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市川團十郎の外郎売

[yaz] 2017年10月14日 16:00

「外郎(ういろう)」とは何でしょうか。関東の人は、小田原の「ういろう」が歴史的には知られているものの、「羊羹(ようかん)のような食べ物?」「何かの薬の名前?」という具合で、いまだに漠然としています。  それもそのはずで、小田原の外郎家(ういろうけ)は、代々同じ名前をもつお菓子と薬を今も作り続けています。外郎は商品名であり、姓でもありました。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』のなかでは、弥次喜多は薬の外郎を菓子の外郎と勘違いして食べ、苦い顔をする場面がある。この外郎こそ、小田原の外郎である。『外郎は、菓子か、それとも妙薬か』──両方とも正解である。

 

歌舞伎ファンなら外郎と聞いて、市川団十郎の歌舞伎十八番の一つ、『外郎売』がまっ先に頭に浮かぶでしょう。こちらは薬の外郎で、相州(神奈川県)小田原の名産。江戸時代、この薬を世に知らしめたのは、まさにこの歌舞伎の演目『外郎売』だった。二代目市川団十郎が咳(せき)と痰(たん)の病で台詞(せりふ)を上手く言えず、舞台に立てなくて困っていたときに、外郎を服用して全快し、再び舞台に復帰できたという。こういう良薬を人々に知らせたいと、外郎家の承諾を得て団十郎自作自演の『外郎売』が出来上がり、享保3年(1718)、木挽町(中央区銀座、歌舞伎座裏付近)の森田座で初演された。  この演目は大当たりして、後に七代団十郎が「歌舞伎十八番」に名を連ねることになりました。外郎売の口上は現代のコマーシャルに相当します。

 

『外郎売』が今も有名なのは、その口上にあります。咳や痰の病気を治したということだけあって、すらすらしゃべり立てる早口言葉の連発です。その一部を紹介すると、

 

『...武具馬具ぶぐばぐ三ぶぐばぐ、合わせて武具馬具六ぶぐばぐ。菊栗きくくり三きくくり、合わせて菊栗六きくくり。麦ごみむぎごみ三むぎごみ、合わせてむぎごみ六むぎごみ。あのなげしの長薙刀(ながなぎなた)は誰(た)が長薙刀ぞ。...』。という具合で、誰もがどこかで聞いたことのある台詞です。外郎売の口上は、現在では、俳優・タレント、アナウンサーの養成所などで発声練習の教材として使われています。

 

薬広告.png 八棟造りの「ういろう」本店外観

小田原の外郎本家の屋敷。なかなかの建築です。

 

「外郎」と書いてなぜ「ういろう」と読むのでしょうか。外郎家の祖先に、中国の元の時代に「礼部員外郎(れいぶいんがいろう)」という官職に就いていた陳延祐(ちんえんゆう)という人物がいました。元が明に滅ぼされたのを機に、九州の博多に亡命し、陳外郎(ちんういろう)と名乗ったという。「外」は、元の時代の発音である"唐"音では「うい」であったためで、自然な成り行きとも言えます。これが「ういろう」の由来で、中国の官職の名前が薬や菓子の名前となりました。その子である外郎家二代目の宗奇(そうき)は、足利義満(室町幕府三代将軍)に京都に招かれ、中国(明)から薬を伝えるとともに、接待用の菓子も考案し、朝廷や公家・武家の要望に応えたといいます。薬は「透頂香(とうちんこう)」という名前を時の天皇から賜ったが、外郎家がつくることから、巷では薬も菓子も外郎(ういろう)と呼ばれようになった。  五代目の藤右衛門(とうえもん)は家業を弟に任せ、16世紀初頭関東で勢力を誇った北条早雲に招かれ小田原に移った。その理由は不明であるが、戦国武将たちは携帯できる「外郎」のような常備薬を必要としたのかもしない。京都の外郎家は天正年間(1573?1592)に途絶えたが、小田原の外郎家は残り、現在に続いている。全国にある菓子の外郎の多くは、京都の外郎家に仕えていた職人たちによって広まりました。

 

薬の外郎は銀色をした小さな粒状の丸薬である。痰をきり、口内清涼や消臭によいとされる大衆薬であり、江戸時代の人々にとっては万能薬だったようだ。仁丹に似ている外郎は、東海道・小田原宿の名物として知られ、携帯に便利な道中薬として多くの旅人が買い求めた。土産にも人気の高い、江戸時代に大ヒットした薬であるが、江戸では両国横山町(現中央区日本橋横山町)にあった太和屋加兵衛の店で買えたらしい。江戸の外郎売店として有名であったが残念ながら、今は横山町には店は見えない。

 

団十郎の外郎売の口上をYoutubeで見ることができるので、次のURLにアクセスして是非聞いてみてください。滑らかな"口"さばきをご鑑賞あれ!私にはできない!

https://www.youtube.com/watch?v=zjrZMhRTg78

 

 

 

スイス「ハンス・クルージー」展(銀座 永井画廊)

[yaz] 2017年9月 7日 09:00

スイス アール・ブリュットの巨匠ーハンス・クルージー展が銀座の永井画廊で9月1日から9月30日まで開催されています。数多くの制作物の中から約20点が展示されています。

永井画廊のオーナーは、テレビ東京の人気番組「開運!なんでも鑑定団」で絵画の鑑定をレギュラーで担当する永井龍之介氏。

河北新報東京支社ビル地図.jpg 

永井画廊は、花椿通りと並木通りが交差する角に位置する河北新報ビルの5F

東京都中央区銀座8-6-25 (TEL: 03-5545-5160)

 

9月1日訪問し、永井氏自らに説明していただきました。

永井龍之介(永井画廊).jpg.jpg

P9010011.JPG

 

 

【ハンスクルージーの紹介】

スイス・チュリッヒで孤児として育ち、55歳の時に独学で絵を始めたハンス・クルージー(1920~1995)は、路上で絵を売りながら生計を立て、安っぽい用紙やボール紙に身近な人物、小動物、牧場風景などを描いています。自然体で作為のない表現が魅力いっぱいの絵です。「どのような絵を描くのでしょうか」と問われると、回答に困るくらい多様な絵が展示されています。独学で勉強して描いていたので、多様な絵となったと考えられます。

Hnas Krusi&paint.jpg Hnas Krusi_flower selling.jpg

Gouache(グワッシェ)やフェルトペンなどで身近な対象物を描いています。

* グワッシェとは: 不透明な水彩絵具、またはこれを用いた技法、絵画。現代のグワッシュ絵具は、水溶性のアラビアゴムを媒材として顔料と混ぜたもの。18世紀のフランス,スイス,イタリアの水彩画家たちは、パステル調の発色をもつ表現を開発。20世紀に入ると、ポスターやイラストレーションなど幅広い分野で用いられています。

250px-Gouache.jpg

 

 

【作品について】

路上の花売り男"クルージー"は、20世紀前半スイスアールブリュットの三大巨匠ヴェリフリ、ミュラー、アロイーズを継ぐ後半を代表する作家と位置付けられ、1995年没後多くの遺作がスイスやフランスの美術館に収蔵されています。

画廊には20点程の作品が展示されていますが、その一部を紹介したいと思います。

魚が見える絵は、厚紙にミクストメディア 24.5x24.0cm 1990年制作です。絵の多くは制作年不明です。販売価格は20万円から数十万円です。

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余談ですが、生前歌声がテープに残っておりこれらが没後レコードやCDとなっています。ユーチューブにアップされていますので、興味のある方は是非聞いてみてください。

(私見としては、絵を見て感じる"ほのぼの"とした雰囲気は全く感じられません。鼻歌のような感じでした)

https://www.youtube.com/watch?v=0KRZr3m_kAc

https://www.youtube.com/watch?v=c9XPjFeCF28

 

 

一石橋(八ツ見橋)

[yaz] 2017年8月10日 09:00

一石橋は、常盤橋・銭瓶橋・道三橋・呉服橋・日本橋・江戸橋・鍛冶橋と一石橋自身の計8つの橋が見えることから、当初八ツ目橋と言われていました。一石橋_地図(八目橋).jpg

八見橋(一石橋)白黒浮世絵.gif 

広重_浮世絵_一石橋.jpg 銭瓶橋と富士山が見える広重の浮世絵です  

一石橋(日本橋から見る一石橋)道三掘.jpg  日本橋川から見た一石橋です

八目橋の位置関係.png

木橋の架け替えが最後に行われたのは明治6年(1873年)、その当時の記録によると橋長=14間(25.2m)、幅員=3間(5.4m)と言われています。想像ですが、江戸時代の橋もこの程度の大きさだったと予想されます。

満よひ子の志るべ

江戸期~明治期にかけて付近はかなりの繁華街であり、迷い子が多く出ました。当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元西河岸町の人々によって安政4年(1857年)2月に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」を南詰に建てました。

しるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られて、上部に窪みがありました。使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたということです。このほか浅草寺境内や湯島天神境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に数多く設置されたようです、現存するものは一石橋のものだけです。

昭和17年9月に東京都指定旧跡に指定され、昭和58年5月6日に種別変更され東京都指定有形文化財(歴史資料)に指定されています。

一石橋が話題に出てくる「十徳」という落語を一席紹介しますので、お寛ぎ下さい。

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ふだん物知り顔な男がおりまして、髪結床で仲間に「このごろ隠居の着ている妙ちくりんな着物は何と言う」と聞かれたが、答えられず、恥をかいたのがくやしいと、早速隠居のところへ聞きにまいりました。

隠居は自分が来ている着物を見せて、「これを十徳という。そのいわれは、立てば衣のごとく、座れば羽織のごとく、ごとくごとく(5+5)十徳だ」と教えました。(以下の2枚の写真は十徳を着た様子です。参考に示します)

十徳(立つ).jpg  十徳(座る).jpg (立てばシャクヤク、座れば牡丹という言葉がありますが、落語では「立てば衣のごとく、座れば羽織のごとく」と余り色気がありませんな)

「一石橋という橋は、呉服町の呉服屋の後藤と、金吹町の金座御用の後藤の二人が地震で倒壊した橋の架け替えのために金を出し合ったから、「ゴト(五斗)とゴト(五斗)で一石だ」とウンチクを一くさり。ここまでは良かったのですが、八さんは髪床に戻って、物知り顔で話し始めたのについた時にはきれいに忘れてしまって大弱り。一部省略 ・・・・「違った、立てば衣に似たり、座れば羽織に似たり、ニタリニタリで、うーん、これは(2+2)したり

結局八さんは、ごとくごとくで十徳という説明をする積りが、(2+2=4)したりとなってしまう一席でした。

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このように名称のいわれが落語に出てくるほど一石橋の名称の由来は有名なものでした。

落語は文章を読むものではなく、聞くものですね。お粗末。Youtubeで談志等の「十徳」を聞くことができます。ブログを見ながら聞いて笑っていただければ幸いです。

 

 

中央区立阪本小学校

[yaz] 2017年7月 7日 09:00

私は現在72歳。父も母も卒業した中央区立阪本小学校を60年前に卒業しました。中学校は紅葉川中学校、生徒数の減少で廃校となり、日本橋中学校と有馬中学校と合併し私にとっては「なし」の状態です。さみしい。同様に子供の減少があるにも拘わらず、現存している阪本小学校は末永く残ってほしいものです。関東大震災後の復興小学校の校舎(鉄筋コンクリート)を壊して、平成31年初頭(2019年)に新しい校舎に移るという話なので、現校舎を見せてもらいました。私の会社のオフィス(生まれて育ったところ)から徒歩3分程度の所にあるにも拘わらず、卒業後は訪問したことがないので、許可を取って内部を見てきました。

(最近は物騒なので、勝手に入るわけにはいきません)

「併設幼稚園がなくなった・用務員室の場所が変わった」以外、基本レイアウトは変っていないので60年前を思い出しながら"一人で"歩き回りました。(良く許可してくれたと、思います)

阪本小学校歴訪の機会を与えて頂いた校長先生はじめ関係者の皆様に感謝いたします。

 

【阪本小学校の歴史】

この学校は明治6年5月(1873年)元熊本藩主細川家の下屋敷であった場所に、『第一大学区第一中学区第一番小学 阪本学校』と称して開校した。一部九鬼式部邸にもかかっているかもしれません。この辺りは坂本町という名の町が傍にあるので、坂本小学校と名付けたようですが、現在坂本町は存在せず兜町となっています。(いつから"阪"になったのかの理由は不明です)

阪本小学校用地(細川邸).png 阪本小学校開校の説明.JPG

 

開校時の生徒数は36名であったが、木造校舎を新築した明治7年4月には267名に増えています。明治13年には校名を 公立阪本小学校、同女子小学校と称しました。明治22年には男校舎を取り除き女校舎に合併し、男女授業を隔日としたとのこと。(学校でも、男女"6"歳にして席を同じゅうせずですね)この時木造総二階の新校舎が落成しました。

木造校舎.gif

大正12年9月1日 関東大震災に羅災。校舎は全焼。東京市は罹災後の救助、救援活動などで学校建築の重要性を認識し、東京市臨時建設局学校建設課の共同設計による「復興小学校」の建設を急ぎました。中央区には、阪本小学校の他、明石小学校・城東小学校・泰明小学校・中央小学校・常盤小学校・京華小学校・十思小学校などが当時の建築様式を現在も残しています。復興小学校の建築方法が見直され、保存運動が持ち上がっているようです。

 

復興小学校(阪本)建築現場.png 

昭和3年 3階建て鉄筋コンクリート校舎落成

 

築89年、現在も当時の校舎が使われています。なくなってしまうのは残念です。(新校舎の設計図は未だ出来ていないようなので、現校舎の一部が保存されるかどうかは不明です)

kousha_p.gif

 

平成11年2月 125周年記念式典(講堂で開催されたようです)

125周年記念式典.gif

 

【阪本小学校の現状】

入り口の像は「少女」というタイトルで、山本正道氏作品です。

阪本小学校入口.JPG

 

文部博士中村孝也 作詞
東京音楽学校   作曲
一 富士の高嶺の白雪も
   登らばついに掬ぶべし
   学びの山も麓より
   撓まず倦まず踏み分けむ(ん)
   名も阪本の我等の学び舎
   仰げば遠し 空のあなた
二 赤き心のもみじ川
   月を浮かべて流れゆく
   教えの海に漕ぎ入りて
   底の真珠を探りなむ(ん)
   名も阪本の我等の学び舎
   行手は広し 浪のあなた

 

現在は富士山も見えないし、紅葉川(もみじ川)も埋め立てられて高速道路、寂しい限りです。校歌だけは60年前と変わらずうたわれています。

現在の全校生徒数は、男子86名・女子71名 計157名。学区は兜町・茅場町ですが、学区外からの生徒が半数程度いると考えられます。60年前は学区内の生徒だけで、6年時生徒数は55名、1クラスでした。学区外の生徒受け入れて、廃校にならず頑張っています。

阪本小学校学区域.JPG

 

【校舎改築】

2016年2月15日発行の建通新聞によると、

「地下2階地上6階建て延床面積約1万4000平方㍍の新校舎を建設し、別地の再開発で一体的に建て替える城東小学校を一定期間併置する計画だ。建築設計の競争参加有資格者を対象に2月25日~3月2日で参加表明書、3月22日~4月1日で技術提案書を受け付け、4月中旬をめどに委託先を決めて契約を結ぶ。2017年第2回区議会定例会付議案件として本体工事を発注し、19年2月に完成させて同年4月の開校を目指す。  阪本小(日本橋兜町15ノ18、敷地面積3370平方㍍)の現校舎は鉄筋コンクリート造地下1階地上3階建て延べ3667平方㍍。1928年の完成で、隣接の坂本町公園(日本橋兜町15ノ3、面積5009平方㍍)とともに関東大震災の復興事業で整備した。老朽化が進み、毎年のように改修を実施していることから、良好な教育環境を確保するため改築する。「八重洲二丁目1地区」の再開発で一体改築する城東小(八重洲2ノ2ノ2)を21年度まで併置するため、新校舎は完成時に2校分の普通教室として18室を用意する。また、阪本認定こども園(仮称)の保育室6室も設ける。  16年度は新校舎の基本・実施設計と並行して、坂本町公園内に阪本小と城東小の仮校舎を設置。17~18年度で現阪本小の校舎の解体と新校舎の建設を実施して、仮校舎の撤去後の19年度に坂本町公園を復旧する。  基本・実施設計業務の契約上限金額は1億7610万円(税込み)。16年度予算に計上し、4月中旬~17年3月15日の履行期間で成果を納めてもらう予定だ。プロポ手続きを通じて「阪本小学校及び阪本認定こども園(仮称)の施設像」に関する技術提案を求めることにしている。」

現時点のスケジュールは以下のようになっています。平成29年6月30日に阪本小学校を訪問しましたが、現校舎は存在し授業も行われていますので相当の遅れが出ているようです。

 

平成28年度末: 仮校舎完成の予定

平成29年度初頭: 仮校舎へ引っ越し

平成29年度: 現校舎解体開始

平成30年度末(2019年3月): 仮校舎での授業

平成31年度初頭: 新校舎へ引っ越し

阪本小学校建築申請.JPG

 

【校内レイアウト】

主事室(昔の用務員室ですかね?)の位置・幼稚園の有無・給食室の位置変更を除けばレイアウトは60年前と変わっていませんでした。信じられない!

阪本小学校校舎レイアウ�.jpg 阪本小学校校舎レイアウト(2).JPG

 

現存するオールドファッションな校舎内を幾つか紹介しましょう:

入り口に入って左折した突き当りにある木製の階段と、2Fの廊下です。

階段.JPG 3F階段を上って、右廊下.JPG

 

2Fから運動場をのぞいてみました。60年前もそうでしたが、「狭い」という印象は同じです。見ても判るように、徒競走する時も直線コースが取れません。グラウンドはコンクリートですから、転んだら間違いなく怪我をします。徒競走するとコーナーが必ず2つ設定されるので、非常に危なかったという感じが60年前もしましたが今も全く変わっていません。右側の写真は運動会を開催した時のものです。狭くてもどうにかなるものです。

阪本小学校平成通り側階段2Fから運動場を.JPG 阪本小学校運動会(2).JPG

 

私にとって、阪本小学校で最も印象的なものは"古~~~~~い"巨木の銀杏の木と、講堂です。銀杏の木は校舎よりも高いかもしれません。60年前でも直径が50~60cmはあったように思いますので、細川邸時代にあったのかもしれません。樹齢200年以上?

講堂は面影を残しながら体育館になってしまいました。集会として利用する舞台は60年前のものと同じ感じ。写真の右端に写っています。

3Fからの景色(銀杏の木).JPG 体育館内部.JPG

 

 

 

ミュゼ 浜口陽三コレクション

[yaz] 2017年6月13日 12:00

2017年6月8日、日本橋小網町の醤油会館を訪問しましたが、全国の醤油がペットボトルに入った状態で展示されているのをみてここを去り、ロイヤルパークホテル前の日本橋蛎殻町1-35-7 水天宮HSビルにヤマサ醤油10代目の三男で銅版画家・浜口陽三コの作品を紹介する「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」があることを思い出し訪問しました。醤油つながりです。

 

ヤマサ醤油の倉庫として機能していたスペ-スを改装したので、隠れ家のような雰囲気の美術館です。1階と地下が展示場となっています。昔地下には醤油樽でもあったのでしょうか?今はしゃれたインテリアとなっており、1Fと2Fの間はスパイラルの階段でつながっています。近くに首都高速6号線が走っていますが、全く騒音は聞こえず静かな雰囲気で観賞できます。

 

住所: 東京都中央区日本橋蛎殻町1-35-7 

(現在は「千一億光年トンネル」というタイトルで、浜口陽三の銅版画と若手アーティストの作品(浜口陽三・奥村綱雄・Nerhol・水戸部七絵)が展示されています。2017年8月6日までの開催です。)

Musee浜口陽三_地図.jpg

IMG_0413.JPG IMG_0409.JPG

1F展示会場 IMG_0411.JPG 

 

 

浜口陽三は、1909年(明治42年)4月5日、和歌山県有田郡広村に生まれました。浜口家は代々「儀兵衛」を名乗るヤマサ醤油の創業家であり、陽三は10代目浜口儀兵衛の三男に当たります。東京美術学校(現・東京藝術大学)では彫刻科塑造部に入学しましたが、2年で退学しパリへ渡航し、パリ滞在中の1937年(昭和12年)頃からドライポイント(銅板に直接針で図柄を描く、銅版画技法の一種)の制作を試み、版画家への一歩を記し始めました。浜口は20世紀におけるメゾチント技法の復興者として国際的に知られます。メゾチントは「マニエル・ノワール(黒の技法)」の別名でも呼ばれる銅版画の技法の1つで、銅板の表面に「ベルソー」という道具を用いて、一面に微細な点を打ち、微妙な黒の濃淡を表現するものである。こうして作った黒の地を「スクレイパー」「バニッシャー」と呼ばれる道具を用いて彫り、図柄や微妙な濃淡を表します。この技法は写真術の発達に伴って長く途絶えていたものですが、浜口はこの技法を復興させると共に、色版を重ねて刷る「カラー・メゾチント」の技法を発展させたことで知られています。下の左側の写真は浜口が使用した道具群、右は版が完成した後印刷する際に使用したプレス機です。

浜口陽三の使用した道具.jpg  プレス機.jpg

長く海外に滞在後1996年(平成8年)に、日本へ戻り、2000年(平成12年)12月に没するまでの数年間を日本で過ごしました。このミュゼ浜口・ヤマサコレクションは1998年に開設されました。

 

浜口は作品のモチーフとして、ブドウ、さくらんぼ、くるみなどの小さな果物や貝、蝶などの小動物を多く取り上げ、空間を広く取った画面構成で逆に小さな対象物を際立たせる手法を好んで用いました。コレクションとして展示されていた作品の一部を紹介します。(これらの作品の写真は、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション殿の好意により提供されたものです。他への転載は禁じます)

浜口陽三「14のさくらんぼ」 1966年 カラーメゾチント 52.3×42.4cm.jpg 

浜口陽三「14のさくらんぼ」 1966年 カラーメゾチント 52.3×42.4cm

浜口陽三「ざくろ(版画集『Hamaguchi's six original color mezzotint』6点組)」 1978年 カラーメゾチント 11.6×11.5cm.jpg 

浜口陽三「ざくろ(版画集『Hamaguchi's six original color mezzotint』6点組)」1978年 カラーメゾチント 11.6×11.5cm

浜口陽三「1/4のレモン」 1976年 カラーメゾチント 15.5×15.3cm.jpg

浜口陽三「1/4のレモン」 1976年 カラーメゾチント 15.5×15.3cm

浜口陽三「西瓜」 1981年 カラーメゾチント 23.3×54.1cm.jpg 

浜口陽三「西瓜」 1981年 カラーメゾチント 23.3×54.1cm

ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション夏の企画展: 「千一億光年トンネル」

作品: 浜口陽三・奥村綱雄・Nerhol・水戸部七絵

会期:2017年5月20日~8月6日の期間、

開館時間: 平日11:00~17:00/土日祝10:00~17:00(最終入館16:30)

入館料: 大人600円/大学・高校生400円/中学生以下 無料

休刊日: 月曜日

詳細は、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションに問い合わせてください。

    Tel 03-3665-0251

(これらの作品の写真は、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション殿の好意により提供されたものです。他への転載は禁じます)

 

 

熈代勝覧裏話

[yaz] 2017年6月10日 09:00

先日元江戸東京博物館都市歴史研究室長・淑徳大学人文学部客員教授である小澤弘氏の『200年前の日本橋繁盛 熈代勝覧(きだいしょうらん)』という講義を聞きました。聴講内容の印象が薄れないうちに書いた方が良いと考え、ブログ・ネタは他にもあるのですが選択しました。Wikipediaでは得られない面白い情報を紹介します。

 

この絵巻は西暦2000年にドイツのプロシア文化財団ベルリン東洋美術館(現ベルリン国立アジア美術館)で日本の絵巻が展示されました。それは200年前の日本橋通りを描いた『熈代勝覧』という絵巻でした。この絵巻がいつドイツに渡ったのかは不明ですが、ベルリン自由大学のキュステル教授夫妻がこの美術館に寄託したコレクションの中の一点でした。

 

その後熈代勝覧は2003年1月に日本に里帰りし、東京都江戸東京博物館の江戸開府400年・開館10周年記念特別展「大江戸八百八町展」で初めて全巻をくり広げて展示されました。2006年に1月にも三井記念美術館の会館記念特別展II「日本橋絵巻展」へ再来し、2009年11月には東京メトロ"三越前駅"地下のコンコース西側(三越側)に、熈代勝覧の複製絵巻が展示されるようになりました。本園2月18日から4月9日まで開催された江戸東京博物館の特別展"江戸と北京-18世紀の都市と暮らし"で熈代勝覧を実際に見ることができました。

 

091130_06.jpg

熈代勝覧の絵巻は日本橋から神田今川橋に至る日本橋通り(中央通り)のおよそ7町(760m)の西側を俯瞰図法で描いています。88軒の店舗とその前を行き交う人・犬・馬・牛・サル・鷹を描き、江戸の武士・町人・僧侶・乞食などの日常生活を生き生きと描いています。丙寅の大火の前年である文化二年(1805年)の焼失する前の街並みが書かれています。題箋に『熈代勝覧 天』と書かれていますので、他に「地」「人」の巻があったと思われます。3巻のうちの1巻なのですね。

 

「地」「人」の巻には何が書かれていたのでしょうか?例えば、どちらかの巻物には日本橋通りの東側(三越の反対側)が描かれていたかもしれません。それが存在すれば、私が興味を持っている「長崎屋とオランダ館、時の鐘」についても詳細な情報が判ったでしょう。あるいは今川橋の先の神田方面が書かれているという話もあるようです。これがどこかで発見されれば、大発見です。

 

犬や馬、牛なども書かれていて江戸時代の生活が良く分かります。

熈代勝覧_犬.jpg

 

熈代勝覧の末尾には日本橋の高札が描かれています。お触書(御定書)が三つ。

一つ目は、正徳元(1711年)5月に奉行から出された御定書

* 親子兄弟夫婦をはじめ諸親類にしたしく、下人等に至迄是をあわれむべし。主人有輩は各々方向に精出すべき事

* 家業を専にし惰る(おこたる)事なく、万事其分限に過べからざる事

* いつわりをなし、又は無理をいひ、惣じて人の害になるべき事すべからざる事

* 博打の類一切に禁制の事

* 喧嘩口論をつつしみ、若其事ある時みだりに出合べからず。手負たる者かくし置べからざる事・・・・・・・

二つ目はキリシタン宗門禁令、三つめは享保6年の鉄砲に関する法令。

「御定書」の内容などは、江戸時代ばかりでなく現代にも通用する言葉ですね。ドラッグや博打で逮捕される芸能人2世には耳の痛いお触れですね。芸能人の家の前に「高札」を立てたらどうでしょうか?

 

参考資料:東京シティガイドクラブ平成29年度第一回セミナー: 200年前の日本橋繁盛 熈代勝覧 講師 元江戸東京博物館都市歴史研究室長・淑徳大学人文学部客員教授 小澤弘氏