[yaz]
2018年9月 5日 12:00
江戸時代、日本橋には本小田原町という場所がありました。現在の室町三丁目付近です。なぜ江戸に小田原という名前がついた町が作られたのでしょうか?築地には今も「築地警察署小田原町交番」という地名が残っています。「小田原町がないのになぜあるの?」という疑問を持ち調べてみたところ、伊豆の石切り場にたどり着きました。2回のシリーズものとして書きます。
9月号 江戸日本橋の「小田原」って?
10月号 石垣の"石"を供給した「伊東市宇佐美のナコウ山に登る」
日本橋北詰の「小田原町」は、町の名は小田原の石工善左衛門が当地を石揚場(舟で運んだ石材を荷揚げする所)として拝領したことが起源だという説がありますが、傍に堀はありますが大きな石を荷揚げする程のスペースがあったとは思えません。恐らく実際に石を荷揚げしたのは、「鎌倉河岸」か楓川の舟入運河ではないかと予想されます。外堀と今は高速道路となっている「楓川」の間の堀であった「紅葉川」は開掘後、数十年後には使用目的を果たし埋められてしまいました。
「小田原町」には魚市場(日本橋魚河岸)が開かれ、石工達は築地に移転して「南小田原町」と称したのではないでしょうか?確かに築地は日本橋の南に位置しています。その結果、日本橋北詰の「小田原町」は「本小田原町」と改称しました。
江戸城の石垣には諸大名の家紋に相当する刻印が打たれていますが、石はどこで採掘され刻印はどこで打たれたのでしょうか?
慶長8年(1603年)徳川家康は江戸に幕府を開き、「江戸城」の大規模な改築工事を行います。この工事は、諸国の大名に命じ、慶長9年(1604年)から寛永13年(1636年)ごろまで、家康・秀忠・家光の三代、約30年にわたって続けられました。この時、石垣に使う石が伊豆半島から切り出されました。真鶴・根府川付近からは安山岩系の石を採掘しました。風化しにくく耐火性に優れています。熱海から伊豆稲取に続く伊豆半島の山からは、凝灰岩系の石を採掘しました。凝灰岩系の石は耐火性が優れているだけでなく、加工しやすく運びやすいという利点がありました。
石垣を切り出した跡を「江戸城石丁場遺跡」と呼び、小田原市・熱海市・伊東市の石丁場(いしちょうば)は「国指定史跡」として認められています。遺跡は森の中に隠れています。中央区の小学生数十人を毎年受け入れている中央区立宇佐美学園の山奥に「宇佐美江戸城石丁場遺跡」があります。この遺跡には石垣に使うために加工した「江戸城築城石」が無数残っています。大名の家紋などの「刻印」が刻まれ、江戸に向けて運び出すばかりになったものも数多くあります。山で切り出され加工された築城石は、「修羅」(下の写真)と呼ばれるそりなどに乗せられ、大勢の手で曳かれて海岸まで運ばれます。海岸から「石船」に乗せられ、相模湾を通り江戸まで運ばれますが、多い時には江戸と伊豆の間を月に3,000艘の石船が行き来したそうです。
九州の大名細川忠興公の石丁場遺跡が宇佐美のナコウ山にあります。ナコウ山の命名の由来は、石切り場の環境が非常に悪く石工が「泣く」ことからと言われています。私が踏破した(軟弱な私は踏破ではなく、伊東市観光協会のガイドさんに引っ張って貰って下山しました。最後には両股痙攣です。)山中で撮影した写真を次回お見せしますが、コンビニやの繁華街など考えられない環境ですから、「泣く」=ナコウというのは、体験した私は想像できます。海岸まで運ばれてきた築城石の一部は何らかの理由で石船に積むことが出来ず江戸まで運ばれないものもありました。宇佐美の海岸全体には、「矢穴石」(やあないし)や「刻印」のある多くの石が水につかっていたり砂に埋もれています。
石材の価格は「当代記」(寛永年間(1624年~44年))によると、「百人持ちの石は銀20枚」相当ということですから、初期慶長銀(161g)をほぼ金1両と仮定すると、石1個で200万円弱ということになります。大名にとっては相当の負担だったのですね。
石切り石を運ぶのは容易なことではありません。
次に示す写真のような山道を下ろしてきたのです。350m程度の山でも"石が転がり木片が転がった「道なき道」"を行くことは難儀でした。期待してください。
10月中旬以降に「江戸城石垣石丁場跡(伊東市宇佐美)」に再度挑戦の企画中です。
[yaz]
2018年8月10日 12:00
月島地区をテーマに書くブログ最終回です。約100年前の東京のウォータフロント"月島地区"に海水浴場がありました。明治期に海水浴流行のきっかけをつくったのは、陸軍軍医総監の松本順(良順)で、医療とレクリエーションをかねて海水浴を奨励しました。
明治24年(1891年)大森海水浴場が、明治35年(1902年)には穴守海水浴場が、明治42年(1909年)には羽田海水浴場が開設されました。砂風呂などが人気を取り、大いに賑わったといわれます。大正時代に入ると「海水浴場」が都心を越えて月島・深川地区に波及し、大正2年(1913年)に完了した三号地の埋立(勝どき5~6丁目)と共に開設された月島海水浴場には、料理屋や宿泊施設・海の家が整備され大いに繁栄しました。下の地図では(三号地)の左側(西側)に海水浴場が見られます。
海水浴の様子を示す写真を見ると、今からは考えられない「ふんどし」姿の人が数多くみられます。
1930(昭和5年)年代になると、「海水浴場」は衰退し始めます。埋め立て・海水汚染のためです。
第二次世界大戦後、高度経済成長期を迎えたこともあり、東京に海水浴場がよみがえることはありませんでした。月島も然りです。今日の東京の海は海水浴には不適当な状況にありますが、人工海浜や親水護岸などの整 備も進んでおり、さらに水質の改善が進行することによって、将来再びそのにぎわいを取 り戻すことに大きな期待が寄せられている。
参考文献:
1. 平成17年度日本大学理工学部 学術講演会論文集「東京のウォータフロントにおける余暇文化の変遷に関する研究」
2. 中央区沿革図集(月島編)
[yaz]
2018年8月 8日 14:00
東日本大震災以降、南海トラフを中心とした大地震の到来を心配しています。関東大震災時の東京府における推定震度から中央区の地層を考えてみたいと思います。
山の手・下町を含む江戸には埋め立てと堀の造成の歴史があります。江戸開府直後に、本郷台地から続く江戸前島の埋立により日本橋・銀座地区が作られ、日比谷入江を埋め立てて日比谷・有楽町・丸の内地区の武家屋敷地域が作られました。江戸時代には月島・晴海地区は海でした。
関東大震災時の東京府の震度分布を見てみましょう。赤坂溜池・麻布十番や江東区の赤数字(震度7相当)が気になります。
埋め立てられて造成されたのではない佃島は、隅田川の上流から流れてきた土砂が自然に堆積してできた土地であることから、標高は月島・勝鬨地区よりも高くなっています。関東大震災時の震度は"5"程度だったようです。一方隅田川を浚渫した土砂を使って埋め立てられた土地である月島・勝鬨・晴海地区は関東大震災時の震度は"5~6"程度だったと言われています。
埋立地だから月島・勝鬨地区の関東大震災時の震度はもっと大きいのではないかという先入観を持っていましたが、銀座・日本橋程度で小さくてびっくりしています。
今の中央区には江戸前島と呼ばれた砂洲がありました。その西側は、日比谷から大手町にかけて日比谷入江が入っていました。開府後すぐ、幕府は埋め立てをしました。
隅田川の東側は地盤が悪く、西側は地は良いと言われています。しかし一部洪積地盤に穴があいて、そこに沖積地盤が入り 込んでいるので、大手町側に激震地域があります。一方、江戸前島の地盤の良さは明確です。
不動産を購入する場合には、古地図を見て地形を確認しましょう。「山の手なら安心、下町は危ない」という地名だけに踊らされないように!関東大震災発生日=9月1日の前に一言でした。
[yaz]
2018年7月10日 09:00
注*: 前月以前のブログを参照してください。
「勝どき・晴海は月島だった」
/archive/2018/05/post-5168.html
「水上生活者(月島地区)」
/archive/2018/06/post-5158.html
水上生活者の増加に伴い、福祉厚生を考える必要が出てきました。福祉向上のため東京尋常小学校が1930年(昭和5年)月島8丁目(中央区勝どき1-11)に開校しました。隣が月島小学校の分校(現月島第二小学校=現勝どき1丁目にあるにも拘わらず、月島名がついています*)です。この分校は2号地(勝どき地区)の子供たちのために作られた小学校で、隣が日本倉庫で、斜め正面に鉄骨試験所がある行き止まりの通りの奥にありました。開校当時はまだ晴海通りも勝鬨橋もありませんでした。
開校時の間取りは、教室3ケ、寝室2ケ、事務室・食堂・寮母室・炊事室・洗面所などで構成され小さくまとまっていました。
開校時の生徒数は32人、教員は3人と校長・寮母1人、炊事婦2人という所帯でした。学級は1~2年ひとクラス、3年以上がひとクラスでした。翌年1931年(昭和6年)からは低中高の三クラス制になりました。
東京水上小学校は、開校後しばらくして東京市立水上小学校となり学童の数も少しずつ増加し、校舎も改築を重ねました。1941年第二次世界大戦の開戦と同時に、水上国民学校となりました。軍国主義に湧く世情の変化を受けて、子女の教育ではなく兵士育成のための場となり、同時に銃後を支えるための奉仕の場となりました。水上国民学校もまた、戦争遂行のための海員育成の場に変えられていきました。
1943年(昭和18年)4月1日、江東区深川浜園町に分校ができました。(昭和43年4月1日、浜園町は住居表示制度の実施に伴い、浜園町と塩崎町の名から「塩浜」となり、現在に至っています)戦争の悪化に伴い学童は茨城県新治郡に疎開しましたが、1945年10月25日には学校は再開されました。
水上生活者が暮らす船はセージと呼ばれる部屋が船底にあり、その大きさは2畳(6.6㎡)から3畳(10㎡)程で、家族があれば親子数人がここに寝泊まりしていました。ダルマ船は仕事場が転々と変わるので、子供たちは就学が難しく未就学児も多かったし、戸籍を持たない子さえいたという話です。
水上生活者の出身は千葉県が多く、戸籍を千葉房総に置いたまま船内で暮らすために、現住所がなく子息の就学もままならないこともあったようです。水上小学校の設置はこのような状況を解決するために設置されたともいえるでしょう。
水上小学校は全寮制ですが、子供たちは週末だけ船に帰りました。週末、子供たちにとって悲劇が起こることがありました。「自分のなつかしい家(船)がみつからない」停留している場所にセージが見つからないことがありました。そのようなときには、子供は憔悴して学校に戻ったということです。しょげかえった子供達の様子が目に浮かぶようです。
[yaz]
2018年6月22日 09:00
東京という都市は、今なお東京湾口に向けて伸び続けています。お台場の沖合で今も中央防波堤外側埋立地の造成が続いていますが、この事業は昭和52年(1977)に開始され、未だ事業半ばです。家康が埋め立てを開始して今なお続けるこの事業は、明治時代に入ると月島から始まりました。江戸時代には陸で壕や河川を造成するとき発生する土砂を廃棄して埋め立てましたが、明治時代には海底を浚渫して発生した泥土を埋め立てて陸地を造りました。
明治25年(1892)の東京湾澪浚(みおさらい)事業で海底泥土を浚って積み上げて生まれたのが月島1号地です。続いて2号地、3号地(現在の勝鬨、豊海)、4号地(現在の晴海)と沖合に細長く伸ばしていきました。この澪浚事業は、同時に隅田川河口改良工事でもありました。長年、隅田川が海底に運んだ泥土を取り除いて航路を整備したのです。
月島・佃島の川筋には、伝馬船や達磨船あるいは発動機船などの艀(はしけ)が多くみられました。貨物船で運ばれてきた品物を大艀と呼ばれる比較的大きな船で集配し、品物を積み替えた小艀で陸揚げしたら、川筋を輸送します。大正から昭和にかけて東京市とその周辺を流れる河川は69あり、輸送には水運が便利でした。水運に従事する艀の数は昭和2年(1927年)末の水上署の調査によれば11,290隻で、艀は所帯ごとの仕事場でもありました。その人口は31,036人(男性20,600人、女性10,436人)であり、その半数以上が陸上に家を持たない水上生活者でした。仕事場であり生活の場である艀は、大きくても50トン、小型では10トン以下でした。寝起きする部屋の大きさは2~3帖という小ささでした。ここで家族3人~4人が生活していたわけです。こうした住民の福利厚生を行うために水上会館や水上学校(陸上に建てられた寄宿形式の学校)が建てられたほか、治安を担当する水上警察署などが設置されました。昭和2年当時の中央区(=日本橋区・京橋区)の正確な人数は不明ですが、グラフからすると24万人程度でしょうから、水上生活者だけで10%以上を占めていました。
2018年2月現在の月島地区(月島・勝どき・晴海)の人口は72,780人・世帯数は37,443です。中央区の人口(=157,388人)46%を占めています。いつの時代も中央区の人口はウォータフロントで持っていると言っても過言ではないでしょう。
水上生活者の方々には戸籍のない人も多くいたようですので、実際の割合は上記数字以上であったと予想されます。
1960年代後半になると、貨物船のコンテナ船化が進み、物流における艀の需要が減って職住一体となった艀は減少し、水上生活者も転職などにより激減します。一方で、艀の廃船を係留して住宅の代替として利用するケースが多くなりましたが、1980年代になると艀の老朽化が進み、使用に耐えられなくなりほぼ見られなくなりました。
[yaz]
2018年5月 9日 18:00
先日月島地区のガイドをするために、興味のありそうなことを調査をしました。そこで紹介した面白そうなテーマをいくつかシリーズで紹介します。1回目は"「勝どき・晴海」は月島だった"という信じられないテーマです。
明治22年(1889年)に東京府の行政区画として、市制・町村制が施行され、東京市が成立しました。現在の中央区に相当する地域は、日本橋区と京橋区に2分されました。昭和18年(1943年)に東京府と東京市が廃止されて、新たに東京都が置かれ、これら2区は他の33区と共に東京都直轄区となりましたが、昭和22年(1947年)これら2区が合併して中央区となりました。
昭和22年(1947年)に京橋区は廃止され、「月島・勝どき・晴海」地区は月島1丁目から12丁目までの横長の地区でした。例えば、月島通一〜十二丁目は、
一〜六丁目が1892年(明治25年)に、七〜十一丁目は1894年(明治27年)に、十二丁目は1913年(大正2年)に「月島」追加されました。
月島西仲道・月島西河岸通・月島東仲道・月島西河岸通も同様の丁番指定の過程を経ました。現在の町名との対応を見ると以下のようになっています。
勝鬨1丁目~勝鬨6丁目・晴海の区域は昭和40年(1965年)以前はすべて月島でした。そのためこの時期以前に作られた施設には、現在勝鬨・晴海にあっても依然として「月島」名が残っています。例えば、月島第二小学校・月島第三小学校・月島警察署・月島消防署など。また私的企業でも支店名として「月島」名が見られます。
月島名が残る公的機関例を以下の地図に示します。
次回からは、昭和の初頭からあった「水上生活者」の話・水上小学校・月島の海水浴場そして「時によると都庁舎は晴海地区にあったかも」という話を続けます。他の地区にはないユニークな特徴を持つ月島の一面を紹介します。