[与太朗]
2011年5月31日 09:00
名橋日本橋、明治44年4月の架橋から、関東大震災や戦災に耐え生き延びてきて満100年。このたびの東日本大震災の影響で誕生祝も押し流されてしまい、全くお気の毒さまでした。今日はずばり「日本橋」をタイトルにした泉鏡花(1873-1939)の小説(1914大正3年出版、戯曲は1917刊)の舞台を歩いてみました。
『日本橋』は鏡花40歳の作品。タイトルは橋の名ではなく、地名。旧檜物町・槇町・元大工町などの花柳界を抱える、地名としての日本橋です。花街に生きる日本橋芸者たちの精神美が名文章で描かれていますが、日本橋を愛し、芸妓を愛したフェミニスト鏡花の女性観、恋愛観、さらには江戸っ子観が窺われる円熟期の名作といわれます。『日本橋』は出版の翌年には新派により本郷座で初演、以来新派の当り狂言となり、今年一月には名橋「日本橋」架橋100周年記念と銘打って、三越劇場で公演されたので、ご覧になった方も多いと思います。
檜物町
檜物町は現在の八重洲一丁目、日本橋花柳界の中心で、『日本橋』では清葉の「瀧の家」のあるところ。このあたり震災・戦災で焼かれ、東京駅は目と鼻の先という場所、昔の情緒を偲ばせる建物などは皆無ですが、明治創業の割烹「や満登」がビル街に現在も健在です。新派の舞台ではこの店の名前が登場します。
小説『日本橋』の装幀は日本画家の小村雪岱(1887-1940)。最初の装幀の仕事でしたが、装幀史上屈指の名作と言われ、彼は以後挿絵や舞台美術の分野でも一時代を画す存在となります。雪岱は川越生まれですが、若くして上京、檜物町二十五番地で育ちます。ここは歌吉心中という有名な事件があった家でした。彼も鏡花同様、日本橋を愛し、死後彼の文章を集めた本のタイトルは『日本橋檜物町』でした。
一石橋
三月四日の晩、医学士葛木晋三が巡査の尋問を受け、稲葉家のお孝が助け舟を出したのが一石橋の欄干際、その後もこの橋で重要な場面が展開されます。当時は長さ14間、幅3間の木橋、大正11年鉄筋コンクリートのアーチ橋になり、現在の橋は平成12年の竣工です。大正架橋時の花崗岩の親柱一基が南詰に保存されています。(中央区民有形文化財) また、その隣には江戸時代からの「まよい子のしるべ」も残っています。(東京都指定文化財)
西河岸延命地蔵尊
享保年間に創建された西河岸地蔵堂は縁結びの御利益で有名でした。『日本橋』でも主人公たちのお参りが描かれています。大正4年本郷座初演の際、お孝の抱妓お千世役に抜擢された当時無名の花柳章太郎は、稽古のあとの雪の夜、延命地蔵尊に役の成功を祈りました。そしてこれがのちの人間国宝・文化功労者の出世作になります。彼は昭和13年明治座での再演に際し、雪岱描くお千世の額(鏡花と章太郎の句が添えられている)を地蔵尊に奉納します。この図額は現在、中央区民有形文化財に指定されています。今日訪れた本堂の前にはお千世の姿が描かれた丸い絵馬が納められ、良縁を求める若者の熱い願いが込められているようでした。適齢期の方、一度お参りしてみませんか。
最後に稲葉家お孝の名セリフを・・・
「雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日、・・・一所に詣る西河岸の、お地蔵様が縁結び、これで出来なきゃ、日本は暗夜(やみ)だわ。」
【写真】 上から
・八重洲一丁目、旧檜物町界隈
・現在の割烹「や満登」
・一石橋
・西河岸延命地蔵尊
・延命地蔵尊、縁結びの絵馬
[与太朗]
2011年2月 1日 10:00
間寛平さんがマラソンとヨットで二年以上の苦闘の末、世界一周のゴールを迎え、大歓声を浴びていたTVを見て、リーフデ号を思い起こしました。約400年前、オランダ船リーフデ号は東洋への新しい商品販路を求めて出航、約二年の航海の末、豊後佐志布(大分県臼杵市佐志生)に漂着します。航海士のイギリス人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)とオランダ人ヤン・ヨーステンはともに徳川家康の外交顧問として重用され、アダムズは按針町に、ヨーステンは八重洲の語源となった八代洲河岸に屋敷を与えられたので、中央区のみなさんもよくご存知のことと思います。諸処に記念碑も建てられていますが、リーフデ号の漂着は日英、日蘭の修
好史の第一頁を飾る大事件だったのですね。以下、これにちなんだことを思いつくままに書いてみます。
「慶長五年(1600)暴風で豊後の海岸に漂着した」とあっさり書かれた記述をよく見かけますが、1598年6月ロッテルダム出帆以来の航海は過酷の一言。厳しい天候、風と浪、食料欠乏、脚気に壊血病、餓死に凍死、敵国ポルトガル支配地の島民との戦闘・・・波瀾万丈を絵に描いたようなものでした。5艘のガレオン船の艦隊は当初の喜望峰回り東洋行きから、マゼラン海峡(ここで5カ月越冬する破目に)経由日本行きに変更をします。結局日本にたどり着いたのはリーフデ号のみ、それも110名の乗組員が漂着時には生存者わずか24名(翌日にはさらに3名死亡)、立ち上がれる者は6名という悲惨な航海でした。このあたりはアダムズの書簡や伝記にあるほか、白石一郎さんの小説『航海者』にも描かれています。
ウィリアム・アダムズは「日本に来た最初のイギリス人」といわれ、これをタイトルにした本も出ています(P・G・ロジャーズ著)が、異説もあるようです。鈴木かほる著『徳川家康のスペイン外交』では、アダムズが来る20年前の天正八年(1580)イギリス人が肥前平戸に来日し、およそ20年間通商が行われたという『古事類苑』の記述を紹介しています。(1947年英軍が伊東市に建てたアダムズの記念碑は「日本に最初に定住した英国人」という表現になっているようです。) また同著によれば、日本ではリーフデ号は「漂着」といわれるが、オランダ史上では、目的意識を持って日本を目指したものであるから「到着」と記されているのだそうです。なるほど!
リーフデ(慈悲、愛の意)号はもとエラスムス号と呼ばれ、船尾にエラスムスの木像が付けられていました。この木像は漂着後外され、栃木県佐野市の龍江院に長年祀られ、現在は東京国立博物館に保管されています。乗組員同様あるいはそれ以上の数奇な生涯ですね。千代田区丸の内にあるリーフデ号の記念像にはエラスムス像とおぼしきものがしっかり付けられています。芸が細かい!
ヤン・ヨーステンの屋敷は馬場先門と和田倉門の中間、内堀東岸の八代洲河岸にあったといわれているので、残念?ながら中央区内ではありませんが、千代田区からは消えた「八重洲」の地名を中央区が戦後町名として使用したため、彼の記念碑が八重洲通りの中橋交差点中央分離帯と八重洲地下街の二か所にあります。(しかも両方とも肖像付き。ちなみにアダムズの方は肖像が残されていないそうです。) うっかりすると将来ヤン・ヨーステンの屋敷は中央区八重洲にあったと
誤解する人が増えるかもしれませんね。八重洲地下街の記念像は場所が転々、「漂流」していたようですが、八重洲南口ラーメン屋さんの隣に安住の地を見つけたようです。蛇足ながら、『江戸名所図会』の八代曾河岸の項ではヤン・ヨーステンが「ヤンヤウスハチクワン」と(おそらく誤って)表わされているため、八官町の名の元となった八官と同一人物と誤解する説があるようです。同じ斎藤月岑も『武江年表』でははっきり別人として書いています。ヤン・ヨーステン(耶揚子)はヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタインというのが正しい?名前のようです。
【写真】上から
・和田倉門から馬場先門をのぞむ
・按針町(日本橋室町一丁目)のアダムズ屋敷跡
・丸の内二丁目にあるリーフデ号記念碑
・同じく船尾のエラスムス像
・八重洲通りのヨーステン記念碑
・八重洲地下街のヨーステン像
[与太朗]
2010年12月27日 09:35
いよいよ年の瀬、27日~29日には江戸の名残をとどめる薬研堀の歳の市ですね。江戸時代、同じように暮の28日、日本橋四日市に立った「才蔵市」というのをご存知ですか?
「三河万歳、江戸に下りて毎歳極月(しわす)月末の夜、日本橋の南詰に集りて、才蔵をえらびて抱ゆるなり。これを才蔵市といふ」(『江戸名所図会』)
あら楽しあら楽し、常若(とこわか)にご万歳とはお家も栄えましまする・・・
三河万歳は、折烏帽子、麻の素襖に両刀を差した「太夫」と鼓を持った「才蔵」の二人が元旦から家々を廻り、才蔵が打つ鼓に合わせ、めでたい祝い言葉を掛け合いで唱えてはご祝儀の米銭をもらう、正月気分に欠かせない祝福芸でした。
太夫は徳川家ゆかりの三河からやってきて、江戸で才蔵を雇いました。主に房総方面から出稼ぎの才蔵の中から気に入った者を選び、相方に雇う市場が才蔵市でした。
四日市町は日本橋川南岸、日本橋と江戸橋の間、現在の日本橋1-7~10、18~19あたりでした。(当時の江戸橋は今より東寄りに架かっていました。) 明暦大火後に広小路ができ(現在の日本橋郵便局辺)、河岸には封疆蔵(どてぐら)が設けられ、江戸橋の西には木更津往還の舟が発着する「木更津河岸」(現在、三菱倉庫・野村證券の辺り)がありました。房総から来る才蔵たちは舟でここに着いたのでしょうか。
この才蔵市ですが、時代が下ると消えてしまったようです。
「天保以後にはそれがもう廃(すた)れて、万歳(=太夫のこと)と才蔵とは来年を約束して別れる。・・・それが此の頃の例になっているので、万歳はその都度に才蔵を選ぶ必要はなかった。」(岡本綺堂『三河万歳』)
【写真左】 日本橋南詰より江戸橋方面をのぞむ
【写真右】 江戸橋南交差点、左から現在の江戸橋、三菱倉庫、日本橋郵便局
[与太朗]
2010年11月29日 08:36
「江戸京橋銀座一丁目。お上りなれば左りの方。お下りなれば右りの方。表は板塀に竹を植え込み、隠者めかした山東京伝。内へ入れば、たゞの店。京屋伝蔵方にて・・・」(山東京山『煙草二抄』)
江戸戯作の第一人者、ベストセラー作家の山東京伝は、数え13歳から56歳の没年まで銀座一丁目の住人でしたが、寛政五年(1793)秋、33歳のとき、京橋銀座一丁目東側橋の方の木戸際に借家して間口九尺奥行二間、紙製煙草入れの店を開きます。浮世絵師北尾政演としても評価の高い京伝自身デザインの新形商品が大当たり、寛政七年には同じ銀座一丁目、父伝左衛門が家主を務める医者の家蔵を買って移転、間口三間の広い店になりました。
京伝は戯作の中でも店を宣伝、歌麿は京伝店の店頭を大判錦絵に描き、京伝に引き立てられた馬琴もその作中で「今時、京伝店の煙管・煙草入れを持たない者と薩摩芋・唐茄子の嫌いな女はいない」などと提灯持ちをしています。自作の引札(ちらし)も評判を呼び、判じ物仕立てになったものもありました。(判じ物とは、狐に背負われた子の絵で「古今」、老僧が逆さになって「候(そうろう)」と読ませる類。明治になって幸田露伴が解読文『京伝の広告』を書いています。) 繁昌につれて扱う商品も開業時は紙製煙草入れのみだったのが、楊枝入れ・煙管・鼻紙袋から懐中物一式、読書丸・奇応丸などの薬類、白牡丹など化粧品と増え、「江戸じまん名代名物ひとり案内」という番付には化粧品・小間物・薬類に「京はし 京傳 烟草入」が前頭に挙げられています。
彼は黄表紙・洒落本ですでに大作家としての地位を築いており、寛政の改革では筆禍に遭いましたが(手鎖五十日)、しっかりした堅実な家業を起こし、それを基にさらに読本・合巻や考証の分野で腕を揮っていきます。マルチアーティストというと往々奇人変人タイプを想像しがちですが、京伝は人格的にも円満な粋者、通人だったようです。
文学散歩の草分け野田宇太郎は、京伝を「銀座的人物」と評し、こう書いています。
「江戸稀代の粋人で、戯作もし浮世絵も描き、ディレッタントらしい教養をもちながら商才にもたけていた山東京伝を、わたくしはいかにも銀座らしい人物だと思う。」
【写真上】現在の銀座一丁目東側(一丁目交番前より)
【写真下】京橋記念碑と親柱(明治8年)
[与太朗]
2010年10月28日 13:30
中央区は多くの文化人・芸術家を生んでいますが、銀座通り沿いで生まれ育った人となると少ないでしょう。何点もの麗子像で有名な岸田劉生は彼の回想文『新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)』によれば、明治24年(1891年)6月23日、京橋区銀座二丁目11番地(現在の銀座2-7メルサの辺り)で生まれ、「鉄道馬車の鈴の音を聞きながら青年時代までそこで」育ちました。
父は明治の先覚者の一人、岸田吟香。生家は目薬「精錡水」(吟香がヘボン博士から製法を伝授されたもの)で名高い楽善堂。店と母屋と工場があり、隣の勧工場も岸田の家作、銀座通りをまたいで倉庫もありました。岸田麗子の『父 岸田劉生』によれば、店は間口八間、半分に区切って向かって右が「精錡水」や「薬シャボン」を売る薬房、左が中国の筆墨硯紙その他文房具類や書籍を売る書房でした。(楽善堂の「鐡飴煎」という薬の広告看板が郷土天文館に残されていますね。)当時としてはハイカラな家で、銀座通りに面した二階には洋風のバルコニーがあり、吟香はよくここで体操をしていたそうです。(『新古細句銀座通』には劉生画の生家図、隣の勧工場などの挿画があって楽しい。)
子供のころの劉生はかなりのいたずら坊主で、銀座の舗道に糝粉細工で作った血まみれの小指を置いて大騒ぎを起こしたり、女の生首を作って女中の腰を抜かせたりしました。また、竹川町(現銀座七丁目)の勧工場にある西洋画の常設展覧所に通い詰め、木戸御免にしてもらうなど、将来の大画家にふさわしいエピソードも残しています。
劉生は多くの麗子像をはじめとする肖像画、自画像や代々木の切通し坂の絵が広く知られています(「麗子微笑」「切通しの写生」は国の重要文化財)が、中央区内を描いた絵としては、銀座風景や築地居留地風景の油彩が初期に何点か描かれています。
【写真上】 生家辺の現在
【写真中】 生家跡近くにある銀座発祥の地碑
【写真下】 京橋跡近くの煉瓦銀座の碑
( ちなみに、京橋架け替えの際、父吟香と天狗 煙草の岩谷松平が渡り初めをしたことをよくおぼえていると劉生は書いています。明治34年の鉄橋の時でしょう。)
[与太朗]
2010年9月29日 08:36
「パン(牧羊神)の会」は明治四十年代、木下杢太郎・北原白秋・吉井勇・高村光太郎・石井柏亭・倉田白羊らが中心となって、新しい芸術を追求する青年文学者・美術家を集めた交遊会です。セーヌに見立てた隅田川に近い店が会場となりましたが、明治43年11月20日には大伝馬町二丁目瓢箪新道の西洋料理「三州屋」で盛大に開催されました。・・・ということで今日は「瓢箪新道」を歩いてみました。
江戸の切絵図を見ると、「ヒヤウタンシンミチ」は本町通りの南の裏通りでした。東に行くと大丸呉服店の裏通り「大丸シンミチ」になります。現在の地図でも道路がそのままの位置に残っています。人形町通りの西側、現住居表示では日本橋大伝馬町6と日本橋堀留町1-11の間、50mたらずの道が「瓢箪新道」でした。 [写真上] それでは「三州屋」はどのあたりにあったのか? 六十年以上前にこのあたりを尋ねた野田宇太郎『文学散歩』によると、「三州屋のあったところは、その瓢箪新道がまもなく左右にのびた裏通りの問屋街と交叉した手前右角で・・・」とあるので、 [写真右]のあたりだったようです。
会の当日、店の前にはメンバーが作った提灯が下げられました。「瓢箪新道というと私は暗い横丁の土蔵に面した入口のところに、牧羊神の顔を大きく描いた白張の提灯が、ふらふらと風に動きながら、ぶら下っていたのを思い出すのである。」(吉井勇「大川端」) この時の「パンの会」は中心となるスバル、方寸に加え、白樺、三田文学、新思潮同人らも参加。あまり広くないこの店に数十名の芸術家が一堂に会し、大盛会・大酒宴となりました。
谷崎潤一郎はここで初めて永井荷風に会います。「先生! 僕は実に先生が好きなんです! 僕は先生を崇拝しております! 先生のお書きになるものはみな読んでおります! 」酔った勢いでこう言ってお辞儀をすると、酒を飲まない荷風は「ありがとうございます。ありがとうございます。」とうるさそうに応えた、と谷崎の『青春物語』にあります。翌明治44年11月、荷風は「三田文学」に『谷崎潤一郎氏の作品』を発表、谷崎を激賞し、彼は一躍文壇の寵児となります。
木村荘八の有名な油絵『パンの会』(昭和3年)は兄の荘太も出席したこの日の会の情景を想像しながら描いた作品といわれています。