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2016年6月23日 18:00
歴史・由来を考える場合に、絶対に行ってはならないのは、「後知恵」で判断することであり、常に当初の時点に立って考えるという態度を失ってはならないのではないか。
池田弥三郎氏は、「大阪にも日本橋があり、京橋があるが・・・・大阪の場合、これをニッポンバシと言っていることは考えさせられることである。つまり、江戸で日本橋をニッポンバシと言わないで、ニホンバシと言ったのは、もともと(東京・日本橋の名の起原が)『日本』ではなく、『二本』だったということの傍証になると思う。」(56)と述べられている。
元和4年(1618)に架け替えられた東京・日本橋は、長さ約67.8m、幅7.8mの木造橋であった(『中央区ものしり百科』118頁)のに対して、大阪の日本橋はほぼ同時期の元和5年(1619)に江戸幕府によって道頓堀川に架けられた。長さ約40m、幅約7mの木造橋で、道頓堀川では唯一の公儀橋であった(Wikipedia)。 なお、池田氏も述べるとおり、『慶長見聞集』では、1618年の架け替えられた橋の大きさを記しながら、それ以前の橋の大きさについての記載がない(『日本橋私記』92頁)。このことによっても、以前のものはかなり粗末なものであったのではないか、という推測が成り立つ。
公儀橋というのは、幕府が管理し、かけかえや修理などを幕府の費用で行う橋であり、外見的な区別として、公儀橋の場合は青銅製の擬宝珠がつけられていた。 江戸の場合、公儀橋は江戸城の内外にかけたもの4、50のほか、市中に約120、あわせて160から170もあった。しかしながら、天明7年(1787)の調べでは、当時の大阪の公儀橋数は12に過ぎなかった。これは、"水の都大坂"の生成がいかに町人の力によるところが大きかったかを物語るものと言える(岡本良一『大阪の歴史』;60)。
このように、1619年(東京ニホン橋架け替えの1年後)という時点で幕府によって架けられた大阪では数少ない公儀橋が、当時から「ニッポンバシ」と称せられていたとするのならば、創架(1603年説が有力)前後からしばらくの間、東京のものは「二本橋」と称されていた可能性が高く、上記の池田弥三郎説はかなり説得的なものとなると思う。
なお、池田氏は自ら作詞した「雨の四季」という歌詞の中でも、「二本橋」という用語を用いて、「大阪はニッポンバシで、江戸がニホンバシなのは、日本橋は後の合理解で、古くは二本橋だったのではないか、という作者の学説(?)にもとづいて、わざとそうしてみた」と述べておられる。(184)
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2016年6月23日 16:00
歴史・由来を考える場合に、絶対に行ってはならないのは、「後知恵」で判断することであり、常に当初の時点に立って考えるという態度を失ってはならないのではないか。
例えば、日本橋の橋名について、『ものしり百科』では、「橋名の由来には諸説あるが、幕府が編さんした地誌『御府内備考』には、『この橋、江戸の中央にして、諸国の行程もここより定められるゆえ、日本橋の名ありと云ふ』と記されている」と述べている(116頁)。この説明は、「橋名の由来には諸説あるが」と言っているし、もちろん誤りではない。しかしながら、『御府内備考』とは文政12年(1829)に幕府が編纂した地誌である。
日本橋は、慶長8年(1603)、徳川家康によって架けられたとされる(『ものしり百科』26頁)。この架設当時は、家康公入府の天正18年(1590)から、まだ10年程度しか経過しておらず、この周辺もまだ葦や薄の生い茂る荒涼たる地帯であったはずである(『ものしり百科』116頁)。それを、その後、230年近くも経過した後に、"お上"が編纂した地誌だけを橋名の由来根拠にしてしまうのは、あまりにも乱暴ではないだろうか。
池田弥三郎氏は、『日本橋私記』のなかで、「わたしの(日本)橋名起原説」として次のように述べられている。
(1) 日本橋は、もと日本橋川(当時その名はなかったが)に架けられていた、粗末な橋で、その橋の様子から「二本橋」と言われていた。
(2)それが、江戸の町の造成につれて、立派に改修されていき、その途上で、誰言うとなく、二本橋は日本橋だと言われるようになっていった。
(3)そして、誰言うとなく言い出した「日本橋」という名を、誰もが素直にうけいれられるように、日本橋はにぎわしくなり、付近は日本の代表の土地となり、さらに全国里程の中心となり、五街道発足点ともなっていったために、ますます「日本橋」の名がふさわしくなっていった。
――と、こういうような筋道が考えられるのではなかろうか。 (48)
最近の書物では、『ものしり百科』もそうであるが、(1)の部分は略して、はじめから(2)(3)の経緯を述べるものが多いように思われる。しかし、池田氏が言うように、橋の名に限らず、地名というものは、そもそも単純で端的、直観的な名づけられ方をされるものであること等を考え合わせれば、起原としては(1)の段階があったと考えるべきではないかと思う。
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2016年6月23日 14:00
ある講座で、講師の先生が、京都に在る越後屋京本店についての絵図(「京本店絵図」三井文庫所蔵史料)の中に「室町通り」という表示があることについて、「京都 "にも" 室町があるのですね」と言われた。この表現はおかしい。京都の室町の存在が(はるかに)先で、東京日本橋の室町はその(かなり)後のネーミングであるはずだからである。
言葉尻をとらえるようだが、こうした(専門家でさえもが)無意識に?おかすミスというのは、大阪・京都が先進地帯であって、後進地域である江戸が関西に伍することができるようになったのは、江戸時代もかなり後期になってからであることをつい忘れてしまうからではないか。
ちなみに、「日本橋室町」の地名の由来については、中央区のHP「地名の由来」では、
「京都の室町にならったという説と商家が多く集まっており、その土蔵(室)が立ち並んでいたためという説があります」と説明されており、『ものしり百科』では、「昭和6年、中沢彦吉の発案により、めでたい名を選んでつけられた」としている(173頁)から、「京都の室町にならった」という断定はできないかもしれない。
しかし、少なくとも「京都"にも"室町がある」という表現はおかしいだろう。
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2016年6月11日 16:00
三島由紀夫氏が、瑤子夫人と見合いしたのは「銀座浜作」であったようですね。
猪瀬直樹の『ペルソナ』では、次のように述べられています。
>杉山瑤子との見合いは(昭和33年)4月13日である。(湯浅)あつ子が同席して銀座の浜作で食事をした。それからナイトクラブへ誘った。ダンスをしながら、ステップがするりと流れないので「ほとんど遊びズレがしていないな」と判定した。三島はあつ子に礼を述べ、瑤子を自宅まで送った。自宅まで送る、と言いだしたとき、決まりそうだな、とあつ子は思った。翌日、三島からあつ子へ電話がかかった。「なかなかよろしいではないか」とあっさりと言った。
その直後、倭文重は東大病院に入院した。入院前夜、三島は倭文重と浜作で"最後の晩餐"をすませた。」(289)
(ここで、母との"最後の晩餐"と言っているのは、母の寿命はあと4ヶ月と診断されていたからである。しかし、手術の結果、腫瘍は悪性でないと判明した。)
この見合いについては、Wikipedia「平岡瑤子」では、次のように述べられています。
>4月13日、湯浅は瑤子を連れて銀座のドイツ料理店「ケテル」で三島と引き合わせ、その後3人で「浜作」で夕食を取った後、青山のナイトクラブに踊りに行った。三島は瑤子と踊っている時、瑤子が遊びずれしていないことが判り、翌日14日、「なかなかよろしいではないか」と気に入った旨を湯浅に報告した。瑤子の感想の方も、「どうにかなってしまいそうでした」と嬉しそうな声であったという。
以前に述べたように、三島は、その後も頻繁に「銀座浜作」を利用しています。
徳岡孝夫著『五衰の人』(文春文庫)によると、徳岡氏が最後に三島氏に会ったのは「浜作」でした。昭和45年、三島さんが亡くなる直前の9月、徳岡氏は三島氏に「浜作」へ呼び出され、その時、徳岡氏は約束の時間に40分も遅れるという失敗を犯したようです。
「いまでもそのときの失敗が恥ずかしく、記憶の戻るのが怖さに、その店を再訪したことがない。息せき切って引いた表戸の横に『関西割烹』と出ていたのを覚えているから、銀座の浜作だったと思う。階下はカウンターで、二階が座敷になっていた。階段を駆け上がって部屋に入ると、三島さんは畳の上に寝そべっていた。」と書かれている(164)。
また、ジョン・ネイスンは「私は三島と銀座の「浜作」で待ち合わせ、白木のカウンターでかなりの酒を飲んだ。三島は上機嫌だった。もちろん私もそうだった。三島は私に翻訳の礼をいい、私は彼の期待に応えられてほっとしたといった。」と書いています。(ジョン・ネイスン『三島由紀夫―ある評伝―』野口武彦訳 新潮社)
I met him at Hamasaku, a Japanese-style restaurant on the Ginza patronized by the literary establishment. We ate at the wooden counter and drank a lot of sake. Mishima was in high spirits and naturally so was I. He thanked me for the translation; I expressed my relief at having lived up to his expectations. (JOHN NATHAN "MISHIMA A BIOGRAPHY; 204 )
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2016年6月 8日 16:00
築地橋
「第三の橋は築地橋である。ここに来て気づいたのだが、都心の殺風景なこういう橋にも、袂には忠実に柳が植えてある。・・・・・・・・・・・
築地橋は風情のない橋である。橋詰の四本の石柱も風情のない形をしている。しかしここを渡るとき、はじめて汐の匂いに似たものが嗅がれ、汐風に似た風が吹き、南の川下に見える生命保険会社の赤いネオンも、おいおい近づく海の予告の標識のように眺められた。」(190-191)
入船橋
「第四の橋は入船橋である。それを、さっき築地橋を渡ったのと逆の方向へ渡るのである。・・・・・
入船橋の名は、橋詰の低い石柱の、緑か黒か夜目にわからぬ横長の鉄板に白字で読まれた。橋が明るく浮き上がってみえるのは、向う岸のカルテックスのガソリン・スタンドが抑揚のない明るい燈火を、ひろいコンクリートいっぱいにぶちまけている反映のためであるらしい。」(193)
暁橋
「川は入船橋の先でほとんど直角に右折している。第五の橋までは大分道のりがある。広いがらんとした川ぞいの道を、暁橋まで歩かなければならない。
右側は多く料亭である。・・・・・・やがて左方に、川むこうの聖路加病院の壮大な建築が見えてくる。
それは半透明の月かげに照らされて、鬱然と見えた。頂きの巨きな金の十字架があかあかと照らし出され、これに侍するように、航空標識の赤い燈が、点々と屋上と空とを劃して明滅しているのである。・・・・・・・・
第五の暁橋の、毒々しいほど白い柱がゆくてに見えた。奇抜な形にコンクリートで築いた柱に、白い塗料が塗ってあるのである。その袂で手を合わせるときに、満佐子は橋の上だけ裸かになって渡してある鉄管の、道から露わに抜き出た個所につまずいて危うくころびそうになった。・・・・・・・・その橋は長くない。」
堺橋
「第六の橋はすぐ前にある。緑に塗った鉄板を張っただけの小さな堺橋である。 満佐子は橋詰でする礼式もそこそこに、ほとんど駆けるようにして、堺橋を渡ってほっとした。 ・・・・・・・・・・
この道をまっすぐ行けば、いずれ暁橋に並行した橋のあることがわかっている。それを渡っていよいよ願が叶うのである。」(197)
一部の親柱のみが現存しているようであるが、工事のためフェンスが設置されており、今は見ることができない。
備前橋
「橋詰の小公園の砂場を、点々と黒く雨滴の穿っているのを、さきほどから遠く望んでいた街燈のあかりが直下に照らしている。果たして橋である。
三味線の箱みたいな形のコンクリートの柱に、備前橋と誌され、その柱の頂きに乏しい灯がついている。見ると、川向こうの左側は築地本願寺で、青い円屋根が夜空に聳えている。同じ道を戻らぬためには、この最後の橋を渡ってから、築地へ出て、東劇から演舞場の前を通って、家へかへればよいのである。」(199)
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2016年6月 7日 16:00
平成28年6月4日(土)、三島由紀夫研究会が開催した「橋づくしツアー」に参加しました。 新橋の「末げん」で昼食をとった後、銀座板甚道、銀座、昭和通りを経て、小説のとおりに7つの橋をめぐり、無事にゴールとした築地本願寺に到着しました。以下、小説を引用しながら(小説は、昭和31年に雑誌文藝春秋に掲載され、単行本は昭和33年に刊行された。引用は新潮文庫『花ざかりの森・憂国』による)、当日のコースを紹介します。
新橋末げん
明治42年創業の鳥割烹店。三島由紀夫と盾の会メンバーが、決起前夜、最後の晩餐を行った。平成9年に現店舗に建て替えられている。
銀座板甚道
「陰暦八月十五日の夜、十一時にお座敷が引けると、小弓とかな子は、銀座板甚道の分桂家へかえって、いそいで浴衣に着かへた。」(177)
岡半本店
「たとえば夕刻髪結へ行くと、同じ土地の妓が、順を待つあいだを、岡半の焼肉丼なんぞを誂へて、旨そうに食べているのを見ることがある。」(178)
伊勢由
「厨口の三和土に満佐子の下駄が揃えてある。伊勢由の黑塗りの下駄である。」(184)
昭和通り
「小弓が先達となって、都合四人は月下の昭和通りへ出た。自動車屋の駐車場に、今日一日の用が済んだ多くのハイヤーが、黒塗りの車体に月光を流している。それらの車体の下から虫の音がきこえている。
昭和通りにはまだ車の往来が多い。しかし街がもう寝静まったので、オート三輪のけたたましい響きなどが、街の騒音とまじらない、遊離した、孤独な躁音というふうにきこえる。」(185)
三吉橋(第一・第二の橋)
「程なく四人の渡るべき最初の橋、三吉橋がゆくてに高まって見えた。それは三又の川筋に架せられた珍らしい三叉の橋で、向う岸の角には中央区役所の陰気なビルがうずくまり、・・・・」(187)
説明標示標には「橋づくし」が引用されています。