[与太朗]
2013年12月26日 09:00
師走といえば赤穂義士の討入り、歌舞伎座では『仮名手本忠臣蔵』・・・ということで、今年も忠臣蔵にちなんだ話を一つ。
四十七士の一人、間新六(郎)光風(はざましんろくみつかぜ)の墓が築地本願寺にあるのを御存じの方も多いと思います。討入り後に姿を消した寺坂吉右衛門を除く四十六人のうち、新六ただ一人が泉岳寺以外に葬られました。これは、義士切腹の日元禄十六年(1703)二月四日、老中秋元但馬守の家臣だった新六の姉婿の中堂又助が、新六が切腹した毛利甲斐守邸から遺骸を引取り、中堂家菩提寺の築地本願寺に葬ったことによります。 (のち泉岳寺にも三十五日に他の義士とともに墓碑が建てられます。戒名は刃模唯劒信士。)
新六は父の喜兵衛(細川越中守邸で切腹)、兄の十次郎(水野監物邸で切腹)とともに討入りに加わっているので、(親子三人も参加したのは間家だけですね。) 「なぜ新六だけ?」と思われる向きもあるようですが、切腹後の泉岳寺への遺体搬送は細川家、水野家、松平隠岐守家、毛利家の順に時差を設けて行われたので、中堂又助は喜兵衛の細川家と十次郎の水野家にも足を運んだが、遺体はすでに泉岳寺に運ばれた後で、最後になった毛利家にはようやく間に合って新六の遺体のみ引取ることができたのだと考えられます。なお、本所吉良邸から泉岳寺引揚げの途中、新六が槍に金子を結びつけて本願寺に投入れ、供養を頼んだという伝えがありますが、後の作り話でしょう。
新六ただ一人・・・といえばもう一つ。切腹の作法は当時すでに形式的になっていて、腹を切る前に介錯人が首を落とすのが当たり前のところ、新六のみ介錯人が刀を振り下ろす前に腹一文字に切って果てたといわれています。吉良上野介に一番槍をつけ介錯をまかされた兄といい、剛毅な兄弟だったようですね。
先日(14日)、泉岳寺の義士祭に出かけてみましたが、いやはや例年以上の人出で、義士の墓所にはとてもたどりつけそうもないので、すぐにあきらめて築地本願寺に回り、静かな新六の墓にお参りをいたしました。
【写真上】 築地本願寺の新六の墓、天保年間に再建されたもの。こちらの戒名は「歸真釋宗貞信士」。
【写真下】 新橋・新正堂(内匠頭が切腹した田村右京大夫邸跡に近く、「切腹最中」で有名) の「義士ようかん」、歌舞伎座の B2F木挽町広場で売っていました。 左・・・間新六郎(黒糖) 中・・・間喜兵衛(塩) 右・・・間十次郎(黒糖)
[与太朗]
2013年10月31日 09:00
日本の中心、街道・国道の起点「日本橋」から四方にのびる道。各地で魅力ある街道・町並につながります。街道都市の歴史・文化の情報発信の場「日本橋『日本百街道』展 2013」が三越前地下コンコース、熈代勝覧複製絵巻の近くで開催されています。(無料。12月1日まで)
今年の展示は、中央区の「日本橋・八重洲・京橋 中央区街歩き」のほか、「日本百街道」、「木曽中山道」、「飛騨高山 歴史街道」、「歴史都市高岡のまちめぐり」、「横浜 旧東海道」、「みえ歴史街道」などで、参加各地域の物産販売、観光PRも期間中数日ずつ行われます。
今回の展示に鎌倉街道の写真を提供されている百街道一歩さんは、日本各地の古街道を踏破している街道歩きの第一人者で、そのブログ『百街道一歩の道中記・祭探訪』は全国に多数の読者を持っています。百街道一歩さんは江戸文化歴史検定一級、京都・観光文化検定一級の合格者ですが、われらが中央区観光検定の第一回合格者でもあります。
旅をしたいと考えている方、温泉・グルメだけでなく、街道・町並歩きはいかがでしょうか。道案内として今回の展示や百街道一歩さんのブログをお奨めいたします。
* 「日本橋『日本百街道』展 2013」
主催 NPO法人全国街道交流会議、名橋「日本橋」保存会
共催 街道交流首長会、日本道路協会 ほか
後援 中央区のほか
総務省、国交省、環境省、観光庁、日本商工会議所、日本ウォーキング協会 その他
* 『百街道一歩の道中記・祭探訪』
http://hyakkaido.travel.coocan.jp/
[与太朗]
2013年8月30日 10:00
永井荷風『濹東綺譚』の挿絵で名高い、洋画家木村荘八(1893-1958)は、明治26年8月、日本橋区吉川町1番地(現・中央区東日本橋)の牛肉店「いろは」第8支店にて、実業家木村荘平の第8子として生れました。干支は二巡して今年が生誕120年になります。
荘八には同母・異母あわせて30人もの兄弟姉妹がいたそうですが、芸術的天分に恵まれたものが多く、姉栄子(曙)、兄荘太、弟荘十は作家、弟荘十二は映画監督として名をなしています。荘八もフューザン会、草土社、春陽会などで活躍した油絵が本業ですが、挿絵の分野でも大人気を博し、舞台美術や趣味の小唄など多彩な活動をした文化人でした。とりわけ文筆の才も遺憾なく発揮、東京に生れ、東京を愛する生粋の東京人として「故郷」東京を語ったすばらしい文章を多く残しています。 (文人・木村荘八には死後『東京繁昌記』に対し芸術院恩賜賞が贈られました。また講談社から『木村荘八全集』全8巻が刊行されています。)
さて、吉川町1番地は現在のどのあたりでしょうか。画家自身戦後に「・・・どの辺で生れたのか・・・現にあの辺へ行って見ても、ほとんど見当が付かない・・・」と変貌を嘆いています(『両国今昔』)が、両国郵便局(東日本橋2-27-12)の少し南、靖国通り浅草橋交差点の東あたりになるのでしょうか。(蛇足ながら、彼のいう「両国」は両国橋の西側、中央区側をさしています。両国吉川町という呼び方もあったようです。郵便局の名前に名残が感じられます。橋の東は「東両国」、今では「両国」といえばこの墨田区側のみを思い浮かべますが。) ここに「間口をだゝつ広くとって、二階前面のガラス戸に五色硝子をあしらった角店」(『両国界隈』)が「いろは」牛肉店(=牛鍋屋)第8支店でした。店の中、玄関の様子は代表作の一つ、『牛肉店帳場』に描かれています。
生誕120年の今年、春に回顧展がお隣千代田区の東京ステーションギャラリーで開かれました。(その後、豊橋市、日光市の美術館に巡回) 彼が愛した生誕の地中央区では残念ながら特段のイベントはないようなので、誕生の日8月21日、旧吉川町と思しきあたり、街鉄に五寸釘を轢かせたり、虎の子の二円五十銭で買った武者絵の大凧を川向こうの回向院の黒い大屋根の上まで揚げたりして遊んだ画伯の少年時代を偲びつつ、浅草橋から両国橋あたりを歩いてきました。
【写真上】 浅草橋交差点から両国橋方面をのぞむ
【写真下】 杉並区長延寺の墓に彫られた画伯のサイン
[与太朗]
2013年7月31日 09:00
晴海地区は江戸時代は海の中、大正時代に埋立が始まり、昭和6年(1931)に完了、「月島第四号埋立地」23万坪が京橋区に編入され、昭和12年(1937)に「晴海」と名付けられました。新しい土地なので、「史跡」などとはご縁がないところだと思われますが、意外にも立派な記念碑が建てられています。
晴海といえば私のような年寄りは国際見本市会場をまず連想しますが、中央清掃工場(晴海5-2-1)の入口近くにその記念碑があります。
晴海では昭和30年(1955)に第1回日本国際見本市が開催され、昭和34年(1959)には当時わが国最大の見本市会場が完成。東京モーターショー、エレクトロニクスショー、データショー、コミックマーケット等々が開催された、日本を代表するコンベンションセンターでした。平成8年(1996)、有明の東京ビッグサイト完成に伴い閉場となりましたが、最盛期には年間600万人の入場者があったといわれます。
6万坪以上の敷地に七つの建物が並んだ見本市会場・・・当時を思い起こすよすがとしては、本を開いた形をしたこの記念碑があるのみです。
(訪れる方は少ないようです。「ほっとプラザはるみ」にお出かけの際は、お隣ですので、寄ってみてください。)
[与太朗]
2013年6月28日 17:00
晴海客船ターミナルではおなじみの客船『ふじ丸』が、6月末のクルーズを最後に引退することになりました。『ふじ丸』は商船三井の所有、日本チャータークルーズが運航する日本初の本格的豪華客船で、就航した1989年(平成元年)はクルーズ元年とも呼ばれました。25年間で地球70周を超える距離を航海、50万人に利用されたそうです。純白の船体にオレンジ一色のファンネルマーク、シックで美しい姿が見られなくなるのは寂しいかぎりですね。
『ふじ丸』は商船三井が1987年、三菱重工神戸造船所に発注、翌年9月10日に進水式が行われました。船名は公募されたものから、当時の石原慎太郎運輸大臣が命名、石原夫人が金色の斧で支綱を切ってシャンペンを割り、『ふじ丸』が誕生しました。1989年に入り、試運転を経たのち、4月から日本初の大型クルーズ客船として活躍が始まります。総トン数は23,235トン、全長167m、幅24m、航海速力18ノット、乗客定員600名。8層のデッキにホール、シアター、プール、大浴場などがあり、船級は国際遠洋、船籍港は東京です。最近では主にチャータークルーズで活躍していました。
『ふじ丸』は6月30日夕刻、晴海客船ターミナルで「ありがとう! ふじ丸」セレモニーののち、初島へ最後のクルーズに出港、7月1日に帰港したのちはドックに入り、おそらくは外国に売却されるといわれています。名前が変わっても、いつの日かまた晴海に寄港して、美しい姿を見せてほしいものですね。
[与太朗]
2013年3月14日 09:00
「丸善 世界の万年筆展 展示即売会」 先日、日本橋の丸善に通りかかるとこんな案内が目に留まりました。丸善は維新の日本に洋書だけでなく、西欧の文具を招き入れたパイオニアだったのですね。万年筆については百科事典にも「日本では1895年(明治28年)に東京の丸善(株)が少量だがウォーターマンのものを店頭で発売したのが最初で、本格的な輸入は1902年(明治35年)以降のことである。」(日本大百科全書(小学館))とあります。
その後、万年筆は急速に普及し、丸善が1912年(明治45年)に発行した「萬年筆の印象と図解カタログ」という小冊子には、著名人多数が文章、スケッチ(万年筆で描いたもの)などを寄せています。その巻頭を飾るのが夏目漱石(1867-1916)の『余と萬年筆』です。
この文章で漱石は、万年筆を使い出して間が無く、親しみが薄いと言っています。十二年前の英国留学の際、親戚(鏡子夫人の妹時子さんのこと)から餞別としてもらった万年筆は、船中で「器械体操のまね」(鉄棒)をして壊してしまいました。三、四年前、丸善で「ペリカン」を二本買いますが、「不幸にして余のペリカンに対する感想は甚だ宜しくなかった」ようで元のペン書きに戻りますが、インク壷にペンを浸す煩わしさから「離別した妻君を後から懐かしく思う」ような感がしたと言っています。そして「この原稿は魯庵君(当時丸善の顧問をしていた内田魯庵(1868-1929)のこと)が使って見ろといってわざわざ贈って呉れたオノトで書いたのであるが、大変心持よくすらすら書けて愉快であった」と書いています。この冊子には漱石が「オノトG」で書いたこの文章の原稿の写真も掲載されています。
万年筆のPR冊子に載せるにしてはいささか宣伝臭が無さ過ぎる文章ですが、魯庵の書いたものを読むと、「夏目さんは頼まれごとをよく快諾する人だった。私は万年筆のことを書いて下さいと頼んだが、別に嫌な顔はされなかったが、「僕は困る」といわれた。そこで、いえ、悪くさえ言わねばいいから、重宝なものだくらいに書いて下さいと頼んだ」とあります。また、のちに新聞に掲載された漱石の談話には「今用いているのは二代目のでオノトである。別にこれがいいと思って使っているのでも何でも無い、丸善の内田魯庵君に貰ったから、使っているまでである」と正直?な感想を述べています。便利さは買っても、それほどの思い入れはなかったのでしょう。なお、魯庵によれば、漱石は硝子のインキスタンドが大嫌い、またインキはブルーブラックが大嫌いで、セピア色を好んだそうです。
漱石入社当時の朝日新聞社は、石川啄木(1886-1912)の歌で知られるように京橋区瀧山町(現銀座六丁目)にありました。漱石同様、主筆の池辺三山(1864-1912)の招きで朝日に入った杉村楚人冠(1872-1945)によると、漱石は出社することは少なかったが、水曜日に開かれる編集会議に出てくると、口数少なく、にこにこ笑いながら人の言うことを聞いていたが、口を開けば思いがけない警句をすまして言うのでその度毎に皆は笑い、賑やかになったそうです。こんなときの漱石の手にはオノトの万年筆があったのでしょうか。
漱石も愛用?したオノトは高級万年筆として一世を風靡しますが、戦後、製造元の英国デ・ラ・ルー社は万年筆の製造を止めてしまいます。現在は丸善がオノトの名を冠した「復刻版」の高級万年筆を販売しているそうです。日本橋丸善では万年筆売り場は地下一階。超高級品から普及品まで見事に並べられた売り場を見て回るうちに、もう長い間万年筆に縁が無くなっていた自分に気づくと同時に、五十数年前のこどもの頃、今は亡き両親に初めて万年筆を買ってもらったときの感激がよみがえってきました。