[与太朗]
2015年12月30日 17:00
数寄屋橋公園という目抜きの場所にありながら、あまり注目されないのが、震災復興記念の銅造彫刻、北村西望 (1884-1987) 作『燈臺』ですね。ジャンボ宝くじを求める長蛇の列もすぐ脇にあるこの記念塔は目に入らないとみえます。この彫刻は西望45歳、当時東京美術学校教授だった彼が、昭和6年(1931) 第12回帝展に出品した作品を、共同募金により関東大震災満十年となる昭和8年(1933) 9月1日に震災記念碑として設置したものです。
炬火をかかげる兜をかぶった青年の足元には百獣の王、獅子が控えています。西望お得意の力強い男性像で、たくましく復興する帝都東京を象徴したものでしょうか。台座の設計も西望で、懸賞募集された標語「不意の地震に不断の用意」の西望自筆銘板がつけられています。
「天災は忘れたころにやってくる」といわれますが、近頃では「忘れる間もなくやってくる」といったほうがいいかもしれません。有楽町方面に出かけた際はよくこの銅像に立ち寄り、日ごろの備えを怠らぬよう肝に銘じることにしています。新しい年は災害のない穏やかな年であってほしいものですね。
【つけたり】
北村西望は長崎県出身、友人朝倉文夫、建畠大夢という天才二人を目標に研鑚を積み、好きな言葉「たゆまざる歩みおそろし蝸牛」を身をもって体現した努力の人。東京では井の頭自然文化園内の彫刻園で多数の西望作品を見ることができます。昭和33年(1958) 彫刻では朝倉文夫に次ぎ二人目の文化勲章、昭和55年(1980) 東京都名誉都民、長崎県名誉県民。昭和62年(1987) 、102歳で永眠。畢生の代表作『長崎平和祈念像』は数多の困難・誹謗・妨害のなか五年がかりで昭和30年(1955) に完成、今に戦争犠牲者の冥福と世界の平和を祈っています。
【もう一つつけたり】
大相撲の東京本場所の優勝力士には東京都知事賞が授与されますが、賞品は北村西望作の『獅子奮迅』像です。昭和56年(1981) 五月場所で初めての授賞者となったのは、先日急逝した相撲協会理事長、当時の東横綱北の湖でした。
[与太朗]
2015年9月30日 18:00
銀座六丁目の銀座朝日ビル建替工事現場に文豪夏目漱石 (1867-1916) が現れました。現場の仮囲い、並木通り側とソニー通り側の両面に漱石の肖像と小説『三四郎』、『明暗』の挿絵 (名取春仙画) が描かれています。
ここは旧瀧山町、漱石が入社した東京朝日新聞社のあった場所 (現・銀座6-6-7) 。並木通り車道寄りには同社の校正係だった石川啄木 (1886-1912) の歌碑があります。ふだんはこれをながめて通りすぎる人も、今は向かいの漱石に目を奪われているようです。
漱石は、明治40年 (1907) 帝大・一高の教職を辞し、東京朝日新聞社に入社します。当時の社会的評価の差から、世間を驚かせた転身でしたが、「新聞屋が商売ならば大学屋も商売である」、「何か書かないと生きている気がしない」と、敢然として文芸創作の道に進んでいきます。『虞美人草』を皮切りに、『三四郎』『こころ』・・・そして絶筆未完の『明暗』に至るまで朝日新聞連載小説として世に送り出します。また、文芸欄を主宰して新進作家を推挽、発表の場を与えました。出社の義務はありませんでしたが、水曜日の編集会議に出てくると、口数は少ないが、すました顔で思いがけない警句を吐いて皆を笑わせ、賑やかな会議になったそうです。
私・与太朗は、漱石と中央区の関わりについて過去二度ばかりこのブログに書かせていただきましたが、その際、区内で最も漱石とご縁の深い重要なこの場所に、彼を偲ぶものが何もないというのが残念でたまりませんでした。二年後、工事が済めばこの囲いも無くなります。そのときには新しく恒久的なモニュメントが造られることを念願しています。来年2016年は漱石没後100年、再来年2017年は生誕150年、大きな節目が近づいています。
【つけたり】その一 石川啄木の歌碑 (写真右)
「京橋の瀧山町の新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな」
漱石の『それから』『門』の連載は、啄木在社時に重なります。啄木も校正を担当したことでしょう。
【つけたり】その二 拙文二つ
「漱石の足あと in 中央区」 (2012.10.31)
/archive/2012/10/in-3.html
「文豪と丸善 (その二) 夏目漱石と万年筆」 (2013.3.14)
/archive/2013/03/post-1576.html
[与太朗]
2015年2月 1日 09:00
赤穂浪士が本所吉良邸に討入り、上野介の首級をあげたのは元禄15年12月15日の未明、西暦では1703年1月31日、312年前のちょうど今時分のことでした。この年はとりわけ寒気が厳しかったそうです。
ところで四十七士の中で首領大石内蔵助と並んで知名度No.1、人気投票・総選挙をすればトップ当選確実なのが堀部安兵衛武庸(たけつね)(1670-1703)。彼はご存知高田の馬場の決闘助太刀のヒーロー、赤穂事件でも仇討急進派として奮闘、死後は芝居・講談・映画の世界で生き続けます。最近も企業PRのテレビCMにタイムスリップして登場し、ビックリさせられました。
そんな彼の事績を刻した『堀部安兵衛武庸之碑』を当中央区、亀島橋西詰でご覧になった方も多いことでしょう。(八丁堀1-14) 昭和44年、八丁堀一丁目町会が建てたものだそうです。なぜここに建っているのでしょうか。碑には、「安兵衛が京橋水谷町の儒者細井次郎大夫家に居住したとあるので、どうやらそれが基のようです。八丁堀一丁目・二丁目には江戸時代、「水谷町」がありました。ただし「京橋水谷町」というのはそこではなく、現在の銀座一丁目にありましたが(水谷橋公園のあたり)、火事になり、享保4年(1719)八丁堀に移転になります。したがって安兵衛存命の元禄時代にはまだ八丁堀の水谷町はありませんでした。八丁堀一丁目町会の方々は水谷町の故地、京橋の水谷町に安兵衛が住んだことがあるということで(おそらくごく短期間だと思われますが) 建碑したのでしょうね。
堀部安兵衛というと「けんか安兵衛」とか大酒呑みのイメージがありますが、至極柔和で小児を可愛がり、言い尽くせないほど貞実な人物、とか、義父弥兵衛に血のつながりはないのに手蹟、物腰、志までよく似ている、とかの評が残されており、決して伝えられるような粗暴な若者ではなかったようです。(弥兵衛同様下戸だったという説もあります。) そんな人柄が周囲に愛されて人気者となり、後々の昭和の建碑にもなったのでしょうか。
さて、京橋水谷町に住んでいたと碑文にある細井次郎大夫(号は広沢)(1658-1735)ですが、儒学者、書家、篆刻家として歴史に名を留めていますが、その他天文・測量、剣術、柔術、弓術、馬術、軍学、鉄砲・火術、彫金、和歌、謡、能、俳句、等々 文武全般にわたり極意をきわめたスーパーマルチ人間でした。12歳年下の安兵衛とは剣術念流の堀内源左衛門道場で知り合い、以後変わらぬ深い親交が続きます。討入りに際しても徹底サポートで、堀部父子に討入りの趣意書「浅野内匠家来口上」の文案について意見を求められています。討入り当夜は深川八幡町の自宅の屋根に上り、本所吉良邸に(不首尾の場合の)火の手があがりはしないかと明け方まで起きていたそうです。義士切腹後には重要史料の「堀部武庸筆記」や安兵衛の遺品(籠手)などが広沢に託されました。
細井広沢一族の墓は世田谷等々力の満願寺にあります。(国指定史跡) 山門の扁額「致航山」は広沢の書、本堂の「満願寺」は子の書家九皐の書。この寺は世田谷吉良氏の開基、彼が支援した討入りの仇役上野介と同族なのは奇縁? です。勝海舟は晩年、江戸時代以降の傑出した人物の一人に細井広沢をあげ、「書に隠れたから人が知らない」と評し、書家としての名声のみ高くて人物が正しく評価されていないと、彼を高く評価しています。若い頃、日本橋馬喰町に住んでいたのは確かなようですから、区内に彼の顕彰碑も建つといいですね。
【蛇足】 細井広沢の屋敷が京橋水谷町にあったということ、また堀部安兵衛がそこに住んだということ、広沢の伝記、年譜や義士関係の書に見つけられませんでした。碑の文章を裏付けられるものをご存じの方、ご教示ください。
【写真上】 亀島橋西詰の『堀部安兵衛武庸之碑』
【写真下】 満願寺の細井広沢の墓
[与太朗]
2014年11月28日 14:00
人が 詩人として生涯ををはるためには
君のやうに聡明に 清純に
純潔に生きなければならなかった
さうして君のやうに また
早く死ななければ !
(三好達治『暮春嘆息』)
同人誌「四季」の仲間、三好達治がその夭折を嘆いた詩人こそ、日本橋生れの立原道造(1914-1939)でした。今年は彼の生誕100年、没後75年という節目の年にあたります。
立原道造は大正三年(1914)七月、日本橋区橘町三丁目一番地(現、中央区東日本橋3-9-2辺り)に生れました。母方の祖には名高い儒学者立原翠軒、その子で画家の立原杏所がいます。生家の家業は荷造用の木箱の製造で、日本橋の問屋街の中心でかなり手広く営まれていました。下町文化の中で成長した彼は、浜町の養徳幼稚園、久松小学校へと進み、久松小では開校以来の俊童といわれ、六年間首席を通しました。その後、芥川龍之介・堀辰雄と同じく三中・一高・帝大と進みますが、大学では文学部ではなく建築を学び、こちらでも才能を発揮、最優秀の学生に与えられる「辰野(金吾)賞」を三度も受賞しています。卒業後は数寄屋橋畔にあった著名な建築家石本喜久治の建築事務所に入社、いくつかの建物を設計しました。
詩作の方面では、中学時代に北原白秋の世田谷若林の自宅を訪問するなど、早くから興味を持って詩作を続け、大学入学後は創刊された月刊「四季」の同人として活動が本格化します。石本建築事務所入社の年(昭和十二年)には詩集「萱草に寄す」「暁と夕の詩」を立て続けに刊行、昭和十四年三月、結核の病状急変で短い生涯を終える前月には「中原中也賞」の第一回受賞者に選ばれました。彼の詩は十四行のソネット形式で、繊細・純粋で音楽的な抒情詩と評されます。三好達治は「我々の国語を以て語りうる、歌いうる限りの微妙に軽快な音楽」と言っています。ソネットという設計図面と日本語という建築素材で建てられたすぐれた抒情詩という感があります。彼の詩はよく音楽的といわれますが、「建築は凍れる音楽」という言葉があるようですから、むべなるかなですね。日本の抒情詩によくある感傷・詠嘆的なものや私小説的なものは極力排した抽象画のような、理科系頭脳による抒情詩に思えます。
彼の設計した建築物はすべて失われてしまいました。ただ、彼が職場で知り合った水戸部アサイとの新婚生活を夢見て、死の直前まで準備を進めていた浦和の別所沼畔の別荘「風信子荘(ヒヤシンスハウス)」が、遺された構想スケッチをもとに有志の方々の尽力で2004年に建てられました。(彼の考えていた場所は沼の反対側だったそうですが。) 今年でちょうど10年になります。
生誕100年の今年、堀辰雄との縁でしばしば訪れ、しばしば彼の詩の舞台ともなった信州の軽井沢や別所沼では記念のイベントが行われました。生地であり、短い生涯のほとんどを過ごした中央区では特段のイベントはなかったようです。彼は本来の江戸っ子的な部分を外に出さなかったり、地元を作品の舞台にすることもなかったのでなじみが薄いのでしょうか。ちょっとさびしい気もします。ということで、小春日和の一日、立原道造を偲んで、(信州まではちと苦しいので) 生家辺り・久松小・谷中の多宝院の墓・別所沼ヒヤシンスハウスなどを歩いてきました。
【写真上から】
● 現在の旧橘町生家辺り
震災後に新築された家の屋根裏部屋で多くの詩と建築設計図が生れました
● 久松小、正門左側の「立原道造ここに学ぶ」碑
● 谷中多宝院の立原家の墓
● さいたま市南区別所沼公園内の風信子荘(ヒヤシンスハウス)
[与太朗]
2014年7月31日 09:00
『つゆのあとさき』、この時期になると思い出す小説のタイトルです。作者は永井荷風(1879-1959)。荷風は「小説の題名あまり凝りすぎたるはいやなり どうでもよきは猶更いやなり」と言っていますが、まさにそのとおりのステキなタイトルですね。 (さだまさしに同名の歌がありますが、この小説のタイトルが頭にあったのでしょう。)
荷風が昭和34年、市川の自宅で孤独のうちに死を迎えて今年で55年、小説『すみだ川』『濹東綺譚』、随筆『日和下駄』、日記『断腸亭日乗』等々、近年ますます読者層が広がり、以前は皆無といわれた女性読者も増えている由、ご同慶の至りです。
ところで荷風の住まいといえば、麻布市兵衛町の「偏奇館」、牛込余丁町の(『監獄署の裏』の)「断腸亭」、小石川金富町の(『狐』の)生家などが有名ですが、われらが中央区内にも短期間ですが、築地界隈路地裏に三度、居を構えたことはあまり知られていないようですね。
大正4年(1915) 5月、荷風は余丁町の亡父の家から京橋区築地一丁目六番地(現・築地二丁目7)の借家に移ります。二階は10畳、6畳、階下は8畳、6畳、3畳で家賃は26円、奥隣りに清元の師匠梅吉の住居がありました。同年9月、離婚した芸者八重次(のちの藤蔭静樹)と再び同棲すべく宗十郎町九番地(現・銀座7丁目5)の彼女のもとに移ります。
次は大正6年(1917) 9月、余丁町の家から出雲橋近くの木挽町九丁目(現・銀座7丁目15~18) の路地、格子戸づくりの二階家に移り、「無用庵」と名付けます。中洲病院の大石医師にいざというときに往診が受けやすいというのが借家の理由でした。このころ『断腸亭日乗』が始まり、それは死の前日まで書き続けられます。
大正7年(1918) 年末、荷風は余丁町の旧宅を総額26,264円22銭で売却し、築地本願寺裏の築地二丁目三十番地(現・築地3丁目10、11) の路地裏の売家を2,500円で買って移り住みます。ここにはほぼ一年半。大正9年5月に麻布市兵衛町一丁目六番地の崖上の借地に新居「偏奇館」が完成して築地を離れることになります。
下町の風情・情緒を愛した荷風ですが、実際に住んでみると、近すぎる人間関係やら、路地裏のむさくるしさやら、騒がしい町の悪太郎やらに耐えられず、「樹木多き山の手」に戻っていきました。
現在の築地はご承知のとおりの繁華の街、三味線の音が聞こえた当時の佇まいを偲ぶのは至難ですが、荷風ファンの方、歌舞伎見物や築地グルメ散歩などの機会にぜひ一度歩いてみて下さい。折よく恒例の築地本願寺の納涼盆踊り大会が8月2日まで行われます。ここには築地の名店の出店があり、「日本一おいしい盆踊り」といわれます。見物前に偉大なる散歩者荷風が住んだ界隈を散歩するのもいいですね。
【写真上】 旧・築地一丁目六番地のあたり
【写真中】 出雲橋跡から旧・木挽町九丁目をのぞむ
【写真下】 旧・築地二丁目三十番地のあたり
[与太朗]
2014年3月18日 09:00
3月といえば、まず3年前の3.11東日本大震災ですが、東京人としては69年前、10万人もの命が奪われた3.10東京大空襲も忘れることが許されない惨害ですね。このとき、浜町の明治座に避難して命を落とした方々の中に、日本橋生れの小説家・劇評家・書家の山岸荷葉(1876-1945)の名があります。
山岸荷葉は本名・惣次郎、当時のメインストリート本町通り、通油町(現在の日本橋大伝馬町)にあった硝子・眼鏡問屋の加賀屋(通称加賀吉)に生れました。同じ町内に育った文化人に川尻清潭、長谷川時雨がいます。時雨の『旧聞日本橋』には、彼女の父が大店加賀吉を会場にして憲法発布の祝賀の演説をしたとあります。
彼は幼少から書道に秀で、書家巌谷一六門下で神童といわれ、(後には「かがのや流」で一家をなします。) 一六の息子小波の紹介で硯友社に入り、尾崎紅葉の下で小説家となります。代表作『紺暖簾』をはじめ明治期の日本橋の商家や花柳界を舞台に下町情緒を描いた作品は「日本橋文学」と呼ばれました。後年は演劇に関心を移し、荷葉翻訳の劇を川上音二郎一座が明治座で上演するなど、西欧演劇の大衆化に貢献したほか、歌舞伎の劇評にも腕を揮いました。彼の人柄は気さく・洒脱で誰からも慕われたといわれます。画家の鏑木清方とは互いに心を許す友人でした。
昭和20年3月10日の大空襲には、自宅に近く、翻訳劇を上演した縁もある明治座の建物に避難したが、ここも被災して落命。硯友社最後の文人,山岸荷葉は日本橋に生れ育ち、日本橋を描き、日本橋で生涯を閉じたのでした。享年69歳でした。
【写真上】 旧通通油町の現在、大伝馬本町通り。石町通り(現在の江戸通り)に電車が走るまでは、こちらが幹線道路で、大店が 軒を連ねていました。江戸時代には蔦屋重三郎の書肆・耕書堂もここにありました。
【写真下】 谷中霊園にある山岸家の墓。近くにある川上音二郎の銅像台座には、荷葉書の碑文が彫られています。