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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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長谷川時雨『旧聞日本橋』を歩く

[与太朗] 2010年8月31日 10:00

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  「明治に一葉あり。昭和に時雨あり。」 その長谷川時雨が、主宰する『女人藝術』の埋草に書いたという名著『旧聞日本橋』。日本橋通油町に生まれた時雨が「アンポンタン」とあだ名された少女時代を回想したこの作品を読むと、明治初年の生家周辺の街の佇まいや周囲の人びとが生き生きと蘇えり、まるでタイムマシンに乗せられたような気がします。。今日は岩波文庫を片手に、ここに描かれたいくつかの舞台の跡を歩いてみました。

【写真上】は大伝馬本町通り。大門通りから緑橋方面を見る。工事中のスカイツリーが見える。

 

生家・・・日本橋通油町一番地

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 長谷川時雨は明治12年10月1日、日本橋区通油町一番地(現・中央区日本橋大伝馬町14)で官許代言人(弁護士)長谷川深造の長女として生まれました。通油町の真ん中を貫く本町通りは日本橋から浅草橋へ向かう江戸時代からの幹線。本町、大伝馬町、通旅籠町、通油町、通塩町と連なる問屋筋の多い街で、平行する石町通り(現・江戸通り)に比べ、当時街の位はずっと高かった。通油町は大門通りから浜町川緑橋までの本町通りの両側で、生家は本町通りを背中にして一つ小伝馬町寄りの小路に面していた。この小路は「うまや新道」と呼ばれ、向かいの小伝馬町側に馬車を扱う

IMG_0272.JPG 大きな運送店があった。この店の前身は伝馬町牢屋敷御用、罪人引廻しの馬舎でした。

 通油町の中央あたりに加賀吉という眼鏡・硝子問屋の大店があり、憲法発布の時は町内演説会の会場になった。弁者は明治十二年官許代言人、12人しかなかった最初の仲間の一人、当時の新智識と目された時雨の父でした。加賀吉は紅葉門下の小説家・書家である山岸荷葉の生家です。

 ところで、通油町といえば江戸時代では一流版元の桧舞台だった所。鶴屋喜右衛門らが店をかまえ、蔦屋重三郎も吉原五十間道から進出、為永春水ものち書肆を通油町に持っています。蔦重の店

IMG_0271.JPG には馬琴や一九も働いていました。『旧聞日本橋』にはこの辺について何も触れていませんが、この地のDNAが本好きのアンポンタンに遺伝したのではと空想しています。

【写真右上】はうまや新道の生家あたり。

【写真右中】は大門通り。人形町方面を望む。

【写真右下】は緑橋跡。マンホールが見える。

 

大丸呉服店
大門通りの向こう側は大丸呉服店があった所。(現・中央区日本橋大伝馬町10) 広重の『名所江戸百景』にも描かれ、明治に入ってからも 「その当時の日本橋文化、繁昌地中心点」。大土蔵造りの有名な呉服店でした。元旦には近所の子供らにも振舞がありました。

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【写真左上】大丸呉服店の跡。

【写真左下】お竹大日如来の井戸。うまや新道から二丁ばかり行くと、アンポンタンが通った源泉小学校。その少し先にある。


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牢屋の原

 維新直後には牢屋敷の一角を無償でくれるというのを父が断った話がありました。伝馬町の大牢は明治8年まで存在し、明治15年ごろから寺院が建立されますが、立揃わないうちは努めて土地の不浄を払おうとしたのか、小屋がけ見世物で賑わったそうです。祖母は毎晩のようにアンポンタンをお供に、牢屋の原にできた弘法さま(大安楽寺)にお参りします。

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【写真左】大安楽寺。処刑場跡に建立された。

佃島の住まい

  父・深造は晩年佃島の相生橋畔に隠遁します。時雨は明治37年、夫と別居し父母の家に同居します。京橋区新佃西町三丁目5番地(現・中央区佃二丁目)。ここで女流作家の第一人者になっていきます。相生橋は木橋で、橋を渡る人は少なかった。永代橋の際から門前に着く渡し船があり、門の柳が渡し場の目印でした。時雨は佃の渡しで築地居留地の女子語学校(現・雙葉学園)に通ったようです。明治43年9月、佃島は津波で大被害を被りますが、父が丹精した松がしっかり根を固めたせいか防波堤は無事でした。

【写真下】相生橋から佃二丁目を見る。門の柳・防波堤の松はもちろん今は無く、見事な桜並木が続いている。

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  長谷川時雨は昭和16年8月23日に亡くなりました。冒頭の「明治に一葉あり・・・」は吉川英治の弔辞にある称賛です。また、『女人藝術』から多くの女性作家を世に送り出した大功労者で、野上弥生子は「鴎外や漱石のような不世出の人」と追悼しています。現在あまりポピュラーな存在ではありませんが、中央区内には時雨に関する碑や説明板など見当たらないようですね。(そういえば、中央区観光検定のテキストにも彼女の名前は無かったような。) とても残念な気がしてならないのですが。

 

 「夏の下町の風情は大川から夕風が上潮と一緒に押上げてくる」。猛暑の一日でしたが、夕方近くには昔と同じ涼風が感じられました。

 

 

谷崎潤一郎 『幼少時代』を歩く

[与太朗] 2010年7月13日 15:00

 7月になりました。7月に生まれ死んだ谷崎潤一郎は、小説家として自分が成し遂げた仕事は幼少時代の環境に負うところが多大だと書いています。そこで文豪70才時の著『幼少時代』を片手に、幼年期・少年期を過した蠣殻町・茅場町界隈を歩いてみました。

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生誕の地 谷崎活版所

   谷崎は明治19年(1886)7月24日、日本橋区蠣殻町二丁目十四番地、谷崎家の繁栄を一代で築いた「偉いお祖父さん」久右衛門の家で生まれました。(7月24日といえば奇しくも同じ中央区生まれの文豪芥川龍之介の命日、河童忌ですね。) 「谷崎活版所」という巌谷一六(小波の父で明治の三筆といわれた)の隷書の看板が掲げられた黒漆喰土蔵造りの家の蔵座敷、この年は記録的な暑さで、そのまた暑いさかりの誕生でした。現在の住所でいうと日本橋人形町1-7-  10、人形町通りを西に折れた「玉ひで」の並びに「生誕の地」碑があ  るのでご存知の方も多いでしょう。 [写真 上]

 当時、人形町通りの角は絵草紙屋の清水屋で、潤一郎少年は年方・月耕・清親など毎日のように眼を輝かして見惚れていた。生家の斜向いの東側一帯には矢場(楊弓店)が並んでいる。玉秀(現玉ひで)のかしわは「いかにも東京風にあっさりした、柔かで旨い鶏」で始終取り寄せていた。水天宮と大観音が子どもの恰好の遊び場になっていました。

 

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 南茅場町の最初の家

     明治24年、一家は浜町に移るが、そこには長くおらず、さらに南茅 場町の四十五番地(現在の日本橋茅場町1-4あたり) [写真 右上]へ移転、日枝神社や薬師堂から一丁と離れていないところでした。ここから霊岸橋を渡った蒟蒻島の小岸幼稚園に短期間通い、IMG_0213.JPG翌明治25年の9月に阪本小学校[写真 右中]に入学します。      「薬師  の地内」には南から天満宮、翁稲荷、  浅間神社、 神楽堂、     日枝神  社、薬師堂、  閻魔堂、大師堂などがあり、     (これらの寺社は現在ずっと狭くなったり、  跡形もなかったりしている)飴屋、駄菓子屋、糝粉屋などの露天商が出て、いつも子供たちが集まっていました。     日枝神社は「お旅所だったから一年置きの六月十五日に盛大な祭礼がある外はひっそりとして」いましたが、   先月執り行われた神幸祭のにぎわい[写真 右下] IMG_0193.JPG  は昔と変わっていないようですね。    また、薬師堂に今も残る釜七の天水鉢は天保の作ですから潤一郎少年も当時目にしていたことでしょう。

 

 

 

 阪本小学校

IMG_0211.JPG 幼時から「人形町界隈に特に親しみを感じていたので、小学校といえば・・・有馬学校のことしか考えていなかった」谷崎ですが、24才の作『少年』でも作者と思しき主人公は蠣殻町二丁目の家から有馬学校へ通っています。(東華小は明治34年創立でまだない。)ところが南茅場町の家からは阪本小が「なるほど」「ずっと近い所」にありました。二学期から入学の一年生は甘えん坊の意気地なしで落第となりましたが、その後は先生にも恵まれ才能がどんどん開花していきます。阪本小では終生の友、笹沼源之助と同級になります。彼は東京における中華料理の元祖、偕楽園の跡取りでした。(偕楽園は現在

IMG_0212.JPGの日本橋茅場町2-10あたりらしい。 [写真 左上] ) 阪本小正門前の新場橋( [写真 左中]当時の橋は今よりもっと北寄りだった)で、美少年趣味の薩摩軍人に馬場先門まで拉致されてしまったのも、やり直し一年級のころでした。 [蛇足ながら、生誕の地の説明板では、阪本小入学後に住所を転々としたとあるので、蠣殻町生家から入学したと誤解されるかもしれませんね。]

 

 南茅場町の二度目の家

 商才のない父親の事業不振で、一家は蠣殻町一丁目米屋町裏通 IMG_0184.JPGりの父の店に移り、さらに没落して南茅場町五十六番地、明徳稲荷(現在の場所と違う)の路地奥に引っ込むことになります。明治27年でした。ここは幼少時代最も多くの年月を過ごす場所で、後に「電車道になってしまった。」と慨嘆していますが、現在の茅場町一丁目の交差点付近と思われます。( [写真 左下]は現在の明徳稲荷)

 明徳稲荷のお神楽堂では、毎月八日の晩に茶番狂言が行われ、熱気のこもった詳細な思い出話からは歌舞伎などとともに谷崎文学に深く大きな影響を与えたことが感じ取れます。

 

 鎧橋

 南茅場町へ来てからも、母やばあやに連れられて毎日のように鎧橋を渡り、本家(活版所)に遊びに行ったり、風呂を貰いに行ったりしていました。

 鎧橋は明治5年に木橋が架けられて鎧の渡しがなくなり、明治21年には鋼製トラス橋に替わります。「その頃市中にそう多くはない鉄橋の一つで」「往き復りに橋の途中で立ち止まって、日本橋川の水の流れを眺め」「上流の兜町の岸にある渋沢邸のお伽噺のような建物を、いつも不思議な心持で飽かず見入ったもの」でした。現在の橋は昭和32年に架け替えられたもの。 [写真 下] 井上安治の版画にもある渋沢邸の場所は現在日証館ビルが建っています。(なお、茅場橋は昭和4年の創架です。)

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 谷崎は後年、変貌していく東京を慨嘆し、もはや自分の故郷とは思っていない、むしろ京都・大阪の旧市街に忘れていた故郷を見つけた気がする、と言っていますが、彼の文学の素となった幼少年期を70才になって『幼少時代』で情熱的に再現しました。さらにそれから50数年もの歳月が流れ、そのままに残るものはほとんどありませんが、明治20~30年代、昔の江戸のおもかげを残していた明治の東京を著者の興奮に導かれて歩き、しばし楽しい夢が見られました。

 [またまた蛇足ですが、芥川龍之介の墓は染井の慈眼寺にあります。ここは谷崎家の菩提寺でもあり、京都法然院に墓のある潤一郎も分骨されています。時には二人、生前の文学論争の続きを楽しんでいるのでしょうか。]

 

 

神田明神大神輿 中央通りを渡御

[与太朗] 2010年5月12日 09:50

 初夏の訪れを告げる神田祭、9日の日曜日、大神輿の渡御が行われました。

IMG_0146.JPG 今年は陰祭の年ながら、平将門が祭られて700年の奉祝ということで、神田明神大神輿と将門塚保存会大神輿の初の揃い踏み宮出しなどで大いに盛り上がった祭りになりました。とくに将門塚保存会大神輿は、今回大手町オフィス街のビジネスマンが大挙担ぎ手として参加、神田祭に一層の広がりと厚みが加わったといえそうです。沿道の人出は20万人にのぼるとのことでした
IMG_0150.JPG 今年の中央区エリアの渡御は常盤橋、日本橋から室町四丁目というコース。昼過ぎ、将門塚で両大神輿揃い踏みでの神事が執り行われた後、大手町サンケイビルまで並んで渡御、ここで別れて神田明神大神輿は2時ごろ常盤橋を渡り日本橋北詰へ、三越を左折して中央通りを北上、室町四丁目まで約1時間半の中央区渡御でした。

 渡御の行列は獅子頭山車、神田囃子屋台、大神輿に続き、附祭の曳き物「大鯰と要石」「大江山凱陣」(鬼の首)が氏子小学校の子供たちによって引かれ、沿道には大きな歓声があがっていました。

 

 

風ニモマケズ 今年も豪華なカーペットが

[与太朗] 2010年5月12日 08:30

IMG_0081.JPG   いささか旧聞になりますが、4月29日(昭和の日)、恒例のフラワーカーペットが華麗にみゆき通りを飾りました。観光協会のブログ等でもすでに報じられたとおり「ECOと新生活」をテーマに、20万首・120万枚の富山のチューリップの花びらが、14のデザインのカーペットを色あざやかに織りあげました。お出かけになった方も多いのではないでしょうか。私、以前からどんなふうにカーペットが作られるのかなあと思っていましたので、今年は朝早く家を出て見てきましたので、そのあたりを報告したいと思います。

  IMG_0046.JPG 午前8時すぎに到着したみゆき通り、人通りはほとんどありませんが、道路脇には所々に何やらダンボール箱が2~3個ずつ積まれています。泰明小学校の校庭にはすでにボランティアの方々が続々集結。14面のデザイン毎のグループに分かれ、段取りの打合せ・確認やら花びらの下ごしらえなどの準備をテキパキ進めています。9時から通りは通行止め、デザインの描かれたシートをテープで路面に貼っていきます。11時になるといよいよ泰明小からボランティアの方々がグループ毎に持ち場へ出動。赤・白・ピンク・黄・紫、色別に詰められた花びらの袋を大黒様よろしく手にしています。シートに描かれたデザインに従い、決められた色の花びらを置  いていきます。道路わきのダンボール箱には緑の「絵の具」になる立山杉の葉が入っていました。「紫、たり IMG_0054.JPGないヨ!」「赤、余ってるから隣にあげていい?」などと話しながら11時半にはほぼカーペットが完成。

  ・・・と思いきや、この日は好天ながら時折帽子を飛ばすような強風が通りを吹き荒れ、見物人の悲鳴の中、さしもの肉厚の花びらも違う色のエリアに吹き飛ばされるものが続出。そのつどボランティアの方が元の位置に戻し、水をスプレーして飛散防止に大童という一幕もありました。フラワーカーペットには雨よりも風の方が天敵のようですね。

IMG_0060.JPG 12時、泰明小の金管バンド部の皆さんの演奏、引続きオープニングセレモニーが執り行われ第24回の銀座みゆき通りフラワーカーペットもめでたく開幕しました。関係者の皆さん、今年も豪華なカーペットをありがとうございました。

 夕刻、再度立寄ったみゆき通りでは、花びら持ち帰り用のビニール袋と「チューリップ染めの作り方」を配布していました。今年のテーマにもマッチしたにくい企画ですね。花首30~40首(花弁180枚~240枚)でハンカチ1~2枚染められるそうです。来年はもっと事前にPRされるといいですね。

 

 

 

第19回春の名橋『日本橋』まつり

[与太朗] 2010年4月 6日 15:30

photo0001.JPG このたび特派員を仰せ付かりました新参です。以後お見知り置きを。さて、初仕事はどこに行こうかと思案しましたが、「ふりだし」はやはり道の始まり、お江戸日本橋が一番ふさわしかろうと考え、4月4日、「春の名橋『日本橋』まつり」を楽しんできました。花曇りのやや肌寒くも感じる中、交番前の枝垂桜はすでに最後の花びらが風に舞っていましたが、お隣のソメイヨシノもお向かいの紅枝垂れも今真っ盛り、まつり気分を盛り上げていました。

 今年のまつりは、物品販売、くじ引き、人力車記念撮影、川浄化のEM団子の投入れなど恒例イベントに加え、往年の名車クラシック・カーのデモンストレーションがあり、大いにまつり客を喜ばせてくれました。

 まつりは10時に始まり、オープニングセレモニーが行われる11時からは一般車通行止めの歩行者天国、ふだん近寄れない橋中央の道路元標を間近に見て「ラッキー!」と喜ぶ旅行者。物販では江戸東京野菜や、あじの干物(なんと十尾500円!)などの販売に長蛇の列。クラシックカーは日銀本店前を出て、1時前には橋上に整列、白洲次郎・森繁久彌・高倉健さんら著名人の愛車を含め約20台。黒山の人だかりに、マスコミの腕章をつけたカメラマンが車の撮影に四苦八苦していました。

 ところで、来年は明治44年の架橋からいよいよ100年。80周年のときにはずいぶんと名橋にふさわしい景観整備がされましたが、100周年に向けても整備・補修を含め沢山の行事・イベントが企画されているとのこと。大いに期待をしたいと思います。

 

 

 
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