[下町トム]
2011年5月24日 08:30
〔晴海〕は今また新たに発展しつつある地域です。
この画像は豊海方面から晴海を望んだところですが、〔晴海トリトンスクエア〕の高層ビル群がよく見えます。これ以外にも、高層マンションなどが新しく増えつつあります。
晴海埠頭へ延びる広い道路は、街路樹が海への憧憬を表現しているかのようです。この奥にはかつて〝国際見本市会場〟があり、時代の最先端を表す実験空間として全国から注目されていたものです。
そもそも、晴海地区では、戦前「国際博覧会」(万国博)の開催が計画されていました。具体的なプランも完成し、一部チケットも売り出されたそうです。さらには、東京市役所(当時)の新庁舎建設計画もあったとのことです。
1940(昭和15)年に予定されていた万博開催計画は、結局戦火が近づく中、中止となりました。
万博会場のメインゲートあたりだったと思われる〔晴海三丁目交差点〕に立って、当時のことを想像してみます。おそらく今〔晴海大橋〕に続く道路のあたりに、中心的なパビリオンが建設予定だったはずです。もし博覧会が開催されていたら、この町はどのように発展したのでしょうか。
〝万博〟は夢に終わりましたが、その時に移動経路として計画された〔勝鬨橋〕は完成し、中央区の名物風景の一つとして親しまれています。中央区がこれからも時代の夢を語る土地であってほしいと願うばかりです。
[銀造]
2011年5月23日 08:30
このカテゴリーは歴史、文化、エリアは銀座で書いています。
新橋(新しく架橋されたという意味で名付けられた)の銀座8丁目に金春通りがあります。
そこには、能役者の金春太夫という方が住んでいて、お弟子さんに能を教えていました。
そこまでしか、説明板を読んでいませんでしたが、この屋敷跡地を借りて、芸事のお稽古を
行ったりしていたのが、金春芸者、今の新橋芸者のルーツだとの説明があります。
へえェ、新橋芸者とは新橋駅、烏森あたりのお姉様方かと思っていましたが、
銀座の芸者さんのことだったのですね.
ちょっと金春通りを歩いてみましょう。
7丁目方面へ行って左に曲がると見番通りです。
新しく作られた見番通りのプレート。
さて、実際の見番は何処にあるのかな? 辺りには、「東をどり」のご案内のポスターが。
Discover Ginza. Reported by Ginzo.
[ダンディ松]
2011年5月18日 08:30
土曜日の兜町は人通りも絶え、静かな雰囲気を漂わせています。江戸橋から兜町へと向う道すがら、日本橋川を臨む橋の袂には昭和5年に竣工した三菱倉庫がまるで河岸に係留されている大きな船のような姿を現します。
三菱倉庫を廻りこむように東証アローズへと歩を進めると、すぐ左手に現れる小さな社が「兜神社」です。首都高速の柱と橋げたに覆われるように佇むこの社こそ、この地が「兜町」と呼ばれる由来となった伝承が残されているのです。
そもそもの縁起が平将門の兜と言われているのですが、今からおよそ1070年ほど遡る頃の承平の乱で、藤原秀郷が将門の首を京へ運ぶ途中にこの地で将門の首に兜を添えたのですが、その際に兜だけを土中に埋め、そこに塚を造り供養したと伝えられています。そしてこの塚を兜山と呼び、この場所に神社が建ちいつしか岩だけが残ったのが一番古い伝承の話のようです。
その他、1050年代に起こった前九年の役で源義家が奥州征伐へ向かう途中にこの地の岩に兜をかけて戦勝を祈願を祈願したとか、1080年代の後三年の役で奥州から凱旋した源義家が東夷鎮定の祈願のため兜を楓川の辺に埋めてそこに塚を作ったとか、さまざま伝承が残っているのが「兜神社」です。
※楓川はかつて存在した川です。日本橋川の兜町付近で南へ分流し、これもかつての京橋川と桜川の合流地点に至る約1.2キロの運河だったのですが、昭和35年に始まった埋め立てでその姿は消滅してしまいました。
兜神社を後に、証券取引所(東証アローズ)の西側にある見学者受付の前を過ぎると、その角にいかにも昭和初期のレトロ感漂わせる建物が目に入ってきます。兜町のド真ん中、周囲の高層のビルの谷間に人知れず佇んでいるといった表現がぴったりの古き時代を思い起こさせるような建物なのです。
実はこの建物は現在もきちんと営業をしている「山二証券」で、見る方向によって3階建て、又は2階建てに見える趣ある建造物です。竣工時期は昭和11年ということですから75年前の歴史的建造物なのです。1階部分はおそらく御影石を積み重ね、2階、3階部分の外壁は煉瓦造りという凝った意匠。3階部分の丸窓はまるでバラ窓のようで教会のステンドグラスを思わせ、建物全体を覆う屋根瓦は適度な傾斜をもち見事なバランスを描きだしています。一瞬、ヨーロッパの旧市街の一角に迷い込んだような空間を愉しめます。
そしてこの山二証券の隣にもう一つ同じようにレトロ感を漂わす建物
があります。この建物も証券会社さんで、ちょっと前までは「成瀬証券」の看板が掲げられていました。建物全体は御影石を積み重ねた重厚感のあるどっしりとした造りが特徴です。竣工時期は昭和10年ですからこれも75年の歴史を刻んでいます。
現在はシンガポールの財閥系証券会社「フィリップ証券」と商号を変えています。正面ファサードは左右対称を基調にしたもので、いたってシンプルなデザインの中に直線の美しさと力強さを感じます。正面入口にはこれまたレトロ感を漂わす外灯が備わって、ファサードにアクセントを付けています。たまたま社員の方がいたのでお話を伺った
のですが、床は大理石ですかと聞いたところ、以前は木製の床だったのですが、コンピューターの普及によりランケーブルの配線を隠すため床を上げ、現代風の絨毯張りに変わったとのことです。それでも裏手の入口から中を覗くと、床は細かいタイルが敷き詰められ、木製の柱や上階へとつづく階段には70年以上の歴史を刻み込んだ「いぶし銀」の輝きを感じることができました。
古い建物が取り壊されモダンな姿に変わる大都会の中で、昭和初期の建造物がいまだ健在であることに感動を覚えると同時に、古いアルバムを見ているような懐かしさを感じた瞬間でした。
[滅紫]
2011年5月17日 09:30
雨の午後リバーシティの一角にある当資料館を訪れた。
ここは石川島播磨重工業(IHI)が創業の地であるリバーシティ21内に「造船所の創業から現在までとそれと深い関りを持つ石川島・佃島の歴史や文化を紹介した」資料館である。
展示資料の中に「寄場起立」(神宮文庫所蔵のコピー)があった。ご存知の通り長谷川平蔵が作成した「人足寄場設立の建議書」である。長谷川平蔵は池波正太郎の「鬼平犯科帳」で実在の江戸期の人物としては現代の日本人に最もよく知られている人気キャラクターであるが、彼は資料によれば御先手弓頭として1500石の家督を相続していた天明7年(1787)に火付盗賊改長官を加役される。「鬼平」誕生である。その職務の遂行の過程で軽犯罪人の更生の場の必要性を認識し寛政2年(1790)に上記建議書を提出し、寛政の改革に着手していた老中松平定信が採り上げ改革の目玉となった。建議書採用ー即実行!! で石川島と佃島の間の浅瀬を埋め立て人足寄場を建設。1792年には「人足寄場奉行」まで加役されている。寄場は16,030坪あり、ここに炭団製造場、紙漉き小屋、鍛冶屋小屋などがあり収容者は手に技術をつけて社会復帰した。他の資料によると「犯罪者の更生」という考え方自体が当時としては国際的に見てもとても新しいものであったらしい。平蔵は50歳で病没する(過労死?)直前の1795年まで長官を務めた。死後借金ばかりが残り、売りに出した屋敷は後に町奉行の遠山の金さんが住んだ!! とか。因みに1238坪あった平蔵の屋敷跡は都営新宿線の菊川駅の傍に碑があるそうです。
石川島の歴史は寛永3年(1626)に幕府船手頭石川八左衛門が隅田川河口の無人島を拝領して造成し屋敷地としたことに由来する。古くは鎧島、森島などと呼ばれていたが以後石川島と呼ばれるようになったとのこと。1792年には移転したので石川島全体が人足寄場の敷地となった。(IHI資料)
今、1866年に寄場奉行の清水純畸がつくった石川島灯台を模したモニュメントが跡に立っており、そばに人足寄場跡と記した説明板が立っている。
石川島資料館:中央区佃1-11-8ピアウェストスクエア1F
開館日:水曜・土曜10:00-12:00、13:00^17:00
TEL:5548-2571
[あうん(阿吽)]
2011年5月17日 09:30
海外からのビジネス客を想定対象として,充分な観光日程を確保しづらい彼らに『限られた短時間で「日本らしさ」を楽しんで貰える中央区』を追求したいと思います。
今回,浜離宮庭園を紹介するホームページに『外国の方を対象に、英語による庭園ガイド(無料)を行っております。土曜日/日曜日:午前11時』とあるのを見つけ,快晴5月14日(土)に事前許可を得ずに押しかけ同行をお願いしました。ボランティアガイドが客を案内散策する現場に私がお邪魔するという訳です。この日の当番ボランティアガイドはT氏。綺麗な発音の英語を流暢に話すT氏は,物流関係の会社で監査役を務められる,海外在住経験のある現役のビジネスパーソンの由です。50歳代とお見受けしましたが,その英会話力だけでなく,紳士然とした格好良い見目姿にも私は嫉妬させられました。
さて本番,私がT氏に同行許可を貰い終えた直後に来場した外国人男性4人組にT氏が"Good morning."と声をかけるや,先頭の相手が"No!"と言い捨てて通り過ぎました。T氏が私に解説するに『あれは私のことを礼金目当てと誤解しているのだ。発展途上国で特にありがちだけど,観光地には親切を装ってガイドをしたあげく,後からチップを要求する輩も居る。その類だと自分が間違われても,カッとしてはいけない。』 私は相づちを打ちながらも「T氏は"GUIDE FREE"と大書したプラカードを胸に下げるべきだ」と一旦は思い,「でも,これ見よがしな無料訴求がかえって怪しまれるかも」と思い直しました。
T氏は,次に来場した30歳代前半と覚しき男性にマンツーマンガイドを開始。彼は11時45分発の浅草行き水上バスに乗りたい由なので,「三百年の松」から「延遼館跡」,さらに「潮入の池」方向へとテンポ良く説明付き散策を進めますが,行程説明は割愛します。客人が語るに,2度目の来日で初回の昨秋は奥様と二人連れだった由,今回はビジネス目的で,水曜日に東京へ着き,明日の月曜日には香港へ飛び立つ由。外資系金融会社所属の由で,出張旅行中の息抜き観光という趣です。
庭園内の東屋にてT氏が指さす枡形城郭の復元模型の説明に聞き入る客人を見ながら,この復元模型のように過去の情景を視覚化して,今ここにある風景と対比しやすくする便宜・配慮は効果的だなと思いました。江戸時代の鷹狩りや明治時代の鴨猟などのCG動画を無線LANで飛ばして,客人は持ち歩くスマートホンやスマートパッドの画面の動画を見ながら鴨場にたたずむ,という時代が何年後かに来そうです。客人は庭園越しの高層建築に感じ入った風で,写真を撮っていました。伝統的な和風景と現代の対比が面白い様でした。金沢・兼六園,岡山・後楽園や島根県の足立美術館の庭園でも見られない,浜離宮庭園の売りなのかも知れません。
水上バス乗り場の浅草方面行きの切符券売機,画面操作の最初に右上の"ENGLISH"ボタンを押すと,以後は英語表示に従って切符を買えます。既知の方にとっては当たり前でしょうが,私は感心しました。