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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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鏑木清方 『築地明石町』をめぐって

[与太朗] 2011年6月30日 08:30

IMG_0480.JPG 中央区内の町名・地名をタイトルにもつ芸術作品は数多ありますが、何といっても白眉は鏑木清方(1878-1972)の『築地明石町』でしょう。清方49歳、昭和2年の作品です。外人居留地だった明石町の風光は彼にとって理想郷のようなものでした。近海通いの商船のマストが林立し、水色ペンキ塗りの木柵には朝顔が絡んでいます。清方が遠く回想する明石町の立ちこめた朝霧の中に立つ夜会結び(いぎりす巻き)の髪の美人、幸田露伴の『天うつ波』の中に出てくるお彤(とう)という女性の俤を描いています。モデルは泉鏡花の紹介で門人となった江木ませ子、初秋の冷気に袖を掻き合わせるポーズは長女の清子をスケッチしています。ちなみに、「築地明石町」という町名はありませんが、画伯は「語呂と実感から敢てそう名づけた」と書いています。

IMG_0489.JPG この作品が第8回帝展に発表されたときの反響は大きく、帝国美術院賞を受賞、近代美人画の傑作として、また後に文化勲章を受章する清方の最高傑作として今なお多くの人を魅了し続けています。親友の鏡花は『健ちゃん大出来!』という文章を書き、この絵を激賞しました。(清方の本名は健一) 「・・・今度のはしみじみいいと感じました。何よりも実に優婉、清淑、いき、人がらな姿です。それに、胸のあたりに籠った優しさ、袖の情、肩のいろけ・・・」

 清方は明治11年神田佐久間町に生まれ、昭和47年鎌倉市雪の下(現鏑木清方記念美術館)で亡くなります。引越し好きでその間30回以上転居していますが、1歳から17歳、22歳から34歳という幼・少・青年期のほとんどを現中央区エリアで過ごしています。生まれ育った環境がその後の清方芸術の基礎を築きあげました。また、『築地明石町』のほかにも区内住所と切っても切れない代表作がたくさんあります。『朝夕安居』『鰯』『築地川』などは幼少期の下町近所のありさまだし、『一葉女史の墓』は当時、築地本願寺にありました。『三遊亭円朝像』は京橋木挽町一丁目十一番地の IMG_0476.JPG自宅(父條野採菊宅)での速記録のための口演の図。『小説家と挿絵画家』は木挽町一丁目十五番地の自宅での鏡花との初対面の様子。『一葉女史の墓』以外は中央区を離れてから描いたものです。(とくに『小説家と挿絵画家』は実に50年後の昭和26年の作) これだけ中央区と関わりの深い清方画伯、生前に制度があれば文句なしの「名誉区民」ですね。

 ところで、この名作『築地明石町』ですが、個人蔵ということで、ここ三十数年美術展・回顧展などで公開されていません。生きているうちに何とかもう一度見たいと思っているのですが。

 

[ 写真上 ] 明石町河岸公園から佃大橋方面をのぞむ。

[ 写真中 ] 切手になった『築地明石町』。(1971 切手趣味週間)

[ 写真下 ] 「外人居留地跡」の説明板のある「聖路加病院前」バス停付近。

 

 

中央小学校・幼稚園にて

[ukiuki] 2011年6月30日 08:30

来年秋の完成をめざし、現在建て替え中の中央小学校・幼稚園。

工事をとりまく壁には、進捗状況と共に

「中央小学校・幼稚園 歴史館」の写真が。


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旧鉄砲州小学校の外観。


当時から三階建ての、立派な建物だったのですね。



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昭和初期の給食の風景。


お洒落な藤製のバスケットが素敵。



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同じく昭和初期の、

校庭での乾布摩擦。



「歴史館」は、他にも児童の写真や古地図なども。

文房具屋さんや駄菓子屋さんも近くにあったのですね。

 

今も品の良いご夫妻がやっていらっしゃる自転車修理屋さん、

アットホームな雰囲気の郵便局などがあります。

 

また、交通量が少ないこの中央小学校付近は

ふらっと歩きにもおすすめかと存じます。

 

 

 

小津安二郎も愛したやき鳥 ~伊勢廣 京橋本店

[ビッキー] 2011年6月17日 09:00

さて、先日竺仙さんにて浴衣の反物を選び、大満足の土曜の午後。

同じく、仕立てあがった浴衣と素敵な帯を手に上機嫌の上司とともに「今宵は『粋』にお蕎麦なんかどう?」と、もう初夏の夕暮れを楽しむ江戸っ子さながらの私たち!

ところが・・・日ごろから贔屓にしているお蕎麦屋さんは、どこもかしこもお休み。残念。

散々迷った挙句、江戸の『粋』つながりで、京橋伊勢廣さんへ向かうことに。竺仙さんからは少し距離がありますので、ここは地元の足・メトロリンクでLet's Go! 「京橋1丁目」で降りれば、お店はすぐそこです。本当に便利なバスですね♪

                       2011061117430000 Omise.jpg

こちらが外観。少し歩けば、八重洲、銀座にも近く、高層ビルの立ち並ぶ京橋に在って、ここだけはどこか懐かしい雰囲気を醸し出しています。

きけば、創業は大正10年。歴史を感じます。ちなみに原敬が東京駅で暗殺された年です(・・・若い人には分からないかな?)。


 

土曜の夜ということもあり、ほとんど予約でいっぱい。

2011061117490000 Yakite-san.jpgカウンターのお席でしたら・・・と伺っていたのですが、それは焼き手さんの目の前の「It's 焼き鳥屋!」とも言うべき最高のお席でした!(お席の前には、ガラスの仕切りがありますので、顔の前でモクモクする心配はありません)

いただきましたのは、12品のフルコース。「鳥一羽をまるごと味わう」という名目通り、食後には羽が生えてきそうなほど、鳥を味わい尽くすことができます!

火力の強い備長炭で焼き上げるため、1口も大きめ。ちまちましたのを好まない江戸っ子にはピッタリかもしれません。

笹身から始まり、鶏スープまで味わいつくして大満足の6,300円。もっとカジュアルに楽しみたいという方には、ランチがお勧め!お昼のフルコースは9本にスープがついて3,600円です。13:00から1時間限定の「3本丼」は、人気のもも肉、団子、笹身が乗って1,000円とこれまたお得!

 

2011061122170000 Kanban.jpg

お店の外に掲げられた立派な木彫りの看板。よく見ると、文字の外側をふち取るように彫られ、「伊勢廣」の文字が盛り上がった形になっています。

「店の名前がくぼむなんて絶対にだめだ!」という初代の店主さんのこだわりなんだとか。なるほど、江戸っ子らしい頑固さが伝わってきますね。


 

しかし、今回なぜ肝心の焼き鳥の写真が1枚もないのか・・・。カメラを構える前に焼きたてあつあつをすぐに食べたい私の性格がありありと出てしまいました!

なんだかんだ、私が一番江戸っ子なのかもしれません。かたじけない(笑)

 

伊勢廣 京橋本店

中央区京橋1-5-4 03(3281)5864

平日 11:30~14:00 16:30~21:00 土曜 16:30~20:30 日曜・祭日は お休みです

 

 

 

 

 

 

 

夏の準備はOK? ~日本橋 竺仙のゆかた

[ビッキー] 2011年6月14日 11:45

夏が来るたびに「あぁ、今年こそは浴衣を着ようかな。でももうだいぶ昔に仕立てたものだし・・・どうしよう」と、葛藤しながら、いつの間にやら秋を迎えてしまう私。

今年こそは!と一年発起し、数年振りに浴衣をあつらえることに!

 

2011061117100000 Omise.jpg訪れましたは、日本橋・小舟町の竺仙さん。1842年創業の老舗です。

1901年(明治34年)、公益社発行の『東京名物志』の一説。『「竺仙」の染物を着せざるなく、之を着せざれば、未だ以って通を談ずべからずと云ふ』ー竺仙を着たことのない者は、通を名乗ってはいけないとまで述べられています。竺仙さんがどれほどまでに世に認められていたのかが、よく分かります。


 

この一風変わった「竺仙」という屋号。なんでも、初代・仙之助さんの背が低く「ちんちくりんの之助」と呼ばれていたことに由来するのだとか。これを縮めて「竺仙」と命名したのが、歌舞伎役者の市川左團次ということからも、歴史を感じます。

 

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さてさて、ご挨拶を済ませますと、さっそく反物が次々に登場!どれもこれもとっても素敵です。

ベテランでいらっしゃるのにとっても気さくな児島さまが私の雰囲気に合うものを次々に見立ててくださいます。「あれも素敵」「これも渋くていいね」・・・どんどん目移りしてしまって、なかなか決められません(笑)


           2011061122170001 Shitate.jpg


お忙しいなか、代表の小川文男さまにもご挨拶させていただきました。五代目をおつとめ、粋な笑顔の江戸っ子さんでいらっしゃいます!

貴重なショットがこちら(緊張気味の私・・・)

仕立て上がりまでに、ひと月ほどかかります。素敵な浴衣になって戻ってきてね~!


 

さて その頃はもう梅雨明け♪ どこに着ていこうかな。盆踊り?演舞場で歌舞伎を観ようかな?

中央区は楽しい夏のイベントがいっぱいですからね!

みなさまも、地元・中央区の竺仙さんの浴衣で、「粋」な夏を迎えませんか?

 

株式会社 竺仙 http://www.chikusen.co.jp/ 

中央区日本橋小舟町2-3  (03)5202-0991

営業時間 09:00~17:00 土日祝・お休み

*7月までは土曜日も 営業されています                                                                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中洲 歴史発見 東都食通名家双六は郷土天文館にて

[銀造] 2011年6月12日 11:23

 今日は、箱崎のTCATから清洲橋方面を散歩。 あやめは見つけられませんでしたが、中洲では金刀比羅宮を発見しました。 

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鳥居の下にある記念碑には、

 中洲は江戸時代隅田川の浮き洲なりしを明治初年に埋立て此地に船玉、琴平宮が祀られ産業振興の神として廣く崇められたり。 しかし惜しくも大正12年関東大震災の為に烏有に帰し、再建の機運に至らざりし処、湯浅勘次郎氏の夢枕が機縁となり同士相諮り此地をトして四国琴平宮の御霊を遷座奉祀し廣く繁栄の守護神として茲に神殿を建立し奉る  昭和29年12月吉日 とあります。

 そもそも中洲の意味は、「川の中に土砂が溜まって島のようになっている場所」です。歴史は明和8年(1771)馬込勘解由により埋立てられ、浜町と地続きになる。安永元年(1773)中洲新地が竣工、1775年ごろに料亭などが立ち並ぶ歓楽街になる。 上流からの堆積物で隅田川は何度も氾濫typhoonが続いていた。 田沼時代の奢侈な時代。寛政元年(1789)老中松平定信が推し進める「寛政の改革」により、取り壊され葦の茂る中洲へ。 

 

安政3年(1856)から安政5年(1858)の間に、浮世絵師初代歌川広重が、「みつまたfujiわかれの淵」を描いていますが、この絵では葦が茂った中洲です。

明治初年(1868)に、上記の通り、琴平宮が祀られ、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で烏有に帰し、その後昭和29年(1854)に再建されたのですね。

この時の、ご寄進なさった方々のお名前を琴平宮の石垣???から拝見すると、

鳥居には、昭和29年 新田新作。石垣には、倉谷重次郎様ほか沢山の料亭ほか関係者のお名前が。聞いたことのあるお名前が多いし、日本橋地区の歴史も勉強できます。 中には現存するギネスブックに掲載された名前の料亭もありました。昭和31年に「東都食通名家双六」というのが発行され、本日6月19日現在、中央区立郷土天文館で開催されている「蔵出し これ!クション」で、当時の有名料亭など名前を見ることができます。 さて、あなたは、いくつご存知?http://www.chuo-museum.jp/webmuseum/search_result_list.do?stype=0&startNo=1&inputkeyword=%E6%9D%B1%E9%83%BD%E9%A3%9F%E9%80%9A%E5%90%8D%E5%AE%B6%E5%8F%8C%E5%85%AD&classes=history&classes=archeology

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お江戸万治の太夫・仙台高尾の悲話が伝わる「高尾稲荷神社」

[ダンディ松] 2011年6月10日 15:30

現在の中央区には、かつてお江戸の時代に「日に千両がおちる場所」があったのをご存知でしょうか。

いずれもたくさんの人が集ること場所であることから、大量の銭が使われることを意味しています。

そんな場所が下記の三ヶ所だったのです。

(一)日本橋河岸の魚河岸
(二)日本橋堺町・葺屋町の芝居町
(三)傾城町として栄えた吉原(新吉原)
※江戸で最初の芝居小屋は寛永元年に猿若座が京橋に櫓を上げた事が始まり、その後幕府の命により禰宜町(ねぎまち、現在の日本橋堀留町)、堺町(現在の人形町)へと移転している。


さて傾城町・吉原はもともと現在の人形町界隈にあったのですが、あの明暦3年(1657)の江戸の大火「明暦の大火(振袖火事)」の後、万治2年(1659)に現在の淺草裏へと移転したのです。そして万治2年には隅田川に最初に架橋された大橋(両国橋)がこの年の12月13日に竣工しています。


今日のお題「高尾稲荷神社」には、この万治2年に起こった新吉原の妓楼「三浦屋」の二代目太夫・仙台高尾の悲しいお話が伝わっています。私にとっての仙台高尾のイメージが今人気のテレビドラマ「仁ーJin」に登場する花魁「野風」とダブってしまいます。


落語の「仙台高尾/浮世床」のまくらで語られる一節。
「えー、ェッ、昔からこの、人は名を残したいと言う事を申しますが。まァ、ァーッあの人が何をしたと言う、名前が残ると言うのはこれはまァ、ァーッ、容易ではございませんが。えー徳と言うものが無いとまァ名は残らないと申しますが。花魁なぞで、ェーッ、名を残したのが随分ございますが。えー、昔はこのォ、ォーッ吉原では松の位なんと言いまして、え大変見識を売りましたものだそうで。でお客様の方も、ォッ高い金を払って、その見識を喜んで買いに行ったと言う。」なんて調子で始まる噺ですが......。

DSC02604.JPGこの噺を要約すると、仙台六十二万石伊達綱宗が三浦屋の万治の二代目高尾、いわゆる仙台高尾を身受して、のちに芝の下屋敷へ舟で連れていく途中、三つ又(隅田川の現在の清洲橋と永代橋の間にあった砂洲)で吊るし斬りにしたという巷説があるんですね。(左:現在の三ツ又付近)
高尾には島田重三郎という情人があったので綱宗のいうことを聞かず、意地になった綱宗が高尾の体重と同じ重さの黄金二十貫で身請けしたという俗説もあります。

高尾の遺体が数日後、この地大川端(隅田川)の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構えていた僧が居合わせて引き揚げ、手厚く葬ったといわれます。高尾の不憫な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て、彼女の神霊・高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたというのが当社の起縁です。
稲荷社としては全国でも非常に珍しいことに、現在この社には実体の神霊(実際の頭骸骨)が祭神として安置されているのです。

DSC02586.JPG高尾稲荷の場所(中央区日本橋箱崎町:IBM社屋のすぐそば))
明治のころ この地には稲荷神社および北海道開拓使東京出張所(後に日本銀行開設時の建物)があったそうです。 その後現三井倉庫の建設に伴い社殿は御神体ともども現在地に移されました。

高尾が仙台侯に贈ったといわれる句
「君は今駒形あたり時鳥(ほととぎす)」

尚、仙台高尾の墓は台東区淺草の春慶院(浄土宗)の檀家墓地の入口の脇に置かれています。