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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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平成もあと少し ― 中央区で元号のついた通りを辿ろう(その2)

[しばしばしばた] 2019年2月28日 16:00

2回にわけて、中央区を通る「元号のついた通り」を巡ろうということで、
前回の記事では、「平成通り」「昭和通り」をご紹介しました。
今日は、さらに昔に遡っていきたいと思います。
 
■その3「大正通り」

さて、平成、昭和の前の元号は「大正」になりますが、残念ながら、「大正通り」という通りの名称は、東京には現存していません。
...しかし、戦前に遡ると、「大正通り」という名称の通りが存在していました。

そして、その通りはなんと中央区内を通っています! その正体はこちら。
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現在の名前は違いますが、戦前は「大正通り」または「幹線第二號」と呼ばれていました。

前回の記事で、「昭和通り」が関東大震災後の復興のシンボルロードとして計画されたことをご紹介しましたが、実は、この昭和通りが「幹線第一號」
そして、東京を南北に貫く昭和通りに対して、東京を東西に貫くもう一つのシンボルロードとして計画されたのが大正通り(幹線第二號)です。

新宿から両国橋までを結ぶ大正通りは、中央区内では、区の最北端近く、馬喰町や東日本橋あたりを通っています。
幅員は36メートル、昭和通りには及ばないものの、非常に幅の広い通りです。
戦後、沿道の九段坂近くに靖国神社ができたことをきっかけに、大正通りは「靖国通り」と名前を変えて現在に至ります。「大正通り」の名前は現在使われていませんが、通り自体は今も現役です。

 

■番外編1「明治通り」

平成、昭和、大正と遡ったので、次は「明治通り」ですね。
東京の明治通りは、古川橋(港区南麻布)を起点に、渋谷・新宿・池袋の3大副都心を抜け、王子、三ノ輪、亀戸といった都心外縁部の拠点を通りながら夢の島(江東区)までを結ぶ通りです。
すなわち...、中央区から見ると、外側を環状に結ぶ路線になっており、残念ながら中央区内は通過しません。

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写真は、渋谷区・神宮前交差点付近の明治通りです。一説には、「明治神宮」の近くを通るから明治通りの名前になったともいわれています。
なお、この道路も、昭和通りや大正通りと同じく、関東大震災後の復興都市計画が元になっており、「環状第5號」という位置づけです。

 

■その4「明治座通り」
さて、残念ながら「明治通り」は中央区を通っていなかったのですが...、
ほかに「明治」がつく通りは区内に無いものか...必死に探してみたところ、1つ見つかりました!!
その名も「明治座通り」です。
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日本橋浜町にある「明治座」は、1873(明治6)年に「喜昇座」として開場した、歴史の長い劇場です。その後、「久松座」「千歳座」と改称したのち、1893(明治26)年に今の名称「明治座」になりました。(中央区観光検定の頻出問題!)
そんな明治座の南側に、浜町公園の入り口にもなっている銀杏並木の道がありますが、この通りが「明治座通り」です。通りの名前は清洲橋通りを越えて浜町緑道公園まで続いており、その先は「甘酒横丁」につながっています。
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この銀杏並木、今の時期は寂しいですが、秋になると非常にきれいです。
ちなみに、この「明治座通り」、並木を挟んで2つの一方通行の道になっていますが、日本では珍しくなぜか右側通行になっています。ちょっとした外国気分が味わえるかも?という通りでもあります。

 

■番外編2「江戸通り」
そのようなわけで、多少の捻りはありつつも、平成、昭和、大正、明治のつく通りを中央区内で見つけることができました。最後に番外編で、通りをもう一つご紹介したいと思います。
  
元号ではなく、歴史の教科書に載っている「●●時代」という呼び方でいくと、平成、昭和、大正、明治のひとつ前は「江戸時代」ですね。
じつは、「江戸通り」も中央区内を走っています!
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室町3丁目で中央通りから分かれ、区内を北東方向に進んだのち、浅草橋を渡って台東区に入り、隅田川と平行に走りながら浅草まで向かう通りで、江戸の最初の市街地だったエリアを通り抜けています。東京スカイツリーが奥に見える場所もある、素敵な通りです。

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前回の記事とこの記事で紹介した通りと、中央区の位置関係を地図にしてみました。
(国土交通省「国土数値情報」行政区域データ、道路データを用いて筆者作成)

中央区で、江戸から平成まで、色んな時代の名前が通りの名前になっていることがわかりました。
前回の記事で「平成通り」の由来が不明・・・と書きましたが、「平成通り」の名前は平成元年に設定されており、それが由来ではないかという説もあります。新しい元号がついた通りもどこかにできるのか!?とも期待しつつ、平成最後の春に、元号や時代の名前がついた通りを巡ってみるのも良い記念になるかもしれません!

 

 

平成もあと少し ― 中央区で元号のついた通りを辿ろう(その1)

[しばしばしばた] 2019年1月30日 09:00

今年の5月1日に皇太子さまが新天皇に即位され、新しい元号に切り替わるのに伴い、
巷では「平成最後の...」という言葉をよく見聞きするこの頃ですが、
 

中央区には、元号が名前についた通りがいくつかあるのをご存知でしょうか?
 

今日は、そんな「元号のついた通り」のうち、中央区内を通るものを、
2回にわけて、
平成から遡る形でご紹介したいと思います。
 

■その1「平成通り」
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日本橋兜町2番(鎧橋南詰)から築地2丁目15番(晴海通りとの交差点)
まで、新大橋通りの西側に並行して走る通りです。
なぜ「平成通り」の名になったのかは、私は存じ上げていません...。
(どなたかお詳しい特派員さんに解説していただきたいです!)
 

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始点付近の兜町・茅場町には、東京証券取引所(写真1枚目)や
摂社日枝神社のほか、高度経済成長期を思い出させるような
オフィスビル(写真2枚目)が立ち並んでいます。
どちらかというと「昭和」の味わい深さもありますが、
平成という時代を越えてエリアの再開発が始まっており、
時代の流れを感じます。
 

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終点付近の築地には、東京都選定歴史的建造物にもなっている
「宮川食鳥鶏卵」さんの建物(1929年築)があります。
そのほか、沿道には、新富座跡桂川甫周屋敷跡などの史跡もあり、
「平成」と言いつつも、様々な時代を抱える通りになっています。

 

■その2「昭和通り」
新橋(港区新橋1)から大関横丁(台東区根岸5)までを結ぶ
幅の広い通りで、中央区内を含む新橋~上野の間は、
中央通りの東側に並行して走っています。
 

さきほどの平成通りとも、首都高速道路を挟んで並行していますね。
 

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この道路は、1923(大正12)年に発生した関東大震災のあと、
復興都市計画の目玉としてつくられたシンボルロードで、
1931(昭和6)年と、元号が昭和に変わったばかりのタイミングで
完成したことから「昭和通り」の愛称がつけられました。
まさに、昭和という新しい時代を象徴する通りだったわけです。

その幅広い幅員(44メートル)は、街路樹帯や歩道をたっぷり設けた
公園街路として計画された名残でもあります。
(ちなみに構想当初は、108メートルの幅員で計画されていました。
なんと今の幅員の倍以上です!)
図書館で古い写真を探してみると、完成した当時は上下の車線の間に
2列の並木と歩道が設けられていたようです。(一部は、駐車場として
使われていたようですが・・・)

 
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現在の姿は、片道3車線以上ある区間、地下には通過交通専用の地下道と
そこから接続する地下駐車場、江戸橋以北では頭上に首都高速道路の高架...
と、都心部の大動脈として大量の自動車交通を捌く、機能面を重視した構成です。
ある意味、昭和、とくに戦後の時代を象徴する道路になっています。
 

いまは車通りが多いだけで殺風景、見どころがなさそう・・・と思われがちな
この昭和通りですが、沿道には日本橋郵便局(郵便発祥の地)べったら市由来碑
狩野画塾跡などの史跡や日本橋ダイヤビルディング(旧・江戸橋倉庫ビル)のような
著名な建築物があるほか、
日本橋本町には小津史料館Daiichi Sankyoくすりミュージアムといった
スポットもあります。
 

平成通りも、昭和通りも、通りという視点で区切って歩いてみると、
また違った面白さがありそうですね!

 

さて、次回は大正時代へ遡っていきたいと思います。
「大正通りなんてないよ!?」と思われる方もいらっしゃると思いますが、
実は、昔を遡ってみると中央区内にも「大正通り」があったのです。
乞うご期待!

 

 

年末年始の風情あふれる人形町通り

[しばしばしばた] 2019年1月 3日 14:00

人形町駅から水天宮前駅にかけてつづく人形町商店街では、
毎年、年末年始の時期になると、通り沿いにちょうちんが出されます。
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夜になると、ちょうちんの温かい照明が通りを照らし、素敵な雰囲気になります。
江戸の下町らしいイルミネーションの姿といったところでしょうか
人形町通りは、年間を通して様々な装いの変化が楽しめる通りですが、私はこの年末年始のちょうちん飾りが一番のお気に入りです
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「大観音寺」さんの入り口にも、ちょうちんが並びます。
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また、年末の時期には、人形町通りは「歳の市」となり、しめ縄飾りなどを売る露店が並びます。(注:2018年はすでに終了)
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この季節、歳の市以外にも、町会の方々の「火の用心」の声と拍子木の音が聞こえてきたり、玉子焼きが有名な「鳥近」さんや「鳥忠」さんには玉子焼きの予約に沢山の人が訪れていたり、平日の夜になると忘年会帰りの方々がたくさんいらっしゃったり、年末の風情で人形町の街はいっぱいになります。そして、年明けになると、初詣にいらっしゃる皆さんでまた違った賑わいとなります。

いずれにせよ、この街に住んでいる方、働いている方、訪れる方の色んな活動が、こうした「生きた賑わい」を形作っているんだなあと感じる季節です。こうした中央区の「生きた賑わい」の魅力をうまくお伝えできるよう、来年も観光協会特派員として精進してまいりたいと思います

 

 

ビルから読み解く50年前の構想 -- 旧・電通本社ビル

[しばしばしばた] 2018年12月 1日 12:00

中央区役所(築地1-1)から、首都高速道路沿いに汐留方面に歩いていくと... 「祝橋」のたもとに、何やら妙に存在感のあるビルが見えてきます。

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このビルは、呼び方はいろいろありますが「旧・電通本社ビル」(築地1-11)で、
その名の通り、広告代理店の「電通」さんが、2002年に汐留に移転するまで、本社を置いていた建物です。
竣工は1967年、日本を代表する建築家・丹下健三さん率いる「丹下健三・都市・建築設計研究所」の設計です。

 
このビル、実はとても壮大な構想の一部をなすビルでした。
丹下健三さんは、「築地再開発計画」というマスタープランを、このビルが竣工する3年前の1964年につくっています。

 
<参考>築地再開発計画のイメージ

https://www.tangeweb.com/works/works_no-32/
(丹下都市建築設計さんのホームページに飛びます)

 
築地再開発計画は、大規模な建物が繋がってひとつのシステムのような都市をつくる壮大な構想になっており、
それぞれの建物は、需要に応じて建物が高さ方向にも横方向にも自由にどんどん延びていくような構造になっています。
(ちなみに丹下先生は、さらに大きいスケールで都市が海上に延びていくような「東京計画1960」という構想を提案したことでも有名です。)

 
旧・電通本社ビルは当初、この壮大なシステムの一部分になることを想定して計画されていました。
建設費の関係などで設計が変更され、実際に建設されたものと当初の計画は少し違うものになっていますが、
建物の側面を見てみると、築地再開発計画で見られたような「どんどん延びていく」性質が表現されているのがわかります。
(下の写真をご覧ください!)

 
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① 建物の「表面」ではなく途中の「断面」であるということを示すような、窓が少なく無機質な壁

梁(はり)がちょこっと飛び出ていて、いかにも延びていきそう
③ 窓枠が、一つの単位の半分のところで寸断されている!

 
こんな風に見ていると、建物が本当に増殖していきそうに見えてきて、面白いですね。

 
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そんな旧・電通本社ビルですが、コンクリートや金属のような素材をふんだんに使った点や、機能性を追求した工業製品のような仕上がりが特徴でもあります。 それから、一階部分の壁や柱の無い空間は、フランスの巨匠・ル=コルビュジェの「建築を地面から解放する」という思想の影響が見てとれます。これらは「モダニズム建築」に見られる特徴です。

 
また、このビルは「特定街区」という制度が初めて適用された事例の1つでもあります。
...それまで、日本の大都市ではわずかな例外を除いて建築物の高さが31メートル(およそ百尺)までに制限されていましたが、建築技術の進展や高度経済成長を背景として高さ制限の撤廃が希求される中、街区内に限って独自に高さなどを設定できる「特定街区」という制度が1961年に創設され、日本初の超高層ビル「霞が関ビルディング」の誕生にも結び付きました。そして、旧・電通本社ビルは霞が関ビルディングと同じ日に特定街区に指定された、第1号案件のうちの1つなのです。
高さ約60m、今となっては東京では珍しい高さではない存在ですが、竣工当時は日本の急速な経済成長や東京の市街地の高層化を象徴する存在だったのでしょう。

 

そんな、当時の建築思潮や社会情勢を今に伝えてくれる「旧・電通本社ビル」ですが、現在は空きビルになっており、近々、建て替えが計画されているという噂も耳にします。

50年前の空気感に思いを馳せに行くなら、今のうちです

 

 

空港の中に日本橋が!? ―「はねだ日本橋」

[しばしばしばた] 2018年10月31日 09:00

こんにちは!
きょうは、中央区を飛び出して、東京国際空港(羽田空港)からお届けしたいと思います。

この「中央区観光特派員ブログ」では、原則として中央区に関する情報を発信することになっているのですが、
大田区にある羽田空港を取り上げたのはなぜか・・・?

それは、羽田空港の中に、中央区のアイデンティティの1つである日本橋のレプリカがあるからです
その名も「はねだ日本橋」。2010年に供用開始した国際線ターミナルビルの中にあります。

電車・モノレール・バスで国際線ターミナルに到着し、3階の出発ロビーに出ると、
左奥の方向にそれらしきものが見えてきます。エスカレーターで4階に上がり、その方向に進んでいくと・・・

 

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「はねだ日本橋」が見えてきます。橋の下は、テーブルと椅子が置かれて休憩スペースになっています。
日本橋のレプリカといっても、現在架かっている石造りの日本橋ではなく、江戸末期、19世紀前半の木造の日本橋がモデルになっており、吉野産のヒノキが使われているそうです。(ちなみに、江戸末期の日本橋はヒノキとケヤキが使われていたようです)
幅や長さは約半分のサイズ(4m×25m)で再現されています。

 

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階段やエレベーターを使って、橋の上にあがることができます。
木製の灯籠も置いてあったりして、現代的なデザインのターミナルビルの中に、和の雰囲気が作られています。

 

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「旅立ちは 昔も今も 日本橋」...中央区観光特派員として心に刻んでおきたいことばです

 

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橋の片側は壁になっており、巨大な「江戸図屏風」のレプリカが表示されています。
成立期の江戸の主要な街が描かれていますが、その中には「日本橋」「京橋・新橋周辺」「八丁堀・築地周辺」と、現在の中央区にある街も多く登場しています。
写真は「日本橋」の一部です。

 

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「江戸図屏風」の逆側は見晴らしが良く、国際線ターミナルビルの出発ロビーを見渡すことができます。
もちろん、実際の日本橋から見える風景とはかけ離れていますが...笑、
なんだかタイムスリップした感じを味わうことができます!

 

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なお、玉ねぎのような形をした「擬宝珠」とそれを支える「宝珠柱」実際のサイズで再現されています。

ちなみに、出発ロビーから「はねだ日本橋」に行く途中は「江戸小路」という、
江戸時代の街並みをイメージしたショッピングエリアになっています。

 

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さて、今回ご紹介した「はねだ日本橋」のほか、墨田区の「江戸東京博物館」にも江戸時代の日本橋のレプリカがありますが、いずれも長さは半分だけの再現...
実際の日本橋のスケールは、やはり現地でしか体験できません!

羽田空港から日本橋までは、京急線―都営浅草線の直通電車に乗れば乗り換えなしでアクセスできます。
「はねだ日本橋」で江戸時代の日本橋の質感を体験し、「江戸図屏風」で江戸時代の中央区の景観に思いを馳せてから、日本橋の上に立ってみる...そんな旅も面白いかもしれません!

 

 

築地市場のマグロ競り見学を見納め!

[しばしばしばた] 2018年9月30日 12:00

こんにちは!きょうは、築地市場の最後のマグロ競り見学の様子をレポートしたいと思います!
 

皆さんご存知の通り、中央区築地にある東京都中央卸売市場築地市場は、今年の10月6日を最後に閉場し、その機能は江東区の豊洲市場へと移ってしまいます。
そんな中、近年外国からの観光客の方々を中心に人気となっていたマグロ競りの見学は、9月15日を最後に終了となりました。
閉場前に一回見学に行っておきたいと思っていたので、9月15日で最後という情報を聞いて、駆けつけて参りました。
 

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さて、マグロ競り見学は午前6時前後に2グループに分けて実施され、見学受付は午前5時となっています。
事前予約制ではないので見学を希望する場合は朝5時前から並んでおく必要があり、結構ハードです
しかし、この日私が列に並び始めたのは、前日14日の夜23時!・・・というのも、本当は14日の朝に見学に行こうと思って朝4時ごろにうかがったのですが、その日は「朝2時の時点で並んでいる方が定員に達したので受付を終了した」ということでチャレンジに失敗・・・。「最終日は日付が変わる頃に締め切られてしまうだろう・・・!」と目論んだのです。
私が列に入ったとき、すでに20名程度の方がお並びになっていました。雨の降る中、傘をさしてじっと待ちます。
 

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日付が変わってしばらくしてから、並んでいる方の数が多くなったので受付がはじまり、施設の部屋の中に通していただきました。
その後は、体育座りで待ちながら夜を明かします。雨を凌げたので良かったですが、なかなか良い鍛錬になりました
午前4時だったでしょうか、卸売の方が、築地市場のまぐろ競りの説明に来てくださいました。外国人の方が多いので、説明は英語です。英語の質問にもきっちり英語でお答えになっており、素晴らしい対応をしてくださいました!
 

その後、朝6時前にようやく部屋を出発します。外に出ると、すっかり明るくなっていました。
 

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競り場の建物の中に入って、いよいよ待ちに待った見学です。
中では、冷凍されたマグロさん達がずらーっと並んでいる様子を、同じ空間の中で、間近に見ることができました。
そして時間が経つとともに買い手の方々が続々と集まってきました。
 

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それぞれのマグロの上に円錐台形の何かが乗っているのが見えますが、これは、マグロの質を確かめるために尾の部分を切り落としたもので、買い手の方々は、カマでこの部分の身を削って手に取ったり、懐中電灯で照らしたりして質を確かめます。
 

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6時を過ぎて、売り手の方が鐘を鳴らすと競りが始まり、会場中のあちこちで値段を叫ぶ声が聞こえてきました。指で値段を示しながら競りがどんどん進んでいくので、見学している一般人としては中々ついていけませんが、独特の雰囲気を体験することができました。
 

聞くところによると、移転先の豊洲市場でもマグロの競り見学が実施されるとのことです。ただ、見学者専用の通路やスペースが設けられるようで、安全にトラブルが少なく見学できる一方、「外から」見学するふうになってしまうのは否めません。築地で競り場の「中から」見学できたことはとても貴重な体験でした!
 

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さて、築地市場はまもなく閉場してしまいますが、築地の街自体はこれからも楽しめるはず!と私は思っています。
築地市場の周りに形成された築地場外市場はこれからも現在の位置に残り、寧ろ「築地魚河岸」を加えてパワーアップしています。買出人の方々の仕入れの場であり続けるのはもちろん、観光にいらした方々に日本の食文化を発信する拠点にもなることと思います。(写真は築地場外市場の様子です)
さらに、築地の街は市場以外にも見どころがいっぱいあります。古代インド様式と日本の寺院建築の様式が融合した独特な本堂が印象的な築地本願寺や、所々に残る戦前の木造建築、明石町のほうにはキリスト教関係の数々の史跡・・・など、様々な顔を持つ築地の街に、これからも注目していきたいと思います!