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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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浅草御堂とは?

[yaz] 2019年2月16日 09:00

某ガイドクラブの研修で「人形町~東日本橋」のガイドを担当することになり、「築地」「人形町」地区のガイドを担当するものとして、興味のあった浅草御堂について調査したので報告します。

築地西本願寺は、明暦の大火で焼失した浅草浜町の西本願寺が再建されたものです。元の西本願寺である「浅草御堂」は、元和7年(1621年)3月、浅草浜町に創設されました。場所は横山町2丁目南側町屋裏。寛永2年(1625年)別院として幕府が公認し、「西本願寺」となりました。別名「江戸海辺御坊」とか「浜町御坊」とも称されます。

武州豊嶋郡江戸庄図を参照すると、元吉原裏の浜町堀を北上した東側に浅草御坊を見ることが出来ます。(下の切絵図参照のこと)

浅草御坊地図.jpg

 

江戸海辺御坊.jpg

本堂・末寺の浜町堀側に小さな町屋がありました。ここで「立花」が売られていたと言われており、後に「橘町」と名付けられたという説があります。

 

浅草御坊(西本願寺)内配置.jpg 敷地内は57もの末寺があり、御堂の大きさは12間(幅)X8間(奥行)、御堂の左横の直参墓所は58坪でした。明暦の大火後松平越前守に下賜された大きさが13,000坪と言われていますので西本願寺の大きさは20,000~30,000坪はあったでしょう。

 

浜町堀に面した部分が後の橘町でしょう。橘町は現在の地図で言うと「東日本橋3丁目」と言われています。赤枠で囲った領域が東日本橋3丁目です。

橘町=東日本橋3丁目地図.jpg

 

明暦の大火後、東本願寺は浅草三十三間堂へ、西本願寺は八丁堀築地「海涯」へ移転しました。移転後西本願寺は、数奇な運命を辿ります。

松平越前守邸.jpg

 

明暦の大火による寺院の移転後、寺地は取り上げられ、西本願寺・浅草御堂の跡は、准如と結びつきの強い福井藩の松平越前守が、同年 5 月14日に屋敷を下賜されます。坪数 1万 3000坪もありました。これを期に、この周辺はしだいにその姿を変えていき、松平越前守屋敷の東側に、幕府役人の土地で、町人に貸すことにより実質的に町地となった「童坊町」( 同朋町 )が生まれ、浅草御堂の裏手に引き込まれていた堀が 薬研堀 となって、この一帯の 「谷之御蔵」の下まで船がつくようになり、このあたりに、旗本・家人が給与米を受取る米蔵が設けられました。また屋敷 の南は小さな町、村松町があって、その更に南には武家屋敷が続きます。中央区沿革図集の「延宝年中之形」(上図)を参照してみましょう。西本願寺の場所は「横山町2丁目南側町屋裏」という曖昧な表現が一般的になされていますが、この資料を見るとうなずけますね。

参考資料:

1) 中央区沿革図集

2) 白石孝: 「日本橋橘町商業史覚書-問屋と街-」

       (三田商学研究第41巻第6号 1999年2月)

3) 東京名所図会

 

 

中橋東側は下がっていた

[yaz] 2019年1月20日 09:00

現在の八重洲通りは、慶長17年(1612年)江戸城建設のための資材運搬用運河として掘られた紅葉川を埋め立てたものです。この運河(舟入堀)は、首都高速道路の江戸橋ジャンクションから京橋ランプの間の海岸線に10本掘られました。このうち8本は元禄3年(1690年)に埋め立てられました。八重洲通りの運河(紅葉川)は鍛冶橋~呉服橋間の外堀に連絡していました。延宝年間(1673年~80年)には、西半分つまり中央通りから外堀側の紅葉川(西側)は埋め立てられ延焼防止用の火除地となり、安永3年には京橋交差点から久安橋まで(紅葉川の東側)が埋め立てられて、それまでの火除地に「中橋広小路」という細長い町が出来ました。

中橋広小路の街並みを示す絵が、江戸名所図会に出ています。2つの道(中央通りとそれに直角に通る道)が描かれていますが、どちらが中央通りでしょうか?右から左に走る道が恐らく「中央通り」だと推測できますが、断定出来ますか?

中橋広小路(江戸名所図会).jpg

太い道には町人が多いですから日本橋・銀座の商業地をせわしなく歩いているのでしょう。左上から右下にクロスする道には武家・その使用人が歩いていますが、恐らく城中に向かうのでしょう。この推測を"正"とすれば、左右に向かう道は中央通りということになります。この状況証拠に基づく推測が正しいかどうかを分析してみましょう。

現存する沽券図で最も古い「宝永7寅年(南伝馬町図)」を見ると通町(現在の中央通り沿いのブロックです)の道幅は下図のようになっていました。宝永7寅9月書上担.jpg

  A=田舎間10間 B=京間6間 C=横丁・新道 京間3~4間(京間の1間は約2m、田舎間(江戸間)の1間は1.83mです) 

「宝永7寅年(南伝馬町図)」によると、中橋広小路の東側は中央通りから"XーA"間だけ下がっているのが判ります。これを理解した上で、江戸名所図を見てみましょう。中央通りと推測される街並みの庇を南北それぞれつないでみると(赤線)となり、東側が予想通り数間下がっているのが判ります。この考察から名所図会の左右に通る道は「中央通り」であることが判ります。ただXが幾つかは不明です。

 

 

 

八丁堀の「日比谷」?

[yaz] 2018年12月17日 18:00

『何を言っているのですか?』という声が聞こえてくる感じです。日比谷は「日比谷公園」のある日比谷に決まっているでしょと。でも八丁堀高橋そばに、日比谷神社・日比谷河岸があります。

 日比谷河岸地図_詳細.jpg

 

室町時代の長禄元年(1457年)、太田道灌が千代田城を築いたとき、天地の恵みに感謝して日比谷公園の地に奉斎したのが「日比谷稲荷神社」の起源です。徳川家康が入府すると、江戸城の大拡張工事が始まり、日比谷御門が建設されることになり追い出されました。代替地として環状2号線と第一京浜の交差点そばの現東新橋2-1に遷座しました。

日比谷神社(新橋).jpg

 

しかし稲荷の崇敬者は海岸に祀られないと困るとして、八丁堀の干潟を埋築して、社殿を造営し現在の地に遷座しました。

日比谷は日比谷入江であり、"ヒビ"を立ててノリを採っていました。古くから用いられたものに,小枝の多い「かし」や「なら」などの枝木や竹類を材料とした海藻粗(そだ)があります。1710年代には積極的に海藻を育てるために、粗が建てられるようになりました。安藤広重の「名所江戸百景」(1856~57)の一枚「南品川鮫洲海岸」に見事な海藻養殖場の風景が描かれています。

hibi.jpg 南品川鮫洲海岸_名所江戸百景_1856~57(小).jpg 

これで「八丁堀の日比谷の謎」が解けました。

 

 

(三浦)按針メモリアルパーク(伊東市)

[yaz] 2018年11月14日 18:00

2018年11月10日、中央区観光協会特派員仲間と私が所属しているボランティアガイド団体「東京シティガイドクラブ」の仲間計8人で、江戸城石垣採石場「宇佐美のナコウ山」を登ってきました。(こちらは第三弾として、1月に報告の予定です。)

下山後、伊東駅近くの三浦按針(ウィリアム・アダムズ)が洋式船を建造したと言われる「按針メモリアルパーク」を訪問してきましたので報告します。

按針は、江戸日本橋に屋敷を貰い日本橋大伝馬町の名主馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘を妻とし、ジョセフとスザンナの一男一女をもうけ、日本橋とは強い繋がりを見せています。1598年にヤンヨーステンと共にリーフデ号で東洋に向かい、乗員24名と共に大分県臼杵市に漂着しました。徳川家康は三浦按針の能力を高評価し、政治・外交顧問として徴用し日本橋の屋敷の他、三浦半島逸見村に二百五十石の領地を与えて厚遇しました。按針の名は、水先案内人を当時按針と称していたことによります。

慶長9年から11年の頃、家康の命令で浦賀水軍の総帥・向井将監と船大工一行とアダムスは、伊東の船大工を使い松川河口(唐人川合流地点)で日本初の洋式帆船80トンを建造し、この船で沿岸測量をしました。

造船所と考えられる場所は、「按針メモリアルパーク」のそばです。

 

按針メモリアルパーク指標.jpg

 

按針メモリアlパーク_地図.jpg

   

造船所と推定される場所に仲間と立ってみました。「想像より小さいな」というのが率直な印象です。

三浦按針造船所(2).JPGのサムネイル画像 PB100138.JPGのサムネイル画像

 

その後再び家康の命令を受け、外洋に出られる大型船120トンを建造し、慶長15年にこの120トンの船をイスパニア(スペイン)の提督ビベロに貸与して、アメリカを経てアカプルコ(メキシコ)に太平洋を横断して安着しました。     

         

三浦按針が制作した最初の洋式船.JPG

 

按針祭_花火大会.jpg

伊東市では洋式帆船建造進水を記念して毎年8月10日に按針祭を開催し、大花火大会を開催しています。私も昨年は見に行きましたが、すごい人出でした。

 

 

べったら市の旧名は「腐市(くされいち)」

[yaz] 2018年10月30日 14:00

宝田恵比寿神社を中心に、旧大伝馬町一帯(日本橋本町三丁目、大伝馬町)また堀留町にかけて「日本橋恵比寿講べったら市」が、毎年10月19日/20日に開催されています。既に終了してしまいましたが、友人が出店していましたので訪問し楽しい時間を過ごすことが出来ました。

"べったら漬け"は、麹と砂糖などの甘味料で大根を漬け込んでいるため、衣服にべったりとついてしまうことからきており、かつて若者が「べったりつくぞぉ~、べったりつくぞぉ~」と叫びながら縄に縛った大根を振り回し、参詣客の着物の袖につけてからかっていたという話です。ある意味、「婚活」ツールに利用してたということもあるかもしれませんね?

私はべったら市と呼ばれる前の名称「腐市(くされいち)」の話をしようと思います。

江戸末期に書かれた『守貞漫稿』27巻は、「10月19日の夜江戸大伝馬町腐市」から始まっています。中を読んでみますと、「又、新漬け大根を売る、所謂浅漬にて干大根を塩、糠を以って漬けたる、けだし糀を加えたるを良しとす。夜市等に之を売ること、唯この夜一夜(このよいひとよ)限れり」と記されています。特別製品には「麹(糀)」は入っていたのでしょうが、普及品には入っていなかったようですね。大伝馬町「腐市」_『守貞漫稿』.jpg

「べったら市」は19日限りのはずが、どうして19/20日の2日間になったのでしょうか?

注: 守貞謾稿(もりさだまんこう、守貞漫稿とも)は、江戸時代後期の三都(江戸・京都・大阪)の風俗、事物を説明した書物。著者は喜田川守貞。1837年(天保8年)に書かれ始め、約30年間書き続けて全35巻(「前集」30巻、「後集」5巻)をなした。刊行はされず稿本のまま残されたが、明治になってから翻刻されたが、1600点にも及ぶ付図と詳細な解説によって、近世風俗史の基本文献とみなされています。

 

 

江戸城石丁場遺跡「羽柴越中守石場」に登る

[yaz] 2018年10月 1日 18:00

江戸日本橋の小田原町の由来から、江戸城の石垣の石丁場遺跡に続く話を前月報告しました。実際に登ってみなければと考え、伊東市観光協会に連絡してガイドの方々の支援を得て登りました。その奮闘記を記述します。(道なき道、片側谷(注: 当然フェンスなし)の道、ロープを伝って上る道などを上り降りしますので、ガイドなしでの単独登山は非常に危険です)

日時: 2018年6月27日9:00集合

集合場所: 伊東線宇佐美駅

天候: 晴れ、31℃/24℃

予定通りの時刻に出発し、下の地図で示すように石切り場(ナコウ山)コースを通って頂上で「羽柴越中守石場」を見て、石切り場(白波台)コースを下る予定でした。しかし同行者が財布を登りの途中になくす事故があり探索のため同じコースを戻らざるを得ないはめになりました。国史跡を2度(息も絶え絶えでしたが)見る旅となってしまいました。

伊東市宇佐美_石切り場_地図(1).png 

江戸城石垣石丁場跡見学コース.jpg

宇佐美駅を出発した一行は駅脇の石丁場の説明板で全体像をつかんだ後、出発!!!!!!! 洞ノ入地区で発見された石を展示している郷戸(ごうど)公園をまず目指します。

宇佐美駅_石切り場紹介看板.jpg

  

郷戸公園(1).jpg

 

これから目指す「洞の入(どうのいり)」地区には、「石を掘り出す」「石を割る」「石の形を整える」「石に刻印を刻む」「完成した石を集積する」などの一連の工程を示す遺跡が集中しています。上記の築城石は、洞の入地区の砂防ダム付近から見つかったもので、洞の入地区に近い郷戸公園に保管し公開しています。刻印は「折敷(おしき)に三文字」といい、九州臼杵の稲葉家などが大阪城で同じ刻印を使っていることが判っています。

折敷に三文字.jpg

次に中央区立宇佐美学園(静岡県伊東市宇佐美545)に向かいます。以前は宇佐美駅の至近にありましたが、ナコウ山麓に移転しました。この学園前から「江戸城石丁場遺跡ハイキングコース」に向かいます。(まさか道なき道を続くとは知りませんで、元気いっぱい登り始めました)登り始めて後悔しても後の祭り。徳川家18代当主"徳川恒孝氏が揮毫した「江戸城石丁場遺跡」と書かれた石が左側に見えましたが、注目できません。

ハイキングコース看板.jpg

  

徳川恒孝筆_石狩場碑.jpg

ロープを伝って上る道(崖?)、片側が谷になった細い道(落ちたら大変)などが続きます。このような道を歩くときには余裕がありませんので、写真撮影は不可能です。だんだん脚が上がらなくなります。

次の写真は恐らく当時石を曳いた道と思えます。この「石曳き道」は作業場所と思われる区域の脇を通って、周りの地面から掘り下げられたような形状で続いたようです。道なき道の脇や上方や下方に、写真のような石が転がっています。

石曳き道(ナコウ山).png

 

残った石.jpg

 

大名家の印と思われるもの、何の印か判らないものなど、いろいろの印が刻まれた石が無数に残っています。仕事に従事した石工の印ではないかと思われるものもあります。伊東市教育委員会の調査によれば、これまでに30種類以上が見つかっています。今回登ったナコウ山・洞ノ入で見つかった石の刻印の素性を一覧表にしました。「まんじ」「〇に上」「三つ串団子」「矢筈(やはず)」など面白い刻印がありますね。「折敷(おしき)に三文字」も入っています。

洞ノ入地区刻印(1).jpg

洞ノ入地区刻印(2).jpg

 

石を割った「矢穴」のあとが残る「矢穴石」も無数にあります。土中から掘り出した自然石を江戸城の石垣に使う形にするには専門的な技術が必要です。石の性質を利用して思い通りに割っていきます。

ふうふう言いながら登っていくと、12:00頃にやっと頂上に到着しました。「羽柴越中守(細川忠興)」の石切り場です。昼食と休憩を約1時間。風が強く、頂上で立っていることもできません。(コンビニ・売店もないので弁当持参です)

石を割った跡を残した矢穴石.jpg 石切り場の標石.jpg

 ナコウ山の山頂.jpg     ナコウ山_山頂の地図.jpg    

東京からの同行者が「財布を落とした」と言い始めたので、白波台経由で帰る予定を急遽変更し往路をそのまま戻ることになりました。(こんな山の中に人が入ってくることもないので、財布は無事見つかりました。)

往路で疲れているせいもあって、下山もしんどいものでした。4~5回、転がりながら、江戸城石丁場遺跡前に帰還。記念写真撮影。

写真の後列の左右2名が伊東市観光協会のガイド、杖をついている私は前列。ガイドリーダが疲労困憊の様子を見かねて、杖を貸してくれたおかげでどうにか下山できました。伊東市のガイドの方の余裕のあること!

ヘロヘロの東京グループ.jpg

宇佐美駅到着 14:30 解散

  

【反省後記】

このような登山を伴うガイドに行く時には、次の点に注意すべきと感じました:

1) 一眼レフカメラのような重いものは持っていかないこと。リュックサックでも登るときに負担となる。→ 登り下りに集中しないと危険ですから、大型カメラでの撮影は不能ですから、持っていく意味がありません。

2) ジーパンは汗が出る季節には、脚を上げた時にまとわりつくので不適切。一層、疲労が増します。

 

ブログを見て、「江戸城石垣石丁場跡」登山に興味をお持ちいただければ幸いです。

11月初旬に再挑戦する予定ですが、今回のトライアルの結果を考慮し、軟弱な私も参加出来るよう今回ご報告した登山の半分程度のコースとなります。

 

 
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