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大火と長崎屋

[yaz] 2017年5月20日 14:00

江戸時代には1798回の火事があり、そのうち49回は大火であったといわれています。

その中で多大な被害が出た火事としては、

1657年の明暦の大火(振袖火事)→ この火事を契機に、人形町周辺にあった吉原は浅草方面に移転を余儀なくされました。

天和(八百屋お七の火事)の大火(1683年)

宝暦の大火(1760年)

明和の大火(行人坂の火事)(1772年)

文化大火(1806年)・文政の大火(1829年)などがあります。

 

火事の原因は、調理や照明用の火の不始末に起因する失火の他に、放火がありました。特に江戸末期になると幕府の権威失墜のために政情不安となり、放火が増えました。

 

長崎屋も多くの被害を受け、火事の度に建て直しを余儀なくされました。明暦の大火を経験したカピタン ザハリアス・ワーヘナールは、正月15日に将軍家綱に謁見し18日には井上筑後守誠重を訪問している最中に、本郷の本妙寺本堂からの出火を告げられました。急遽長崎屋に戻ったワーヘナールは、激しい北風にあおられた火の粉が飛散していた様子をオランダ館の屋上から見たという話です。江戸火事図巻に明暦の大火の浮世絵が残っていますので、以下で紹介します。

明暦の大火(江戸火事図巻).jpg.jpg

火は長崎屋にも迫ってきたので、荷物を蔵に入れ避難しました。一同が避難してから一時間ほどで焼け落ちたといわれます。翌19日、火は前日より猛威をふるい、正午ごろには江戸城にも火が入りました。

 

この大火により、江戸の町はほとんど壊滅し、市街の60%以上が焼け野原となりました。このような大火により、長崎屋も被害を受けました。1803年当時の丙寅の大火時の「長崎オランダ商館日記」によると、長崎屋再建の費用としてオランダ側は当時貴重であった砂糖を贈与し、再建費用としたようです。このようにオランダ側の補助を受け且つ幕府の助成を受けながらオランダ館は運営していましたが、過大な借財の負担に耐えられず、幕末にはこの土地を近隣の松沢孫八(江戸一の油問屋)に譲り中央通り角の間口5間程度の唐人参座だけを残し、移転しました。これに伴い200年余続いたオランダ館もなくなり、江戸参府もなくなりました。

 

11代長崎源右衛門は、蔓延2年(1861年)に鉄砲洲船松町二丁目の河岸地を幕府より拝領し、江戸長崎会所御用達に任ぜられ、貿易商として再起を図った。しかしビジネスは順調には推移しませんでした。

 

 

 

オランダ館と将軍への参府

[yaz] 2017年5月18日 09:00

前回もオランダ館を紹介しましたが、カピタン(オランダ商館長)のブロムホルツ(江戸時代後期の商館長)と娘たちの間の手紙が残っていますので、それを参考にオランダ館内部や将軍拝謁などについて想像してみましょう。(「長崎屋の娘」タイトルのミステリー仕立ての小説が出ています。興味のある方は読まれたらいかがでしょうか?)

 

長崎屋源右衛門は薬種問屋として、中央通りの角地には唐人参座(朝鮮ニンジンを中心とした薬の販売店)を持ちその隣に広大な土地を所有していました。長崎屋の屋敷の裏にオランダ館がありましたが、入り口は本石町三丁目新道側にあったと考えられます。現在本石町新道は「時の鐘通り」と名づけられています。オランダ館の隣に江戸最古の「時の鐘」があったためです。

長崎屋の区画.jpg  鐘撞新道(現在).jpg.jpg  石町鐘撞通り(現在の電信柱).jpg.jpg

 

長崎屋の敷地は広く、オランダ人以外の人々の宿舎と、献上品などを格納しておく土蔵、馬の厩舎も敷地内に備えていたと考えられます。敷地の大きさは千坪(3,300㎡)以上と考えられます。

 

一階の入り口のすぐ左わきには扉があって、そこを開けて2階に上ることができます。2階に上るには警備員の許可を受ける必要があったと考えられます。

オランダ館1F_レイアウト.jpg  オランダ館2F内部.jpg

 

竈の煙が2階のカピタンの執務室に流れ込み苦労したという著述が残っていることから、一階の左側に台所が配置され、その右には食堂、そして2階での面談に来た人々が待機する待合室がその右にあったと予想されます。竈のある台所の扉は長崎屋の屋敷と通じており、そこが長崎屋の人々との交流の窓口であったのでしょう。長崎屋側で調理した食事の提供などがあったかもしれません。寿司やてんぷらなどもオランダ人は食べたのでしょうか?

 

オランダ館の2階右の便所・浴室でh「おまる」や尿瓶を利用し、幕末近くには便座椅子や腰掛式の便器のようなものを使用していたのではないでしょうか。

長崎屋の便所.jpg

 

オランダ宿(館?)は寛永年間(1624~1644)に始まり1850年頃に終わりましたが、参府の合計回数は166回に上りました。家光の時代には毎年参府していましたが、後期になると4年に一度に変わりました。

 

長崎屋はカピタン一行が到着する2~3日前から非常に忙しい毎日を過ごします。2階の修繕を行い、在府の長崎奉行所役人の検分を受けます。到着の前夜から町奉行所の普請約2名、同心2名が長崎屋に詰めて警備に当たります。これらの人々がオランダ館の1Fの警備員室に詰めていたのでしょうか。

 

「旅館(オランダ館を指す)の門には二重の番所ありて、絶えず其の周囲を巡邏し、又通行人の立ち止まることを許さず」という文章が残っていますので、警備は非常に厳重であったと予想されます。北斎の浮世絵としてカピタン一行と江戸町民が窓を介して交流する姿が描かれ、現在も新日本橋駅入口に看板として掲げられていますが、これは北斎の脚色と考えられます。鎖国の時代ですから、オランダ館の1階に窓があったとはとても考えられません。

 

カピタン一行が滞在しているときには、オランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie=VOC)の幔幕を長崎屋の表玄関(本石町三丁目道路)に掲げていました。下のどちらの幔幕なのかは、不明です。江戸幕府は鎖国を政策として掲げていましたから、オランダ東インド会社という私企業との取引を行っていたという建前で動いていました。

 画本東都遊 長崎屋.jpg  東インド会社幔幕.jpg  

 

カピタンの衣装は下図のようなものでしたので、江戸の人々にとっては物珍しく興味を引いたに違いありません。

 オランダ人の洋服.jpg

 

オランダ使節団の構成は以下の通りです。

l カピタン・書記・医師などの隋員を含めて4人のオランダ人

l その他、長崎奉行所の検使、通弁、書記、料理人、献上物の運び人足など

総勢60人程度といわれています。これだけの人数が長崎から江戸まで移動するのですから、壮観ですね。

カピタン一行参府の様子.jpg.jpg

オランダ館の屋敷にすべての人を収容できませんでしたので、敷地内の随行員宿舎に一部を収容し残りは近隣の旅籠に収容したようです。カピタン滞在時には、多くの金銭が日本橋界隈に落ち非常に賑わったそうです。

 

文政5年(1823)当時の将軍(11代将軍 徳川家斉)への拝謁の段取りは次の通りです。

l 将軍への拝謁日: 4月6日

l 卯の刻(午前六時)長崎屋出立

l 駕籠を降り城内に入る

l 百人番所で茶を飲む

l 待機

l 御殿に到着

l 江戸在府の長崎奉行とカピタンが拝謁

拝謁終了後、幕閣の老中、若年寄、側用人、寺社奉行、北・南町奉行の屋敷を回り長崎屋に戻りますが、これで終わりません。蘭学好きの大名、幕府の医官、天文方から旗本、諸大名、民間の蘭学者などが阿蘭陀館で待っているのでこれらと面談し、やっと長~~~~~い一日が終了します。この後ほっとして、リキュールでも飲んだのでしょうか?

 

参考文献:

オランダ宿の娘 葉室 麟 ハヤカワ文庫

城内誠一: 江戸最初の時の鐘物語(流通経済大出版会)

城内誠一: 江戸のオランダ人定宿「長崎屋物語」(流通経済大出版会)

片桐一男: 江戸のオランダ人(中公新書)

片桐一男:それでも江戸は鎖国だったのか(吉川弘文館)

東京都中央区教育委員会: 中央区沿革図集(日本橋編)

 

 

オランダ館

[yaz] 2017年4月26日 12:00

江戸時代三代将軍家光の時代から鎖国を断行しましたが、長崎の出島を唯一の窓口としてオランダや中国に門戸を開いていたことは有名な話です。しかし長崎だけが外国との窓口ではありませんでした。それがお江戸日本橋にありました。オランダの商館長(カピタン)は自分たちの権限を将軍に認めてもらいそれを更新するために、当初は毎年・江戸後期になると4年に一度大量のお土産を持参して江戸参府をしていました。日本橋本石町三丁目に居を構え唐人参座を経営していた江原源右衛門(屋号:長崎屋)は参府の際の定宿として「オランダ館」を江戸末期まで提供しました。

 

海外からのインバウンドの増加が著しい現在、200年前~400年前の外国との接点が日本橋に発見されたことは事実であり、非常に興味深く思っています。オランダ館に関わる資料としては、葛飾北斎の「画本東都遊」が有名ですがそれ以外は非常に少ないのが現状です。現時点で提供されている資料を基に長崎屋・オランダ館を分析してみたいと思います。第一回ブログでは、オランダ館の地理的位置と想像で作成した建物内部構造をお知らせしたいと思います。オランダ館に関わる資料は非常に限られていますが、殆どが文章で視覚化されていないので想像することができません。今回のブログでは鎖国時代の外国への窓口を"視覚化"してみました。

 

カピタンの江戸参府は桜の花が綻び始める頃ですから、3月末(新暦)に長崎を出立し海路・陸路を経て江戸に約2週間かけて到着しました。長崎からの一行は50人余でしたが、江戸で面倒を見る人を含めると100人以上となり非常に大きな宿舎が必要でした。本石町三丁目にあった唐人参問屋(長崎屋)の離れのオランダ館だけでは収容できず、近くの旅館にも収容しました。カピタンの江戸参府により日本橋地域には多くの金が落ちたことは間違いありません。江戸滞在は約2週間、長崎を出てから帰還まで約2ケ月余の旅でした。

 

鎖国の時代ですから、セキュリティは非常に厳しく「画本東都遊」に描かれているような江戸一般庶民との交流が行われたとは想像できません。これは北斎の想像の産物と考えられます。江戸では殆ど軟禁状態でしたが、平賀源内や桂川甫周など知識人・医者・科学者などがオランダ館を訪問し、海外の先端技術を吸収したといわれています。

 

本石町三丁目の長崎屋の別館であるオランダ館は、三丁目と隣り合った岩付町との小道"鐘撞堂新道"(本石町三丁目新道)を挟んで江戸で最も古い「時の鐘」と接しています。長崎屋の敷地は三丁目の一角を占め、居屋敷に倉庫を建て並べていた大きな構えでした。セキュリティの面からオランダ館は本石町三丁目新道側に入り口を設け、表通りの「本石町三丁目通り」側に長崎屋があったと想像されます。明治6年の沽券図(不動産登記簿)で長崎屋を示していますが、江戸後期に経営が悪化し近隣に不動産を売却したため小さくなっていますが、それでも400坪を有しています。当初は本石町三丁目の一角を占めていたといわれます。(長崎屋は江戸時代末期に経営が悪化し、土地を売却し後の築地外人居留地に移転しましたがその後廃業しています)

 

長崎屋・オランダ館沽券図.jpg

ブロムホルツというオランダ人がカピタンの時代には長崎屋の娘との交流があったことが知られていますので、内部で交流があったと考えられます。長崎屋は別棟ですがオランダ館とは内部でつながっていました。新道側の入り口には警備員がいて、厳しいセキュリティが保たれており滞在中も外部との交信ができないような構造となっていたと考えられます。警備員横の入口扉を開けると左に階段(14段?)があり、カピタン一行は2階に滞在します。1階には台所・食堂・待合室があったでしょう。台所の竈の煙が2階に上って煙く苦労したという資料が残っていますので、下図のような配置であったと予想されます。

 

画本東都遊 長崎屋.jpg平賀源内など日本人との交流の資料が残っていますので、その資料を利用して2階のレイアウトを想像してみました。2階は客間・カピタンの執務室・医師/書記官の室・風呂などが並んでいました。それらが長屋風に並んでおり、室の前には廊下がありました。就寝はベッドなのか、布団なのかは不明です。医師/書記官の室にはスタンドや顕微鏡が机の上に置かれた絵が残っていますので、それらを利用して日本の知識人や蘭学者・蘭方医と交流したと想像されます。

オランダ館2F内部.jpg

2階の上には火の見櫓のような台があったようです。江戸の町をそこから見ることができたでしょうし、また江戸の火事の延焼の様子を見ることもできたことでしょう。

 

参考文献:

城内誠一: 江戸最初の時の鐘物語(流通経済大出版会)

城内誠一: 江戸のオランダ人定宿「長崎屋物語」(流通経済大出版会)

片桐一男: 江戸のオランダ人(中公新書)

片桐一男:それでも江戸は鎖国だったのか(吉川弘文館)

東京都中央区教育委員会: 中央区沿革図集(日本橋編)

 

 
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