夜の底」 見番通り お披露目の会 オータムギンザ銀茶会同時開催
平成23年10月30日、見番通りの命名のお披露目の会が開催され、行って来ました。 初めに、挨拶として、銀座西八町会の会長 高坂松次郎様による命名の経緯をご説明いただき、 次に卓話として、講師は新橋 料亭金田中の若主人・東京新橋組合頭取の岡副真吾様による幕末から今につながる銀座の芸者~見番通り命名に寄せての卓話として、軽妙洒脱なお話を頂きました。その内容をちょっと、ご紹介しますと、 新橋芸者のルーツは、
―――金春太夫が賜った居宅地を芸事のお師匠さんに貸し、そのお師匠さんたちは美しい女性が多かったので、大名屋敷の歓送迎などに呼ばれたそうです。 その金春芸能村の常磐津文字和佐(Ms.Tokiwazu Mojiwasa)さんが、当時の江戸幕府の年寄に掛け合って「酌取り御免」という許可を得、芸事を披露することとなり、それが下地となって花柳界が形成されました。――― 幕末、尊皇攘夷を胸にいだき西国から来た若い侍たちは、当時最高級の柳橋では相手にされず、新橋芸者が温かくおもてなしをしたので、ひいきにしたということでした。 それをきっかけに、明治初期には江戸の文化を引き継ぐ柳橋と新興の街 新橋、「新柳二橋(シンリュウニキョウ)」と呼ばれるまでに新橋花柳界は発展したとのことですが、ここでも秘話が紹介されました。―――東海道線が名古屋まで開通の折、明治の元老、外務卿、農商務大臣、内務大臣などを歴任した長州藩出身の井上馨が新橋駅から名古屋駅まで汽車を一輌借りきりで新橋芸者を名古屋の花柳界に招待し、そこで踊りを披露させたそうです。 当時の名古屋は、八代将軍吉宗と争った尾張候の芸能奨励以来、商売・芸事、共に大変盛んであったそうです。 残念ながら、この時の新橋芸者衆の踊りは名古屋では評判が良くなく、名古屋の芸妓に、「東京から離れ遠くから聞いていたときは、さぞや綺麗なことだろうと思っていたけれど、近くで見ると大したことがない。 まるで、「岐阜提燈」と罵られ、恥をかき、大変悔しい思いをしたそうです。 肩を落として新橋へ帰ると、土地の重鎮が一年発起。全国から宗家家元と呼ばれる一流の師匠を迎えました。 稽古に稽古を重ね、もっと上手に踊りたいとの思いが、大正14年の新橋演舞場の建設に繋がっていったとか。 最後に、素敵な舞踊が披露されました。 踊りは、長唄「雛鶴三番叟」 立方(踊り)は、喜美弥、秀千代、地方(三味線などの演奏)は、絹子・照代・由良子・晶子・史恵さんでした。 素敵な踊り、お許しを得て、1枚ご披露します。
来年の「東をどり」が楽しみだなぁ。 今年の「東をどり」のレポートは、こちらです。http://www.chuo-kanko.or.jp/blog/2011/05/87.html
|
メニューアーカイブリンク集 |