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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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中央区のマンホール

[yaz] 2018年4月17日 18:00

アートなマンホールが足元に!!

 街を歩いていると道路でいろいろのマンホールを目にします。街のシンボルや名所などが描かれたデザイン性の高いものも発見します。マンホール蓋をカードにしたコレクター魂をくすぐるマンホールカードいう一品もあります。残念ながら中央区章の入ったマンホールカードはありませんが、東京都の下水道局の施設を見学すれば、以下のような東京23区のマンホールカードが無料で貰えます。

manholecard01.jpg 

因みにこのカードは「蔵前水の館」(台東区蔵前2-1-8 北部下水道事務所 TEL: 03-3241-0944)の施設見学者に無償配布されます。見学は予約が必要で、1週間以上前に予約してください。

上下水道・電話・電気・消防署などいろいろのマンホールがあるので、散歩のお供は「マンホール蓋」と思って下を向いて歩いたらいかがでしょうか?

1. マンホール蓋

マンホールの素材は現在「FC」(鋳鉄)とFCD(FCDには、ダクタイルとか球状黒鉛鋳鉄と呼ばれるものが添加されています)の2種類があります。敷地内マンホールの14トン以下のものはFC200という材料が使用され、敷地内用マンホール20トン用ではFCD500が使用される場合が多いようです。また道路用のグラウンドマンホールでは蓋はFCD700,枠はFCD600が使用されています。

鋳鉄または球状黒鉛鋳鉄製マンホール蓋以前には、蓋はコンクリート・型枠はFCというものもありました。数は少ないですが、未だ見られます。

2. 東京都章付きマンホール

日本橋・銀座・築地周辺を歩いてみましたが、90%以上が東京都章付きで、デザインは桜がベースの下水道向けマンホールでした。東京都の花「ソメイヨシノ」、木「イチョウ」、鳥「ユリカモメ」がデザインされています。ソメイヨシノは中央に大きく、花弁の間にイチョウの葉、それらを囲むように13羽のユリカモメが描かれています。

消防自動車がデザインされた消火栓用のマンホール(都章付き)とか、信号制御機構が入った交差点傍の東京都交通局のマンホールなども見られます。

マンホール_東京都下水.png マンホール_東京都交通局.png マンホール_消防署.png

3. 中央区の木と花を飾るマンホール蓋:

中央区制40周年を記念し、昭和62年(1987年)に区の木と区の花として「やなぎ」と「つつじ」が制定されました。これを記念して中央区内に設置された彩色豊かなマンホール蓋がひときわ目立ちます。このマンホールは減少傾向にあり、銀座4丁目和光裏・5丁目鳩居堂裏に2~3年ほど前にあったと言われていましたが、先日見た限りではこのマンホールは撤去されていました。日本銀行付近(日本橋本石町2-1-1)でこのマンホール蓋を見つけましたので紹介します。つつじに柳が絡んでいます。貴重です。「灯」の文字がありますので、街灯の電線が配置されているマンホールです。

マンホール_つつじ_やなぎ.png  マンホール_日本銀行.png 

歩道の写真は、神田方面を見ており左側は日本銀行です。

色鮮やかではありませんが、中央区章のついたマンホール(人孔)を福徳神社(日本橋室町)傍で見つけました。

マンホール(1)_中央区章.png マンホール(3)_中央区章.png

桜は散りましたが、マンホールは消えません。楽しんでください。

 

 

長崎屋番外編

[yaz] 2018年3月11日 14:00

昨年日本橋本石町の長崎屋(阿蘭陀館)についてシリーズで報告しましたが、今回番外編として鉄砲洲船松町へ移転した以降~御家没落までの過程を記述します。

 

安政5年7月1日(1858年)、日蘭修好条約が締結され、長崎出島のオランダ商館長の江戸参府の行事も廃止さましれた。10月になって、長崎奉行所は長崎で購入した蘭書を江戸へ廻漕し、江戸本石町の長崎屋を「蕃書取扱所」として、すべての蘭書に押印しました。この印章の写しは、町年寄「舘市右衛門」(日本橋本町)を通して、通二丁目の書物問屋「佐兵衛」他1名に伝達されました。

輸入蘭書許可印.png

長崎屋11代目当主 長崎屋(江原)源右衛門は思案して、長崎奉行所に願書を提出しました。『これまでオランダ宿その他長崎表御用商を務めてきましたが、たびたびの火事に類焼し、難渋しておりますので、今までの住居の本石町3丁目の場所を人に貸して収入を得て、深川でも本所でもどこか河岸付の便利な場所を得て転宅したいと思いますので、どうかお許しを得たい』

長崎屋地図拡大.png

長崎役所はこの願書を受理し、かけあってみようということとなりました。武家地なのでいろいろと問題が発生するかもしれないが、築地河岸の船着き便利な場所である船松町を候補に検討してみようということとなりました。従来の人参座(薬用人参の販売)・新規の御用"藩書取捌"を行う役所向け建物を建設するということで可否を伺えることになったのです。

 

長崎屋は町人ではあるが、「御用達町人同様の取り扱い」にすることが出来るなら許可しようということで、付箋付きで許可が得られました。

長崎屋(船松町)古地図.png

 

現在の地図で場所を示すと、以下のように聖路加病院裏になります。

長崎屋(船松町)_移転後現在地.png

 

明治初年に東京運上所(水炊き 治作脇)が使用していたと思われる洋書が発見されました。
明治元年(1868)7月、鉄砲洲に置かれていた外国事務局が「長崎会所」に残されていた品々の引き渡しを受けます。その中に西洋書籍1万7千冊余が含まれていました。この長崎会所とは「江戸長崎会所」のことで、万延元年(1860)に、江戸の船松町二丁目(現中央区明石町 6~7 番地隅田川沿)で「蕃書」(=洋書)や西洋銃の売り捌きそのほか長崎会所の御用達を務めていた長崎屋(江原)源右衛門宅を指しています。

  

源右衛門宅は鉄砲洲船松町2丁目はずれ、細川若狭守屋敷北隣の河岸添地でした。長崎屋は新たに輸入小銃の売り捌きにも当ることになり、商売が繁盛して景気が良く新しい事業にも乗り出しました。新材木町の丁字屋仁平と手を組んで生糸貿易に一役買いました。船松町から南飯田町続きの埋め立て地に引っ越しましたが、安政条約締結の結果、東京を開市せざるを得ず、築地に居留地を作ることなりました。そのため源右衛門の土地は引き払わざるを得なくなりました。その後、本所小梅の裏長屋に引っ越し、明治8年8月5日5人の子女を残して没しました。鎖国を継続した江戸時代海外との門戸を開くことに大いに貢献した長崎屋でしたが、最後は思いがけない結果となりました。今は江原姓を名乗る人はいません。

 

参考文献:

切絵図考証(21) 安藤菊二著 郷土室だより(中央区立 京橋図書館) 1982.01.15

 

 

木下杢太郎とカフェー

[yaz] 2018年2月 8日 09:00

木下杢太郎シリーズ第一回「木下杢太郎と八重洲橋」で、鎧橋の脇に開かれた「メゾン 鴻ノ巣」にパンの会メンバーと共に足しげく通っていたことを書きました。

/archive/2017/12/post-4762.html

 

パンの会は明治末期の耽美主義文芸運動の拠点となった談話会です。 1908年 12月(明治41年)に発足、メンバーとしては』系の木下杢太郎、北原白秋、吉井勇らの詩歌人,美術雑誌『方寸』出身の木村荘八などの美術家,自由劇場の小山内薫,市川左団次らから構成されます。永井荷風なども出席し,東京をパリに,隅田川をセーヌ川になぞらえた青春放埒の宴を続けました。日本橋川をセーヌ川になぞったという説もあり、「メゾン 鴻ノ巣」も重宝がられました。(日本橋小網町には「メゾン鴻ノ巣」について説明する看板が設置されています)

パンの会.jpg 

この絵は木下杢太郎記念館(伊東市)に飾られているものを撮影したものです。絵は杢太郎の作です。

 

「鴻之巣」の名は、「メゾン 鴻ノ巣」のオーナー奥田駒蔵のふるさと"久世郡寺田村(京都府城陽市)近くの丘「鴻ノ巣山」"(埼玉県の鴻ノ巣市は無関係)に因んでいます。「メゾン 鴻ノ巣」開店時の駒蔵は若干三十六歳でした。

大正四年ごろ、「メイゾン鴻之巣」は日本橋木原店(きわらだな・かつての白木屋の横町、いまも「木原店跡」の札がかかっている)に移転します。
一階は庇のような狭いバア。煉瓦のあらわに出た壁が地下室を思わせる感じでした。二階の食堂はかなり広く、さまざまな文芸団体の集会場として、小網町時代よりも一層利用されるようになりました。芥川龍之介の『羅生門』の出版記念会の写真が残されていて、鴻之巣の店内の様子が判ります。

芥川龍之介_羅生門_出版記念会(日本橋の鴻ノ巣).jpg 

 大正九年の末ごろになると、店は再度移転します。こんどはフランス料理「鴻乃巣」として、本格的なレストランを名乗ります。場所は京橋の南伝馬町二丁目12、現在地下鉄京橋駅上の明治屋の位置です。もと田村帽子店のあった四階建てのビルとのこと。
一階は天井の高いホールのような造りで、曲木細工の椅子に円いテーブルが数組。冬にはだるまストーヴが赤々と燃え、カウンター背後の棚には洋酒の瓶がズラッと並び、鼻をくすぐるコーヒーの香りが店先にまで漂い、客を誘います。二・三階には大小の宴会場が数間あり、四階は従業員の休憩所や家族の住居になっていたようです。
大正十二年九月一日、関東大震災で店は倒壊してしまいますが、駒蔵一家は無事でした。
 

メゾン鴻ノ巣(京橋).jpg 田村帽子店(京橋).jpg

レストラン_鴻ノ巣(京橋).jpg 

しかし、震災からわずか二年後の大正十四年十月一日、駒蔵は四十三歳の若さで急死します。

 

パンの会はいろいろの店を使って集会を続けますが、「メゾン 鴻ノ巣」以外で馴染みにしたカフェーが銀座のプランタンです。東京美術学校(現 東京芸術大学美術学部)出身の松山省三が、パリのカフェーのような、文人や画家達が集い芸術談義をできる場所を作りたいと、1911年3月にカフェープランタンを開業しました。所在地は京橋区日吉町20番地(現銀座8丁目6番24号、銀座会館付近)で銀座レンガ街の一角。煉瓦の建物を改装し、小山内薫が「プランタン」と命名しました。類似の店は存在していましたが、プランタンの登場によって、洋行帰りの人たちが口にしていたような意味での(サロン形式の店としての)カフェーが登場した訳です。

 

プランタンなのか鴻ノ巣なのかは特定できませんが、木下杢太郎から聞き取って木村荘八が絵筆をとった絵が残っています。楽しそう!

パンの会の様子(木村荘八作).png

銀座のカフェーはその後いろいろの変遷を経て、一つの形として「バー」という形式を生み出し、銀座全体(1丁目から8丁目)で約350軒に上っています。木下杢太郎や太宰治などのカフェー体験の一部でも、銀座のバーを訪ねて感じてみませんか?

 

 

 

太田圓三の生涯

[yaz] 2018年1月 7日 18:00

2017年11月のブログで『木下杢太郎記念館(伊東市)を訪問したこと、木下杢太郎の人となり』を紹介した。

/archive/2017/12/post-4762.html

 

今回は"永代橋"の架橋を担当したことで有名な木下杢太郎の4歳年上の実兄、「太田圓三」を紹介する。

学生時代には東京で同居もしていた仲の良い兄弟であった。

木下杢太郎_家系図.jpg 太田圓三_顔写真.jpg

 

太田家の次男「圓三」は、東京帝国大学土木工学科を卒業後、逓信省鉄道作業局に入局し、橋梁設計を振り出しに、房総線工事や上越清水トンネル工事などを担当した。工事の機械化や路線の図上選定法の導入など、幅広く鉄道技術の向上に貢献し、「鉄道始まって以来の天才技術者」と呼ばれた。

 

大正12年(1923年)、関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京を復興するため帝都復興院が設置されると、土木局長に任命され当初は未経験の分野のため辞退したが、親友十河信二(戦後、東海道新幹線建設起工時の国鉄総裁)の強い勧めにより就任した。交通網や衛生設備、安全性、景観などを備えた「文明的都市・東京」を目指した。

*車社会の到来を目越した道路などの拡張

*土地区画整理

*永代橋・清洲橋など震災で焼け落ちたものや新設など約150もの橋梁について、

 弟・杢太郎や芥川龍之介・木村荘八などの芸術家の意見を聞き景観に配慮した架橋を

 行った。

 

以下の図は、永代橋・清洲橋などの橋デザインを示している。全て奇抜なデザインのため採用されなかった。

隅田川復興橋デザイン群.jpg

 

*高速鉄道(地下鉄9の必要性を説き、鉄道網の具体化に尽力した。

(下図の鉄道網図は小さくて駅名が見えないかもしれませんが、都電・省線(JR山手線・中央線など)と共にメトロ銀座線・丸の内線など高速鉄道(地下鉄)など将来を見据えた鉄道網を示す。東西線・日比谷線らしきものも描かれている。)

高速鉄道網図.jpg

 

圓三は現代まで続く近代都市・東京をデザインし、その礎を築いたのである。

 

帝都復興に心血を注いだ圓三であったが、大正15年(1926年)3月21日、志半ばにして自殺した。区画整理に対する無理解・復興局疑獄事件(土地買収にからんだ汚職事件)の発覚などによる心労が積み重なり、突発的な事件であったと言われる。

45歳の若さでこの世を去った。

 

昭和6年(1931年)隅田川相生橋畔中之島公園に肖像レリーフが設置された。しかし震災で破壊されたため昭和30年(1955年)現在の神田橋公園に移築された。

「(圓三が)万難を排して立案計画せられたる復興事業は、どこを切っても故人の血が流れ魂が生き続けてゆくだろう」(元鉄道大臣 井上匡三郎)

太田圓三記念碑.jpg

 

兄圓三の死を悼む杢太郎の詩が雑誌「明星」第8巻4号(大正15年(1926年)6月)に掲載されている。

 

タイトル「永代橋工事」

過ぎし日の永代の木橋はまだ少年であったわたくしにどれほどの感激を与えたらう。

人生は悲しい、またなつかしい、面白いと、親、兄弟には隠した 酒あとのすずろ心で、伝奇的な江戸の幻想に足許危く眺めもし、佇みもした。

それを、ああ、あの大地震、いたましい諦念、帰らぬ愚痴。

それから前頭の白髪を気にしながら 橋に近い旗亭の窓から あの轟轟たる新橋建設の工事を うち眺め、考えた。

これも仕方がない、時勢は移る。

基礎はなるべく近世的科学的にして、建築様式には出来るだけ古典的な 荘重の趣味を取り入れて貰いたい。

などと空想して得心した。

それだのに同じ工事を見ながら 今は希望もなく、感激もなく、うはの空にあの轟轟たる響を聴き、ゆくりなくもさんさん涙ながれる。

あんなに好きであった東京、そして漫漫たる墨田のながれ。

人生は悲しい、ここは三界の火宅だと 

-ああ恐ろしい遺傳-多分江戸の時代に この橋の上で誰かが考えたに相違ない、それと同じ心持が今の私に湧く。

水はとこしへに動き、橋もまた百年の齢を重ねるだろう。

私の今の心持は ただ水の面にうつる雲の影だ。

 

行く水におくれて佇む木屑かな (大正15年5月)

 

 

いつの時代にも「基礎はなるべく近世的科学的にして、建築様式には出来るだけ古典的な 荘重の趣味を取り入れて貰いたい。」という意見が出るのは普遍的なものですね。同感です。

 

 

 

木下杢太郎と八重洲橋

[yaz] 2017年12月 3日 09:00

 先日静岡県伊東市に用事があり一泊したので、翌日伊東駅から徒歩5分程度の距離にある木下杢太郎館を何らの知識もなしに訪問した。入館してみて中央区とのかかわりが非常に強いことに吃驚したので報告させて頂きます。

木下杢太郎記念館.jpg

〔記念館所在地〕414-0002 伊東市湯川二丁目11番5号

私が訪問した日がたまたま入館無料だったようです。

 

木下杢太郎家系図.jpg

太田家の家計図です
 

 

<理由>

* 杢太郎自身は菊池寛などと共に作ったパンの会のメンバーとして中央区日本橋小網町にあった「メゾン鴻ノ巣」(日本最初のカフェーと言われる説あり)及びその後開かれた「カエー プランタン」などの銀座のカフェーを足しげく訪れていた。

* 医者・文士であるにも拘わらず東京駅前に明治時代に架かっていた八重洲橋を設計した。その上、4歳年上の兄「太田圓三」は関東大震災後に帝都復興院土木局長に就任し、後藤新平の下で

* 昭和通り・靖国通り等の復興道路の建設計画を立案

* 永代橋・清洲橋などの橋梁の架橋計画・施工を担当

など近代都市・東京をデザインし、その基礎を築いた。

 

兄弟はこのように中央区と強い縁を持つことを知ったので、これから3ケ月に亘って背景を調査しブログとして連載する予定です。

1回目(12月): 木下杢太郎と八重洲橋

2回目(1月):  太田圓三の生涯

3回目(2月):  木下杢太郎とカフェー

 

中央区とは直接の関わりはありませんが、三女「たけ」と樋口一葉が一緒に移った写真が記念館に飾られているので紹介します。一葉の髪をさげた珍しい姿です。太田たけが大柄なのか、樋口一葉が非常に小柄ですね。

太田たけ&樋口一葉.jpg

 

1) (第一回)木下杢太郎と八重洲橋

1)-1 木下杢太郎のプロフィール

1885年(明治18年)静岡県賀茂郡(現在の伊東市湯川)に、右上の写真のように父・惣五郎、母・いとの末子として生まれた。父は米惣という雑貨問屋を営んでいた。兄は太田圓三、甥には動物学者の太田嘉四夫(北海道大学教授)がいます。家業は「米惣」という雑貨問屋であった。

米惣.jpg 

当時の米惣の「暖簾」です

 

1906年(明治39年)、東京帝国大学医科大学へ進むと翌年(1907年)には与謝野鉄幹の新詩社の機関誌「明星」の同人となりました。これから中央区との強いかかわりが始まるのですが、1908年(明治41年)には北原白秋・吉井勇らと『パンの会』を立ち上げます。定期的に集まる場所を探していた当会にとって、メゾン鴻ノ巣の開店はグッドタイミングでした。「メゾン鴻ノ巣」があった日本橋小網町の日本橋川にパリのセーヌ川の雰囲気を見出したからです。3年半に亘って、頻繁にこの集いは開催され、鉄幹、永井荷風、小山内薫、高村幸太郎、武者小路実篤、谷崎潤一郎、岡本一平らも顔を出しました。

 

杢太郎は、1911年(明治44年)東京帝国大学医科大学を卒業し、森鴎外の勧めで皮膚科の土肥慶蔵教授の下でライ病の研究を志しました。留学の後、1937年(昭和12年)、東京帝国大学医学部教授となりました。皮膚科・伝染病の研究を継続しライ病の世界的な権威と言われるようになりました。

木下杢太郎_写真.jpg 木下杢太郎_植物画.jpg

また、絵画にも目覚め872枚の植物写生画も残しています。その一部は木下杢太郎記念館に展示されています。

1945年(昭和20年)胃幽門の癌のため亡くなりました。

 

1)-2 八重洲橋

「八重洲橋」は明治初頭から戦後までの約60年間に、以下のように架橋・撤去を繰り返した珍しい橋です。

① 明治17年(1884)に呉服橋と鍛冶橋の間に架橋

② 大正3年(1914)に東京駅の開業で撤去。

③ 大正14年に東京駅入口として再び架橋。

④ 昭和22年の外濠川埋め立てで再び撤去。

八重洲橋(2).jpg 

写真上部は丸の内側から見た東京駅と「八重洲地域」です。右には八重洲橋が外堀に架かっていますし、左端には呉服橋、丸の内側には関東大震災で被災する以前の堂々とした東京駅が存在しています。

 

明治中期の以下の地図には八重洲橋が架かっていますし、現丸の内にも「八重洲」・「永楽」という旧町名が見られます。

八重洲橋拡大地図.jpg

 

八重洲橋(1).jpg 

八重洲橋全景

 

野田宇太郎著『改稿東京文学散』の「丸の内」の章では、外濠川の埋め立て、詩人・木下杢太郎設計の「八重洲橋」が壊される愚策を涙ながらに記していました。

 

「ステーション・ホテルが東京の代表的ホテルとして出現して間もなく大正七年八月のこと、詩人木下杢太郎がその七十一号室に泊まった」と書き出す。満州赴任で遅れていた処女詩集『食後の唄』の序文を書くためだったが、彼は序文にこの二年間の東京の様変わりに抑えきれぬ腹立たしさを記せずにはいられなかったと記す。そして・・・

 悲しき運命をたどった八重洲橋

八重洲橋が木下杢太郎により設計されたことを知る人が少ないのは非常に残念です。木下杢太郎が「八重洲橋」を設計できたのは、永代橋を設計した建築家 兄「太田圓三」の存在が大きかったと思います。

 

 

 

待合茶屋: 亀の尾

[yaz] 2017年11月17日 14:00

明治6年作成の沽券図(不動産登記簿)によれば、中央区日本橋の中央通り室町三丁目と本町三丁目の角に最首五郎兵衛という人の家作がありました。土地の大きさは187坪。江戸時代には町年寄「喜多村彦右衛門」の屋敷であったところが、私の中学校の同級生の家になっていました。ここで待合茶屋「亀の尾」を経営していたようです。歌舞伎の演目で「亀の尾」というのがあるそうですから、日本橋芸者(檜原芸者)が来る楽しい場であったと想像されます。

 

1830年当時には喜多村町年寄宅はありますが、明治6年(1873年)には最首宅に変わっていますので町中にも幕末は大きな変化をもたらしたものと想像されます。

喜多村彦右衛門宅.jpg (1830年当時)

 

亀の尾_場所.jpg 

(明治6年の沽券図より抜粋)

 

 

明治時代に行った待合茶屋に関する落語家へのインタビュー記事に「亀の尾」に関わるものが残っていますので紹介します。

 

「其の頃は、駿河町の亀の尾、日本橋の寿、芝では千歳と此三軒けァなかッたものです。外にも在ッったか知りませんが、此三軒が一番名うてでした。女を呼んで酒は飲みましたが、今のように寝泊まりはしません。情人(いろ)でもこさえて出会をするには、向島水神の八百松か植半、それから今は在りませんが、三囲の柏屋と云う意気なお茶屋がありましたが其所へ行ッったもんです。居廻りや近所で会ふのは情夫(いろ)じゃァないと云ッてた位でした」

 

貸席業としての待合は,江戸時代の待合茶屋を起源としています。待合茶屋は,商人の寄合いや旅人の送迎など,本来の待合せに利用する茶屋でありましたが,明治初年以後は花柳街における芸者との遊興場所として急成長しました。

 

現在までの調査では歌舞伎の演目「亀の尾」については情報が一切ありません。最首さんへの聴取・歌舞伎座へのアプローチを行いますので、情報を入手次第皆様にお知らせします。ご期待ください。