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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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ここは江戸時代、以前は「海」でした。

[朱房の十手] 2017年6月16日 09:00

DSCN0770.JPGここは 八丁堀三丁目です。遺跡を発掘中

 

京華スクエアー正門前を茅場町方向にすずらん通りぞいを30メート位行った場所です。古地図で見ると江戸後期は町屋です。

 

6月14日に、見てきました。

5名位で丁寧に作業をされていました。

 

DSCN0772.JPG掘り出された土の色は濃く、海岸の砂のようです。

 

随所に貝殻や木片が見受けられます。丈夫そうな木で組まれた木樋などがみうけられます。

 

どんなものが出てくるか楽しみです。

足の便の良い場所です。歴史のロマンス?感じられるかも・・・・

 

 

 

「門跡?橋」があった。

[朱房の十手] 2017年5月 7日 12:00

5門跡橋.jpg門跡?橋

 

晴海通りを勝鬨橋方向に向かい、本願寺の裏手になります。

右手には「築地魚河岸」があります。

 

もんぜきばし2.jpg門跡橋1.jpg

2枚目の写真に「門跡」と書かれていたので、水門の跡だと思ってましたが気になり、調べてみますと「門跡橋(もんぜきばし)」という名前の橋でした。

  
「橋」の字が雑草でかぶった状態です。3枚目の写真には昭和3年6月~、復興局建~、まででその先は地中に埋まっています。何と書かれていたのか気になりますね~

1枚目の古地図 文久元(1861)年では、川であったことがわかります。矢印の場所辺りに橋がありました。矢印の左手は本願寺です。今よりもずっと大規模ですね。

 

魚河岸で買い物ついでに覗いてみては如何でしょうか。

 

 

 

ドンドン飲めちゃいますよ~?

[朱房の十手] 2017年5月 4日 14:00

DSCN0662.JPG

鮪の富ツネさんをご紹介します。

 

築地で3代続く老舗の仲卸業者だそうです。

(店員さんの許可を頂き撮影しました。)

 

「築地魚河岸」小田原橋棟にあります。鮪のことは何なりとお尋ねくださいとお話しされていました。

 

さすがに旨い鮪です。

この日は柵で買い、日本酒のぬる燗と決めました。ドンドン飲めちゃいます。締めはやはり鉄火丼です。パラパラと散らす刻み海苔は丸山海苔です。あーうまかった

 

お財布にも優しいですよ。一度覗いてみては如何でしょうか。

 

 

 

わしは、何時から座っているのかな~

[朱房の十手] 2017年4月29日 16:00

ライオン像.bmp

わしの傍にいるのは、子供か、孫か、ひ孫だったかな?それとも玄孫(やしゃご)だったかな~

だいぶ長く座っているな~ 何時まで座っていればいいのかな~

でも、ぜんぜん老けないな~ わしは幾つになったのかな~

 

わしは三越のライオン像です。

 

写真は銀座三越の正面玄関です。像の誕生は大正3年、日本橋三越本店前に設置されたのが始まりです。

ライオン像は当時の支配人、日比翁助が百貨店開設の為、欧米を視察した際にイギリスで注文したものです。

完成まで3年かかりました。三越が百獣の王ライオンのごとく百貨店業界に君臨する様にとの願いが込められているいるそうです。

本店のライオン像は102歳になります。子供が銀座三越のライオン像です。年齢は昭和47年生まれ45歳です。傍にいるのは、たぶん子供か、孫になると思います。

 

三越にお越しのせつは、わしがお迎えします。

是非ともおいでください。お待ちしております。

 

 

永代橋から見た佃島?

[朱房の十手] 2017年4月26日 18:00

eitai5.jpg

永代橋は江戸時代現在の場所から150メートル程、上流にかけられていました。創架は1698年ごろとされています。当時は大規模な木造橋で見晴らしの良い名所として浮世絵に描かれています。

 

道路橋としては日本初の鋼鉄製です。明治37年には路面電車が敷設されました。

 

5代将軍綱吉の50歳の祝賀を込めて架橋されました。文化4(1807)年8月19日には深川八幡の祭礼に向かう混雑で橋が崩落し1000人以上が溺死しました。この事故は落語になるほど様々な物語があります。また赤穂義士が吉良邸から泉岳寺に引き上げるときに渡った橋として知られています。

1永代橋.jpg

上部写真、下部の絵共に佃島方向を望んでいます。

上部写真は永代橋から撮影しました。

 

 

三十間堀ってなんだ~

[朱房の十手] 2017年4月25日 12:00

DSCN0571 - コピー (2).jpg

三十間堀跡(ピンク色の矢印の場所です)

 

銀座から晴海通りを築地に向かい昭和通りの手前です。

 

下の古地図は、嘉永2(1849)年に発行されました(黒色の矢印の場所です)。

左右に藍色で、示されているのが堀川です。二つの矢印の場所は、ほぼ同じ場所です。この辺りを歩くと道路が盛り上がっています。

 

京橋川から汐留川を結んでいました、慶長17(1612)年徳川幕府の命により、舟運の便を図るため主に西国大名が開削しました。堀の幅が三十間(約55メートル)あったことからこの名前が付きました。文政11(1828)年には十九間に狭められました。昭和27(1952)年には太平洋戦争後の瓦礫の山を、処理する為に埋め立てられました。イラッイラッ

2DSCN0708 古地図.jpg