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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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日銀短観・・・ならぬ 日銀探検!

[ビッキー] 2011年5月12日 08:30

さてさて、前回の「証券取引所見学」に続き、今回は日本銀行の見学に行ってまいりました。憧れの重要文化財の内部に潜入!ということで、ワクワク&ドキドキです。

                                                                                        こちらの見学は完全予約制。1週間前までに電話にて予約を済ませると、こんな書類が届きます。これを手に、いざ日銀へ!

2011051010170000.jpg

 

 

2011051012110000.jpgこちらは、西門を入って直ぐのショット。本館の玄関に当たります。奥に聳えるは日本橋三井タワー。


2011051012100000.jpg 玄関前にある水道。これはその昔、馬車で来る人も多かったために設置された、お馬さん用の水飲み場です!時代を感じます。(ちなみにまだ水はちゃんと出ますが、飲んじゃダメ!)

やはり明治29年に建てられたお国の重要文化財だけあって、内部撮影は完全NG。入り口には金属探知機(ゲート)もあります。

 

まずは20分ほど日銀の役割などについてビデオ鑑賞。その後いよいよ建物見学へ出発。

 

1階の旧営業場。現在は震災による影響で節電中のため、かなり薄暗いです。吹き抜けの天井はかつては天窓になっており、一杯の太陽光が降り注いだそうですが、関東大震災によって大手町で発生した大火災の火の粉が飛んできてドーム部分を焼いてしまったことから、それ以降は天窓を覆っているのだそうです。ちなみに関東大震災においては、ドーム部分が火事に遭った以外は大きな損傷は無かったそうです。辰野金吾、恐るべし。

 

2階には その長さから江戸城の大廊下になぞらえた「松の廊下」と呼ばれる廊下があり、歴代の総裁の肖像画が飾られています。全ての肖像画が屋内で椅子に腰掛けた状態で描かれているなか、第16代総裁・渋沢敬三(渋沢栄一の孫)のものだけは、屋外で描かれています。これはちょうど大戦中に在任(1944年に就任)した渋沢氏が、焼け野原になった東京の姿に心を痛め、これを現実として記録に残したいと、自ら日本橋の荒野を背景に選び描かせたのだそうです。

 

さて、いよいよ地下金庫へ!

 

まず圧巻なのは入り口の扉。アメリカ製・厚さ90㎝の金属扉は、どんな天災にも耐えられそうな風格があります。かつて紙幣の移動に使われていたトロッコのレールの跡や、関東大震災の火災の消火のために流された水の跡といわれる滲みなど、どこを見ても歴史の重みが。壁・床には無数の通気孔があり、お札の状態を保つ役割を果たしていました。しかしこの通気孔、万が一の盗賊の被害に備えて、近くの日本橋川から水を引いてきてこの穴から水を流し「盗まれる前に貨幣を水没させる」という大胆な構想を練られていたのだとか!実際に水を引くことはなかったそうですが。

 

賞味1時間ほどで見学は終了。少し急ぎ足な印象はありましたが、案内係のかたの説明は明快でとても楽しいものでしたよ!

その後は お向かいの「貨幣博物館」へ。昔のお札に「わ~懐かしい!」とこれまたテンションが上がります(笑)。1億円を持ち上げてみるコーナーなどもあり、無料で楽しめ勉強にもなります。日銀とセットでの見学がお勧めです。 2011051013090000.jpg   2011051013130001.jpg  

 

さて、見学の「お土産」として渡された資料たち。その中にとても興味深いものが!左下の小さなパックの中に入っているのは・・・「使用済みのお札のくず」。日銀ならではの粋なお土産に大満足!

 2011051110200000.jpgのサムネール画像

日本銀行本店見学 http://www.boj.or.jp/about/services/kengaku.htm/

細かいスケジュールなどはホームページをご参照ください。なお震災による節電の影響で、7月以降は見学を中止されるようですのでご注意ください。

 

 

 

〔海水館〕跡から〔相生橋〕へ

[下町トム] 2011年5月11日 23:59

月島駅1番出口を出て晴海運河のほうに少し歩くと、晴海運河の堤防脇に〔海水館〕の記念碑が建っています。


海水館の石碑.JPG


説明版によると、1896(明治29)年に、新佃島が造成された後、明治末から大正にかけてこのあたりに〔海水館〕が建っており、風光明媚なビュースポットとして多くの文人墨客に愛されたということです。島崎藤村や小山内薫、竹久夢路などの有名な文化人も訪れたり創作活動をしたようです。


当時は、当然ながらここから先は海でしたから、遠く房総半島を望むリゾートのような感覚を味わえたのではないでしょうか。

晴海運河を望む.JPG

今、同じ場所から海のほうを見てみると、江東区豊洲地区の高層建築物が見えるばかりです。



海水館付近の案内板.JPG



でも、ここから佃にかけての川沿いには散歩道が整備されており、川風に吹かれて歩くのも気持ち良いものです。佃島の外周を歩いて〔中央大橋〕から新川方面へ渡るもよし、そのまま〔住吉神社〕あたりを通って月島駅に戻るのもよし、というところでしょうか。



相生橋を望む.JPG

〔海水館〕跡から〔清澄通り〕に出るあたりからは、江東区越中島につながる〔相生橋〕が望めます。橋の途中に小島が見えますね。実は〔相生橋〕はもともとは連続した2つの橋の総称だったのです。
小島には同根から生える〝相生の松〟というのがかつてはあったそうで、それが名前の由来とも言われています。


リバーサイドの散策のついでに様々な景色を楽しんでみてください。

 

 

◆中央区 ここに歴史あり<31>~写楽がやってきた 八丁堀に住んだ謎の浮世絵師~

[巻渕彰/写楽さい] 2011年5月 9日 08:30

世界3大肖像画家の一人とも称される「写楽」――突如現れ、10ヵ月間で活動を終えた。その正体は誰か、別人説が飛び交った、謎の絵師と言われるゆえんである。いま、写楽を取り巻く話題で賑わっている。

 

0913_31_110506_sharaku.jpg東洲斎写楽を探せ! と研究者たちは競い合ったが、そもそも、浮世絵師の略伝を記した『増補浮世絵類考』に斎藤月岑(神田雉子町名主、「江戸名所図会」「東都歳事記」など編纂)が書き添えた、

「天明寛政中の人。俗称斎藤十郎兵衛。居、江戸八丁堀に住す。阿波侯の能役者也。廻りに雲母を摺りたるもの多し」

というのが、定説になってきている。

 

住んでいたとされる八丁堀の場所は、地蔵橋であることが、その後に見つかった『諸家人名江戸方角分』に記載されているという。また、斎藤家の菩提寺の過去帳でも確認されている。家系が喜多流の能役者であったことも分かったそうだ。

 

地蔵橋は、八丁堀与力同人組屋敷地の中心辺りに位置し、亀島川からの大下水の堀割に架けられた橋で、現在は茅場町二丁目と三丁目の丁界付近である(上図の切絵図丸囲み部分)。

 

東京国立博物館では、特別展「写楽」(写真下)が開かれている(6月12日まで)。写楽の作品は同展図録では146点とし、そのうち142点が出品されて、同時代の別の浮世絵師が描いた絵との比較ができる興味ある展示だった。千葉市美術館「ボストン美術館浮世絵名品展 錦絵の黄金時代清長、歌麿、写楽」も、逸品が揃っている展覧会である(6月5日まで)。

 

NHK BSプレミアム(BS103)「在外秘宝シリーズ」の番組宣伝によれば、5月11日(水)午後9:00~10:30 (3)「徹底分析・写楽全作品~浮世絵版画・全145枚が語る美の秘密~」として、全145枚のうち3分の1が海外にある在外秘宝で、全図の魅力を解き明かしていく、という。5月12日(木)午後9:00~10:30 (4)「写楽・解かれゆく謎~ギリシャの浮世絵が語る正体~」では、2008年ギリシャ・アドリア海の島で、写楽肉筆の扇面画が発見された。急変する画風、忽然と消えた謎、写楽の真実に迫る。●巻渕彰

 

 

 

明治座で16年ぶりの歌舞伎公演

[下町トム] 2011年5月 7日 08:30

明治座(3).JPG中央区にある名物劇場の一つ、〔明治座〕で今月3日から『花形歌舞伎』が上演されています。

〔明治座〕で歌舞伎が上演されるのは何と16年ぶりのことだそうです。随分久しぶりなんだなぁと改めて思いますが、建替え中の〔歌舞伎座〕や〔新橋演舞場〕とはまた趣の異なる同劇場で歌舞伎を楽しむのもまた味わい深いと思います。

 

明治座5月公演チラシ.JPG

ご存知の方も多いと思いますが、〔明治座〕は、1873(明治6)年に〔喜昇座〕として開場し、〔久松座〕〔千歳座〕と改称・改築を重ねながら、〔明治座〕となってからも戦災や火事で建替えを余儀なくされました。

現在の地に新築オープンしたのは1993(平成5)年です。浜町公園に続く緑道にも映える立派な建物です。

明治座(4).JPG

 

逆に人形町方面へ歩くと、途中に〝弁慶の像〟があります。ご存知「勧進帳」の有名なシーンですね。このあたりが歌舞伎をはじめとする演芸で賑わってきた歴史の証です。弁慶像.JPG

 

芝居の帰りには散策を楽しんだりおいしいものをいただいたり、この界隈の奥深さを堪能してみて下さい。

 

 

明智光秀と佃煮

[ジミニー☆クリケット] 2011年5月 7日 08:30

先日sun、佃島をぶらぶらした折、醤油を煮詰める甘い香りに引き寄せられ、佃煮屋さんに入りました。

 

3軒あるという老舗の中で、お店に入ったのは天安本店さん。私が買ったのは「かつを角煮」、「あさり」、「きゃらぶき」(各100g、お値段は各々700円、700円、350円)です。

どれも素材の味がしっかりしていてとてもおいしく、ごはんがやたら進んでます。

tenyasu.JPG

 

downwardleft 天安本店さん

 

 

 

 

 

 

 

 

tukudagen.JPG

 

同じ並びにある佃源田中屋さん  downwardright

 

天安本店さんも佃源田中屋さんもお店の脇の細い路地が味わい深いです。

 

 

annai.JPG  


downwardleft 付いていた案内書き「佃の地名と佃煮の物語り」によれば、佃島を作ったのは、佃村(今の大阪市西淀川区佃町)の漁師さんなのですが、その漁師さんたちを江戸に呼び、石川島に近い島を居住地として与えたのは、徳川家康だそうです。


 

  そもそも、佃村の漁師さんと家康との関係は、あの明智光秀が織田信長を討った本能寺の変が起こった時(1582年)に始まるとのこと。

 

 

当時、わずかな手勢で堺にいた家康は、信長と盟友関係にあったため、危険を察知してただちに三河への脱出を試みるのですが、その時、脱出用の船の調達などに献身的に働いてくれたのが佃村の漁師さんだったそうです。

 

江戸での漁業権を与えられ、江戸城へ白魚などを献上して生計を立てていた佃村の漁師さんが、自分たちの保存食にと作り始めたのが佃煮の発祥とのことです。

 

明智光秀と佃煮の間には意外な関係があったんですね。

 

なにはともあれ、ごはんの親友、佃煮の誕生にgoodsign01

 

 

徳川家康と共に                  

[浜太郎] 2011年5月 6日 09:15

日本橋小舟町を散策中「伊場仙」という扇子屋さんを見かけ浜松市出身の自分にとり、屋号から、ひょっとして浜松市伊場町と何らかの関係があるのではないかと疑念と好奇心にかられ、調べたところ案の定、遠州伊場村(現在の浜松市伊場町)の出身。吉田誠男社長は現在14代目、天正18年(1590年)家康と共に江戸入府、以来420年の歴史を誇る老舗であることが判明。幸いにも先日、吉田社長に直接お会いする機会を得、当時の状況を伺い知ることが出来ました。

 

創業者伊場屋勘左衛門は元々愛知県岡崎市(徳川家発祥の地)の出身。勘左衛門の父親と家康とは生業の土建業を通じ懇意な間柄だった様です。

家康の岡崎城より浜松城への進攻の際には勘左衛門も同行し一助を担い、家康の江戸入府時は勘左衛門を始め気心知れた三河、遠州、駿河の職人を何千人と引連れ、築城、河川、荒地の埋立、干拓に当たらせ町整備に貢献したそうです。

元禄の頃は御用商人として苗字帯刀を許され、吉田の姓を授かり、土建業から紙、竹材を扱うようになりました。江戸後期にはその素材を生かし江戸扇子、団扇を扱い始め、浮世絵の豊国、国芳、広重の版元としてその名を江戸市中に広めました。

扇子は将軍、大名から大奥に至るまでの重要な必需品として、又団扇片手に粋な町人が花火見物する姿を想像し、江戸文化の繁栄の礎になったのではないかと思います。

 

「伊場仙」は現在デパートを中心に展開、伝統を守る江戸扇子を扱うのは東京では唯一とお聞きしました。今年は特に節電の夏を向えます。

江戸情緒の味わえる「伊場仙」の扇子、団扇をお一ついかがですか。

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