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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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銀之塔でビーフシチューランチ♪

[まぴ★] 2013年3月15日 14:00

ここも前から行ってみたかったシチューのお店、銀之塔です。
歌舞伎座の横にあるのは知っていたのですが、実はそこは別館でした。
本館はその裏手にあります。

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入るとテーブル席が2つ、座敷は4グループ座れるようになっています。
まだ奥や上もありそうでした。

ビーフシチューのランチと、せっかくなのでグラス赤ワイン(500円)も。
最初に、シチューの具でワインを飲んで、ワインがなくなってからご飯を食べました。


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小鉢が3種類もあり、切り干し大根、ゼンマイの煮物、ひじきの煮物。
ご飯のおともに美味しく頂きました♪


半世紀受け継がれたシチューだとかで、ビーフもとろとろで美味しかったです(*^^*)


 

 

木挽町広場~歌舞伎座地下

[杏葉牡丹] 2013年3月14日 14:00

いよいよ開場まで1ヶ月を切った、新しい歌舞伎座。
正面の櫓の取り付け作業も終わり、いやが上にも気分が盛り上ってきています。
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そんな中ひとあし早く、地下鉄東銀座駅と建物の地下とが繋がり、エスカレーターやエレベーターが設置されてとても便利になりました。

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そして嬉しいことには、その地下に「木挽町広場」という、とても楽しい空間が誕生しました!

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災害時への対応などにも配慮されているというこの広場ですが、地下鉄改札口を出てちょっと進むと、まずは、わぁーっと空間が広がり、高い天井からは、「歌舞伎座」と書かれた大提灯が下がっています。
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この提灯を前に記念撮影をしている方が結構いらっしゃいましたので、これからここでの撮影が定番になるかもしれません。


奥には、縁台に日傘が並び、待ち合わせや一休みにとても便利です。
色々なお店は壁面に並んでいるので、とても広々としているように見えますが、公演が始まれば、きっとたくさんの人達で賑わうことと思います。

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屋上庭園やギャラリーもここから行けますが、オープンは開場してからということで、今はまだ通行止めになっています。

 

さて、広場の中にはどんなお店があるかといえば、まずは切符売場に地域情報コーナー、コンビにカフェ、雑貨店、お食事処、そして芝居には欠かせ無いのが、お弁当にお土産です。

中でも、お土産処「かおみせ」では、ここでしか買えない品々がたくさん並び、迷ってしまうくらいです。

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役者さんや歌舞伎の演目等にちなんだグッズから始まって、洒落たパッケージのお煎餅やお菓子が並んでいる中に、かつて劇場内にあった、きんつばの実演販売を発見。
わぁーまた食べられるんだ~と嬉しくなってしまいました。
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更にその隣には焼きたてパンのコーナーが登場。
「隈取り餡パン」は小倉に抹茶、季節限定のサクラとあって、食べるのが勿体ないと思いつつも、あまりに美味しいので、お土産に持って帰るつもりの分にまで手を出してしまいそうです。

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更にお勧めは、よく考えたなぁという「揚巻ソフトクリーム」。
ソフトクリームにお煎餅の歌舞伎揚げを砕いたものをトッピングした逸品。
ソフトクリームの甘さと歌舞伎揚げのしょっぱさが、何とも言えないマッチングです。

 

この広場からエスカレーターとエレベーターを使って地上に出れば、まさにそこが歌舞伎座正面。

あまりの楽しさに、あれもこれもとお買い物をして、ついつい時間を忘れてしまいそうですが、くれぐれも開演時間は、お忘れになりませんように。

 

 

文豪と丸善(その二)  夏目漱石と万年筆

[与太朗] 2013年3月14日 09:00

IMG_0685.JPG 「丸善 世界の万年筆展 展示即売会」 先日、日本橋の丸善に通りかかるとこんな案内が目に留まりました。丸善は維新の日本に洋書だけでなく、西欧の文具を招き入れたパイオニアだったのですね。万年筆については百科事典にも「日本では1895年(明治28年)に東京の丸善(株)が少量だがウォーターマンのものを店頭で発売したのが最初で、本格的な輸入は1902年(明治35年)以降のことである。」(日本大百科全書(小学館))とあります。


 その後、万年筆は急速に普及し、丸善が1912年(明治45年)に発行した「萬年筆の印象と図解カタログ」という小冊子には、著名人多数が文章、スケッチ(万年筆で描いたもの)などを寄せています。その巻頭を飾るのが夏目漱石(1867-1916)の『余と萬年筆』です。


 この文章で漱石は、万年筆を使い出して間が無く、親しみが薄いと言っています。十二年前の英国留学の際、親戚(鏡子夫人の妹時子さんのこと)から餞別としてもらった万年筆は、船中で「器械体操のまね」(鉄棒)をして壊してしまいました。三、四年前、丸善で「ペリカン」を二本買いますが、「不幸にして余のペリカンに対する感想は甚だ宜しくなかった」ようで元のペン書きに戻りますが、インク壷にペンを浸す煩わしさから「離別した妻君を後から懐かしく思う」ような感がしたと言っています。そして「この原稿は魯庵君(当時丸善の顧問をしていた内田魯庵(1868-1929)のこと)が使って見ろといってわざわざ贈って呉れたオノトで書いたのであるが、大変心持よくすらすら書けて愉快であった」と書いています。この冊子には漱石が「オノトG」で書いたこの文章の原稿の写真も掲載されています。


 万年筆のPR冊子に載せるにしてはいささか宣伝臭が無さ過ぎる文章ですが、魯庵の書いたものを読むと、「夏目さんは頼まれごとをよく快諾する人だった。私は万年筆のことを書いて下さいと頼んだが、別に嫌な顔はされなかったが、「僕は困る」といわれた。そこで、いえ、悪くさえ言わねばいいから、重宝なものだくらいに書いて下さいと頼んだ」とあります。また、のちに新聞に掲載された漱石の談話には「今用いているのは二代目のでオノトである。別にこれがいいと思って使っているのでも何でも無い、丸善の内田魯庵君に貰ったから、使っているまでである」と正直?な感想を述べています。便利さは買っても、それほどの思い入れはなかったのでしょう。なお、魯庵によれば、漱石は硝子のインキスタンドが大嫌い、またインキはブルーブラックが大嫌いで、セピア色を好んだそうです。 


 漱石入社当時の朝日新聞社は、石川啄木(1886-1912)の歌で知られるように京橋区瀧山町(現銀座六丁目)にありました。漱石同様、主筆の池辺三山(1864-1912)の招きで朝日に入った杉村楚人冠(1872-1945)によると、漱石は出社することは少なかったが、水曜日に開かれる編集会議に出てくると、口数少なく、にこにこ笑いながら人の言うことを聞いていたが、口を開けば思いがけない警句をすまして言うのでその度毎に皆は笑い、賑やかになったそうです。こんなときの漱石の手にはオノトの万年筆があったのでしょうか。


 漱石も愛用?したオノトは高級万年筆として一世を風靡しますが、戦後、製造元の英国デ・ラ・ルー社は万年筆の製造を止めてしまいます。現在は丸善がオノトの名を冠した「復刻版」の高級万年筆を販売しているそうです。日本橋丸善では万年筆売り場は地下一階。超高級品から普及品まで見事に並べられた売り場を見て回るうちに、もう長い間万年筆に縁が無くなっていた自分に気づくと同時に、五十数年前のこどもの頃、今は亡き両親に初めて万年筆を買ってもらったときの感激がよみがえってきました。 

 

 

 

テンピュールのマットレスで良質の睡眠を♪

[まぴ★] 2013年3月13日 14:00

去年から欲しい欲しいと思っていたテンピュールのマットレス、

たまたま銀座の三越でテンピュールのフェアのをことを聞き、

2丁目の昭和通り沿いにある銀座のショールームへ行ってきました!


お店に行ったのは1月の末なのですが、

2月の末からさらに15%オフになるフェアがあるとかで、それを待って購入しました。


テンピュールのマットレスは、オリジナル、クラウド、センセーション

と3種類あり、固すぎず、柔らかすぎずのクラウドが一番よかった。

あとは厚みなのですが、19㎝、22㎝、25㎝と3種類。

もちろん厚みのある方が寝心地もいいのですが、3㎝で数万変わるので、

ちょうど真ん中の22㎝のクラウドにしました。

銀座のショールームでは、二人でかなり寝心地をチェックしました。

スカートをはいていても、膝掛けを貸してもらえるので、マットの上に寝転べます。


 


そして待ちに待ったテンピュールが先日届きました。

身体にまとわりつくようなフィット感と、沈み具合が何とも言えず、

ほんとに寝心地最高です!

マットレスが汗などでカビないように、除湿マットをおすすめされたので、ネットで購入!


 


今回はマットだけですが、いずれはこのうねるタイプの

ZERO-Gというフレーム(写真右上)が欲しいな~(*^^*)


三越では今のマットレスを1000円で引き取ってくれるサービスがあります!

市役所に電話したり、ダブルサイズのマットをマンションの粗大ゴミ置き場へ

持って行くのは大変なので、嬉しいサービスです!


3月31日まで年に一度のフェアやってます!


 

 

3月15日は「靴の記念日」-靴業発祥の地ー

[滅紫] 2013年3月13日 09:00

「今日は何の日」には歴史上の記念日、偉人や有名人の誕生日、そして上手いのやちょっと苦しい語呂合わせの記念日がありますが、この「靴の記念日」は明治3年(1870)西村勝三が革靴の製造工場を現在の入船3丁目に創建した日を記念したものです。

 

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日本人名辞典(新潮社)によると西村勝三は「天保7年(1836)江戸生まれで下総佐倉藩側用人の三男。兄の西村茂樹は明治期の官僚、道徳思想家で貴族院議員、華族学校長。西洋砲術を学び、安政3年、脱藩して商人に転じる。慶應3年(1867)江戸に鉄砲店を開業、維新後大総督府御用達となる。明治3年以後伊勢勝製靴工場、製革工場、メリヤス工場を設立。明治8年耐火煉瓦の製造を始め、20年品川白レンが製造所を設立、斯業の先覚となった。」とあります。


「武士を捨て商人に転じた」のはやはり時勢を見据えての才覚があったのでしょうか。製靴業を始めたきっかけは陸軍の創始者である大村益次郎が輸入した軍靴が大きすぎるため「日本人の足にあう西洋靴を作る」提案に応じたことによるそうです。その工場を造った場所が現在の入船3-2-10、ITOKIさんのビルのエントランス植栽の中にこの「靴業発祥の地」の碑が立っています。「進取の気性に富んだ佐倉藩主の堀田正倫も支援した」とありますが、この堀田正倫の父は歴史の教科書でお馴染みの堀田正睦(老中首座)で、下総佐倉藩は中央区との縁も深く、茶の木神社(人形町1丁目)の場所は堀田家の中屋敷がありその守護神を祀っていたところだそうです。


散歩の足を少しのばしてみると中央区では「?!」という碑に出会います。江戸や明治がそこここに生き続けているのを見つけるのは思いがけない楽しみです。散歩には最適の季節になってきました。


花粉とPM2.5に注意しながら「歴史散歩」に出かけませんか。


「靴業発祥の地」の碑 入船3-2-10 地下鉄新富町駅そば

 

 

 

築地場外 中華そば・若葉

[鞠つき] 2013年3月12日 14:00

やっと暖かくなってきたので、築地市場をお散歩

春らしいお野菜が沢山並んでいて、何だかウキウキしますnotes

 

友人に聞いて一度行ってみたかった"中華そば 若葉"

60年前からあるお店ですnoodle

1畳ぐらいのスペースに椅子は3席しかありません

 

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極細の縮れ麺は絶品sun

築地のお勧めはお寿司だけではありませんよ~restaurant

是非、いらしてみて下さいshine