[与太朗]
2012年3月 1日 08:30
芥川龍之介は明治25年(1892)3月1日、京橋区入船町8丁目1番地(現・中央区明石町10,11聖路加看護大学あたり)で誕生しました。自作年譜によれば、辰年辰月辰日辰刻に生れたので龍之介と命名されました。今年も辰年、干支はちょうど二巡して生誕120年になります。
実父新原敏三は牛乳業「耕牧舎」を営み、入船町に牧場を持っていました。ここは当時築地の外国人居留地で、日本人は三軒だけだったそうです。父43歳、母33歳の厄年の生れで、迷信から捨子の形式を踏んだそうですが、生後七ケ月で母が発病、母とともにその実家芥川家に移り、のち伯父道章の養子となります。芥川家は本所区小泉町十五番地(現・墨田区両国三丁目)にあり、代々江戸城のお数寄屋坊主の家柄、養母は江戸の大通人細木香以(『孤独地獄』)に登場しますね。)の姪で、生粋の江戸人の気質と趣味が一家に色濃く流れており、これが後の彼の芸術に大きな影響を与えたことはまちがいありません。
彼は幼少年期を過ごした本所、両国を愛し、とくに大川(隅田川)には熱烈な讃歌を歌っています(『大川の水』)が、生誕の地・築地について書いたものはあるでしょうか。
生後すぐ本所に移り、直接の記憶はあるはずもないですが、「僕は生れてから二十歳頃までずつと本所に住んでゐた者である。」(『本所両国』)などと入船町は端折られてしまっています。かろうじて築地居留地を描いた銅版画についてですが、和洋折衷の美しい調和を示していると懐しみをこめた表現がありました。(『開化の良人』)
「時々私は二十年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が來ると云ふ事を想像する。---(略)--- けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に當つて、私の作品集を手にすべき一人の讀者のある事を。さうしてその讀者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気樓のある事を。」(『後世』)
生誕120年、没後85年。彼の想像を裏切って、彼を愛する読者は増え続け、彼に対する評価は蜃気楼ではなく、スカイツリーのごとく高く確固たるものになっています。生誕120年の今年、「生誕地」中央区ではとくにイベントはないようですが、愛読者の一人として、やや寒気がゆるんだ一日、生誕の地を訪れてみました。
蛇足を一つ。生誕の地は浅野内匠頭屋敷跡、生育の地の南に吉良上野介屋敷跡、と忠臣蔵にご縁があります。『或日の大石内蔵之助』執筆中、彼はこんな偶然を思い起こしたでしょうか。
もう一つ蛇足を。今年は辰年、旧暦流に三月=辰月とすると、辰月辰日は3月8日と20日。はたして辰刻(午前8時前後)に平成の龍之介君が誕生するでしょうか。
[ 写真上 ] 中央区明石町、生誕の地付近
[ 写真右上 ] 生誕の地、説明板
[ 写真右中 ] 江東区両国三丁目、生育の地付近
[ 写真右下 ] 北区田端 終の住居「我鬼窟」跡付近
[与太朗]
2012年1月31日 08:30
♪一杯のコーヒーから夢の花咲くこともある・・・ (藤浦洸詞)
百科事典によれば、コーヒーは江戸時代、長崎に来るオランダ人が持ち込んでいたが、日本人には受けなかったようですね。長崎勤務をしていた大田南畝(蜀山人)は、「焦げ゛くさくして味ふるに堪へず」と書き残しています。また、かのシーボルトは「熱い茶を飲み、交際好きな日本人がコーヒーに親しまないのは不思議だ」と記しているそうです。それが明治以降、喫茶店・カフェーが開業、だんだんと飲まれるようになり、統計では、今や日本人一人一週間に10杯以上、世界で第3位の消費量だそうです。
明治44年春3月、カフェーと銘打った最初の店「カフェー・プランタン」が京橋区日吉町20番地(現在の銀座8-6)に開店します。東京美術学校で黒田清輝や岡田三郎助らに学んだ洋画家松山省三(1884-1970)が、友人の画家平岡権八郎(1883-1943、竹川町の料亭花月楼の養子)と共同で、ヨーロッパのカフェーを手本に開業、「プランタン」(春の意)の名付け親は小山内薫、経営のために維持会員を募り(会費50銭)二階を会員に供しましたが、その会員には、二人が師事した黒田清輝・岡田三郎助・和田英作などの画家、森鴎外・永井荷風・高村光太郎・北原白秋・長谷川時雨・谷崎潤一郎などの文人、市村羽左衛門・市川左団次・市川猿之助・伊井蓉峰などの舞台人等々、錚々たる面々がそろい、一大文化サロンとなりました。
カフェーと名乗るのが初めてなら、手回しの蓄音機を置き、クラシックやダンスなどの洋楽をかける店も初めてでした。入口には葡萄棚、室内には松山省三が描いた大きな油絵がかけられたほか、白漆喰で塗られた壁に来客の即興、似顔絵などの落書きが描かれ、パリのカフェーに似た雰囲気をつくっていました。メニューの方は、コーヒーよりもむしろ洋食・洋酒が主役で、名物はホットサンドウィッチとマカロニで、酒は品ぞろえが豊富、当時日本では馴染みの少ない洋酒も用意されました。
これだけ著名人が集まるといろいろな逸話も残されています。鴎外の娘森茉莉は「白い帽子のお化けのような幼女」のころ、「黒マントの男」(鴎外)に連れられての帝劇の帰り、ここで生まれて初めて珈琲を飲みますが、手元狂って熱い珈琲を胸にかけてしまいます。(『記憶の繪 カフェ・プランタン』) また、酔った押川春浪が巴家の八重次(のちの藤蔭静樹)を伴った永井荷風と生田葵(葵山)に喧嘩を売ったのもこの店でした。(生田葵『其の頃のプランタンの燈』) プランタンはのちに、ライオン(尾張町角)やパウリスタ(南鍋町)などの後続に圧されてしまいますが、一般人にはやや敷居の高い店だと思われたことも一因でしょうか。
マカロニとモカの烟は立昇る
カッフェー、プランタンの窓の外
日吉町の通りの初夏の夜半(よふけ) (永井荷風『即興』より)
なお、のちに手を引くことになる平岡権八郎は三越呉服店の琵琶を弾く「上代美人」のポスター(1913)の作者です。また、松山省三の子は俳優五代目河原崎国太郎(1909-1990)、孫は松山英太郎(1942-1991)・松山政路(1947- )兄弟です。調布市の明西寺の墓地には省三・国太郎・英太郎の三代が一つ墓で永遠の眠りについています。
【写真上】現在の並木通り、プランタンのあったあたり。
【写真下】調布・明西寺 松山家の墓。
[与太朗]
2011年10月28日 08:30
身はたとひ武蔵の野辺に朽(くち)ぬとも 留め置(おか)まし大和魂 二十一回猛士(吉田松陰)
数多くの維新の志士を育てた幕末の革命思想家、吉田松陰(1830-1859)が伝馬町牢屋敷(現在の日本橋小伝馬町3~5)で処刑されたのは、安政六年の十月二十七日正午近くのことでした。
この年五月に萩の野山獄から幕命で江戸送りとなり、七月九日、幕府評定所に呼び出され、伝馬町に入獄。梅田雲浜との関係などの嫌疑は晴れるが、老中間部詮勝要撃策を開陳してしまい、死罪に処せられます。斬ったのは山田浅右衛門(七代吉利)、彼は松陰の最期を堂々として見事だったと伝えています。松陰の遺骸は門人等により、小
塚原から荏原郡若林村(現在の世田谷区若林)に葬られます。ここは毛利家の抱地だった所で、のちに明治15年には墓畔に松陰神社が創建されます。明治40年には萩にも松陰神社が創建されますが、ともに御祭神はもちろん吉田松陰(吉田寅次郎藤原矩方命)、例大祭日は10月27日となっています。
松陰の伝馬町下獄は下田密航未遂事件(安政元年)のあと以来二度目でしたが、一度目同様友人・門人による差し入れのおかげでけっこう厚遇されたようです。牢名主の沼崎吉五郎や獄卒の金六らは松陰に敬意を払い、助けとなってくれました。冒頭に書いた辞世で始まる遺書の『留魂録』の一冊は沼崎に託され、萩の松陰神社に現存しています。
伝馬町牢獄は明治八年に廃されますが、跡地は忌まわしい土地として住む人もなく、(長谷川時雨の父がただでくれるとい
うのを断った話が『旧聞日本橋』にあります。) 寺院・公園・学校が出来てきます。現在は大安楽寺などの寺院・十思公園・十思スクエアになっています。松陰の辞世を彫った碑が十思公園の北東側に。牢屋敷の東南隅にあった処刑場の跡には大安楽寺の延命地蔵尊、山岡鉄舟書「為囚死群霊離苦得脱」の鋳物額がお地蔵さまの足元に見えます。
十思公園ではお昼ともなると近所にお勤めの方がお弁当を食べたり、新聞を広げたり。昔の忌まわしい場所も今では明るい憩いの場所になっています。
[ 写真上 ] 十思公園の吉田松陰終焉の地碑(右)など
[ 写真中 ] 写真上の中央、松陰辞世の碑
[ 写真下 ] 大安楽寺の延命地蔵尊
[与太朗]
2011年9月30日 09:00
宗達・光琳に続く「琳派」第三の巨匠、酒井抱一(1761-1829)。「江戸琳派」の祖ともいわれる彼の墓が築地の本願寺にあるのをご存じの方も多いでしょう。寛政九年(1797)、江戸に下向した京都西本願寺の門主・文如上人のもと、彼は築地本願寺で出家得度したのでした。でも、抱一と中央区のご縁はこれだけではないのですね。
抱一上人(酒井忠因(ただなお))は宝暦十一年(1761)、姫路藩主酒井雅楽頭家嫡子の次男として神田小川町の酒井家別邸で生まれ、江戸城大手門前の上屋敷で成長しますが、寛政二年(1790)三十歳のとき、箱崎の中屋敷に移り、数年を過ごします。中屋敷は稲荷堀(とうかんぼり)の東側、現在の日本橋人形町一丁目と日本橋蛎殻町一丁目にまたがり、日本橋小学校あたりから新大橋通りを越え、日本橋箱崎町の手前、首都高速道路あたりまで、というかなり広いものでした。(ここは明治維新後は西郷隆盛の屋敷になったそうです。)
彼は絵画のみならず俳諧や狂歌など文芸の世界でも類まれな才能を発揮しましたが、中屋敷時代の句集『梶の音』では「筥崎(はこざき)舟守」なる号を使っているそうです。抱一の住まいというと晩年の充実した作品を産み出した根岸の「雨華菴(うげあん)」が有名ですが、今でいえば「中央区民」だった時期もあったのですね。
この抱一が生まれた宝暦十一年から今年でちょうど250年。今年初めには出光美術館、畠山記念館で関連の美術展がありましたが、夏以降「生誕250年記念 酒井抱一と江戸琳派の全貌」という、代表作が並ぶ大規模な回顧展が姫路・千葉・京都と巡回して開かれます。残念ながら都内の開催はありませんが、首都圏では千葉市美術館で10月10日から11月13日まで開かれます。私与太朗も築地のお墓にお参りしてから千葉まで足をのばし、抱一の粋と雅を楽しんでこようと思っています。
[写真上] 酒井家中屋敷跡の中央を横切る新大橋通り
[写真中] 築地本願寺の抱一の墓
[写真下] 切手になった(1970)代表作「夏秋草図屏風」(部分)
[与太朗]
2011年7月29日 08:30
今年も暑い夏がやってきました。暑い最中に出歩くと、ついついかき氷やらアイスクリームに手がのびてしまいますね。
氷は江戸時代、六月一日(陰暦)の加賀藩の氷献上の話で知られるように、高貴の人しか口にできなかったようです。維新後は横浜に後れ、東京では明治5年(1872)、函館の天然氷が新富町の氷室に送られ、市民に売り出されました。人造氷は明治16年(1883)、これも京橋区の新栄町に製氷会社ができたのが始まりだそうです。(『中央区史下』)
アイスクリームは幕末に外国人から伝わり、明治2年に町田房造という人が横浜馬車道通りに氷水店を開き、「あいすくりん」という幟を立てて売り出しました。(『牛乳と日本人』) ただ、外国人がまれに立ち寄るのみで大損をしたようです。アイスクリームを一般市民に売り出したのは明治12、13年(1879、80)ごろ、銀座の函館屋で、『中央区史下』では、おそらく日本で最初の店だと言っています。
函館屋の主人、信(しん)大蔵(1831-?)は、旧尾張藩士といわれ、榎本武揚に従って戦った函館五稜郭の残党で、明治9年(1876)京橋区尾張町二丁目九番地(現・銀座六丁目9-7あたりか)に富士山の形をした屋根看板をつけた氷屋を開業して大成功、函館の天然氷や牛乳を商い、後にはアイスクリームやその頃珍しい洋酒の一杯売りをしてバーの元祖ともいわれます。(内田魯庵『銀座繁昌記』、山本笑月『明治世相百話』など) 彼はビール樽のような太鼓腹、洋服に下駄履きといういでたち、客を客とも思わぬ豪語で銀座の奇人・名物男といわれました。内田魯庵は、函館屋の親爺の存在は銀座の誇り、店が無くなったのは銀座の損失とまで言っています。
信大蔵の孫が俳優の信欣三(1910-1988)です。長く名脇役として活躍、多くの映画・TVに出演しました。(彼は泰明小の卒業生です。) 彼の書いた文章『元祖アイスクリーム函館屋』には、「おじいちゃんは榎本武揚からお金を借りて函館屋を開いた」、「アイスクリームの作り方は、函館戦争時に幕府顧問のフランス人から教えてもらった」とあります。ところで、函館屋のアイスクリームのお味はどうだったのでしょうか。こう書いています。
「私の不幸は、アイスクリームは家のが一番おいしいと思って育ったものだから、未だに何処のお店のアイスクリームにも手が出ない、食べる気になれないことだ。」
なお、函館屋一族と信欣三の墓は谷中霊園にあります。
[写真上] 旧尾張町二丁目九番地あたり
[写真下] 谷中の「函館屋」(右)と「信欣三」(左)墓碑
[与太朗]
2011年6月30日 08:30
中央区内の町名・地名をタイトルにもつ芸術作品は数多ありますが、何といっても白眉は鏑木清方(1878-1972)の『築地明石町』でしょう。清方49歳、昭和2年の作品です。外人居留地だった明石町の風光は彼にとって理想郷のようなものでした。近海通いの商船のマストが林立し、水色ペンキ塗りの木柵には朝顔が絡んでいます。清方が遠く回想する明石町の立ちこめた朝霧の中に立つ夜会結び(いぎりす巻き)の髪の美人、幸田露伴の『天うつ波』の中に出てくるお彤(とう)という女性の俤を描いています。モデルは泉鏡花の紹介で門人となった江木ませ子、初秋の冷気に袖を掻き合わせるポーズは長女の清子をスケッチしています。ちなみに、「築地明石町」という町名はありませんが、画伯は「語呂と実感から敢てそう名づけた」と書いています。
この作品が第8回帝展に発表されたときの反響は大きく、帝国美術院賞を受賞、近代美人画の傑作として、また後に文化勲章を受章する清方の最高傑作として今なお多くの人を魅了し続けています。親友の鏡花は『健ちゃん大出来!』という文章を書き、この絵を激賞しました。(清方の本名は健一) 「・・・今度のはしみじみいいと感じました。何よりも実に優婉、清淑、いき、人がらな姿です。それに、胸のあたりに籠った優しさ、袖の情、肩のいろけ・・・」
清方は明治11年神田佐久間町に生まれ、昭和47年鎌倉市雪の下(現鏑木清方記念美術館)で亡くなります。引越し好きでその間30回以上転居していますが、1歳から17歳、22歳から34歳という幼・少・青年期のほとんどを現中央区エリアで過ごしています。生まれ育った環境がその後の清方芸術の基礎を築きあげました。また、『築地明石町』のほかにも区内住所と切っても切れない代表作がたくさんあります。『朝夕安居』『鰯』『築地川』などは幼少期の下町近所のありさまだし、『一葉女史の墓』は当時、築地本願寺にありました。『三遊亭円朝像』は京橋木挽町一丁目十一番地の
自宅(父條野採菊宅)での速記録のための口演の図。『小説家と挿絵画家』は木挽町一丁目十五番地の自宅での鏡花との初対面の様子。『一葉女史の墓』以外は中央区を離れてから描いたものです。(とくに『小説家と挿絵画家』は実に50年後の昭和26年の作) これだけ中央区と関わりの深い清方画伯、生前に制度があれば文句なしの「名誉区民」ですね。
ところで、この名作『築地明石町』ですが、個人蔵ということで、ここ三十数年美術展・回顧展などで公開されていません。生きているうちに何とかもう一度見たいと思っているのですが。
[ 写真上 ] 明石町河岸公園から佃大橋方面をのぞむ。
[ 写真中 ] 切手になった『築地明石町』。(1971 切手趣味週間)
[ 写真下 ] 「外人居留地跡」の説明板のある「聖路加病院前」バス停付近。