永代橋西詰め南側隅田川テラスの早咲きの「大寒桜(オオカンザクラ)」が開花。
オオカンザクラはカンヒザクラとオオシマザクラの交雑種と云われ、樹高は5~10m程に、樹冠も大きく広がり、淡紅色の花弁は丸く大きく、先端に細かい切れ込みが多いのが特徴とされる。
もう少し早くから咲き始める「寒桜」や「河津桜」と並び、一足早い春の訪れを感じさせてくれる。
早速ヒヨドリが花蜜を吸いにやってきていた。 (写真右上)
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閉館間近!シネパトス
【シネパトス】
銀座唯一の名画座が、今年の三月末で閉館する。 名画座というものには行ったことがなかった。 いい機会なので「銀座の恋の物語」を観に行ってみようと思った。 きらびやかな銀座4丁目交差点からもほど近い。 その映画館の名は「シネパトス」。 外から見ると、半地下?歩行者用通路?という感じだ。 【三原橋地下街】 実は三原橋地下街という古い地下街の中に、映画館はある。 地下街は、晴海通りの下を横切っており、さらに下は東京メトロ日比谷線が走っている。 【三十間堀川】 元々、ここは三十間堀川だった場所。 京橋川(現在の新京橋出口付近)から汐留川に至る河川で、幅が約30間(約55m)あったことから、名前が付けられたそうだ。 三十間堀川は昭和27年に埋め立てが完了したが、川にかかっていた橋の一つ、三原橋の下の空間は地下街として残されたのだった。 (後に地下街の更に下に、東京メトロ日比谷線が通ることになるのだ。) [レトロな地下街が広がる]
[閉館を惜しむ寄せ書き]
【椅子が揺れる】 3つあるスクリーンのうち、一つを名画座として運営しているようだ。 チケットを買い、席に着く。普通の映画館とさほど変わらない。 ほどなく暗くなり、本編上映前に新作映画の予告が映し出された。 スクリーンでは銃撃戦が繰り広げられ、それに合わせるように私が座っている椅子に激しい振動が伝わってきた。 「すごい臨場感だな......。」 と思ったが、振動は一定の時間をおいて、断続的に続いている。 どうやら下を通っている日比谷線の電車の振動のようである。 映画が終わり、地下街を出ると三越が目の前に見える。 レトロな地下街、閉館を惜しむ多くの声、電車の振動......。 「銀座の恋の物語」の感動と共に、印象深い映画館の思い出も胸に刻まれた。 オカメザクラ満開<あじさい通り>
日本橋本町の「あじさい通り」の<阿亀桜(オカメザクラ)>がこのところの陽気で一気に開花、見頃を迎えた。 オカメザクラはマメザクラとカンヒザクラの交雑種と云われ、淡い紅色をした早咲きの一重。 サクラのなかでは小型品種で樹形がコンパクトにまとまることから狭い土地の植栽にも向くと聞く。 7年前に26本の並木からスタートし、現在は区境まで合計76本植樹されている。 日本橋エリアでは、3月13日~4月9日まで「日本橋・春・さくらウィークス」と題し、自分を高める「美」や「知」、春の象徴である「さくら」をテーマにしたイベントが開催される。 3月31日には人形町甘酒横丁「桜まつり」にて甘酒2,000杯が振舞われる。 4月5日~7日には八重洲さくら通りで日八会主催のさくら祭りが予定されている。
THE MAGNUS TOKYO
私が楽しみにしている、年に一回集って楽しく歓談する機会があります。今年は、新築間もない、資生堂ザ・銀座と同じビルの11Fにある、「ザ・マグナス東京」という場所で開催されました。 こちらは、結婚披露宴会場として営業されていますが、ウイークデイでは貸切のパーティにも利用できることを知りました。 平日の夜だったので、飲み放題のBuffet style で、料金は一流ホテルの半額程度 でした。そんな会場と料理の一部をご紹介しますと、スモークサーモン、生ハム、各種のオードブル、マカロニ・グラタンなど、 シュリンプ・サラダもありましたし、パリ・パリッとした食感のソーセージも美味かったなぁ デザートも3種類あり、ワイン、ウイスキーも上等の物を用意してくれていました。 場所は、中央区銀座7丁目8-10 フクハラギンザビル9-11Fにあり、詳細は、こちらのHPでご覧下さい。http://www.themagnus.jp/access
戦争の傷跡
清洲橋通りを南に歩いて行くと、右側久松町のところに"きくの家"という洒落た和食のお店があります。このお店の通り側壁面に終戦の日の浜町周辺のパネル写真をみることができます。
一面焼け野原で空襲の惨劇がそのまま残されている感じです。 明治座まで歩いて行きますと、前の浜町公園への緑道入り口に小さなお堂が見えます。
"明治観音堂建立の由来" 碑には 本堂は昭和20年3月10日の戦災に依り死没せる幾多の霊の冥福を祈る為建立す 昭和25年12月 発願主 新田新作 とあります。(新田新作氏は明治座再興に尽力された方です) 明治座は空襲時の避難場所にもなっており昭和20年3月10日の東京大空襲の被災時に大勢の方々が亡くなられたそうです。 奥に見える貼り紙は3月10日の明治座で行われる慰霊供養に関するお知らせです。 3月11日は東日本大震災の2周年に当たり、こちら(東京大空襲)は徐々に風化されていくのでしょうか、、。
中央区鉄道ものがたり <番外編> 「日比谷線相互直通運転の歴史」
寒かった冬もようやく季節の変わり目を迎え、少しずつ春の兆しが広がってきました。中央区の各地域でも草花の芽吹きやちょっとした風の香りに春を感じる機会も増えてくることでしょう。
春は交通機関にとっても節目のシーズンです。主にこの時期にダイヤ改正が行われるからです。需要と設備事情に応じて新たなダイヤが設定されます。今年は3月16日にJRや私鉄で改正が実施されます。 東京での話題といえば、東京メトロ副都心線と東急東横線が相互直通を開始します。これにより、東武東上線、西武池袋線が副都心線を経由して東急からさらに先のみなとみらい線まで含めた5社相互直通を実現することになりました。これを契機に人の流れを引き寄せようと沿線各地で商戦も活発になっているようです。
それだけでは中央区にはあまり関係ないようですが、そうではありません。まず、副都心線と並行運行されている有楽町線では増発などの措置が実施されます。それよりも今回の5社相互直通運転開始に伴い、副都心線・有楽町線のラッシュ時の混雑が増し、特に朝のダイヤの乱れが一層大きくなることが想定されます。区内の有楽町線「銀座一丁目」ならびに「新富町」「月島」各駅を利用される方はご注意下さい。
さらに、最も衝撃的なのは、副都心線と東急東横線の直通に伴い、東急と日比谷線との相互直通が終了することです。(東武側は継続して実施) 日比谷線は中央区にとっても重要な路線です。区内に7つもの駅があります。銀座線の4駅、都営浅草線の5駅に比べても多く、身近な路線でもあります。また、始発列車が八丁堀を5時に出発するのも親しみを感じます。 そもそも日比谷線と東急東横線、東武伊勢崎線との3社相互直通は今からほぼ半世紀前の1964(昭和39)年に開始されました。東京オリンピックに間に合わせるために日比谷線全線開通が急がれたそうです。もちろん、激増する人の流れを円滑にすることにも貢献してきました。わが国の多路線相互乗り入れのパイオニア的存在でもあります。 当時、議論になったのは使用する列車の長さでした。18m車にするか20m車にするかで意見が分かれたのですが、結局カーブが多いことを理由に営団地下鉄(現東京メトロ)が主張した18m車が採用されました。現在ではほとんどの都市型鉄道では20m車が使われていますので、よく観ると日比谷線の車両は車長が短いことに気づきます。
埼玉県東部や神奈川県北東部から都心に通う通勤・通学客にとって、乗換なしで直通できるこのしくみは大いに歓迎され、長く親しまれてきました。しかし、その後、東京の鉄道網はさらに整備され、たとえば、横浜方面から都心に向かうのに、日比谷線に頼っていた人たちがJR新宿湘南ラインや地下鉄南北線、地下鉄三田線などに分かれていくようになって、だんだんと日比谷線の相対的価値が下がってきました。さらに今度の副都心線直通により、日比谷線の役割は大きく低下することになったと考えられます。 そのうえ、前述の車長の問題もあり、積載容量の比較から18m車を東横線で走らせることに東急が見切りをつけたともいえます。
結果として、3月16日からは日比谷線から菊名方面への直通運転が見られなくなり、一抹の寂しさを禁じ得ません。各駅の時刻表に記されていた行先表示の中から「菊名行き」や「武蔵小杉行き」が消えることになります。 同時に、東急から日比谷線に乗り入れていた<東急1000系>の運行もこれを機に終了となる見込みです。日比谷線直通専用として運用されていたので、廃車になるか他社に転用されるか分かりませんが、この東急カラーを日比谷線で見られなくなることだけは事実です。
以前にたまに運行されていた臨時列車「みなとみらい号」(北千住―元町・中華街)ももう見られないでしょうか。
時代とともに交通機関の運用も変化していくのは当然ですが、昭和の都市アクセスをしっかり支えてくれた日比谷線の直通運転の歴史に思いを馳せ、感謝の気持ちでこの節目を見守りたいと思います。 |
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